「間違った大義を拒む」
勇者という言葉は、便利すぎる。
人はそこへ、あまりにも簡単に意味を詰め込む。
正義。
討伐。
救済。
希望。
何かを断じたい時。
誰かに剣を振るわせたい時。
あるいは、国や信仰の都合に合わせて“分かりやすい旗”を立てたい時。
勇者という名は、あまりにも使い勝手がいい。
だからアシュレイは、昔からその呼ばれ方が少しだけ苦手だった。
感謝されるのが嫌なわけではない。
守るべき人がいることも分かっている。
剣を取る意味があることも、十分すぎるほど知っている。
だが、**「勇者だからこうあるべきだ」**と、先に形を決められると、どうにも息が詰まる。
その名前の中へ押し込まれた瞬間、自分が何を見たか、何を感じたか、何に迷ったかが後回しになる気がするのだ。
そして今、その息苦しさはこれまでで一番はっきりした形を取っていた。
白き王ルシエルはいた。
終王クロウと向き合った。
七柱は災厄だけではなかった。
それを見た上でなお、連邦の中には**「勇者が斬れば済む」**という方向へ話を戻したがる者たちがいる。
その雑さに、アシュレイは静かに腹を立てていた。
---
連邦前進拠点の朝は、少し冷え込んでいた。
石造りの訓練場には、夜の名残みたいな薄い霜がまだ残っている。
兵たちの朝稽古はすでに始まっていたが、中央の一角だけはなぜか妙に空いていた。
アシュレイがいるからだ。
勇者の周りには、自然と人が近づきにくい空間ができる。
威圧しているわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ、そこへ軽々しく踏み込むべきではないという空気が、勝手に生まれてしまうのだ。
彼は木剣ではなく、本物の剣を腰に下げていた。
抜いてはいない。
ただ、その重みを確かめるみたいに片手を添えている。
(面倒だな)
心の中で、またそう思った。
最近、この感想が増えた。
たぶん、あの終王のせいでもある。
クロウは本当に、心の底から面倒くさそうにしていた。
門前でも、接見でも、白き王と向き合う時でさえ、どこかずっと**「厄介だな」**という顔をしていた。
そのくせ、逃げなかった。
嫌そうにしながら、結局は一番重い場所へ立ち続けていた。
それを見たからか、自分も最近は、状況に対して変に言葉を飾らなくなってきた気がする。
面倒だ。
本当に面倒だ。
見たものをそのまま言えば済む話なら、こんなにこじれない。
だが、見たものをそのまま言うことが、国や教義や秩序を揺らす。
その重さがあるから、みんな遠回りする。
そして、その遠回りの途中で**「勇者が斬ればいい」**という雑な答えが出てくる。
それが気に食わない。
「勇者殿」
訓練場の端から声がした。
振り返らなくても分かる。
異端審問局の人間だ。
「何だ」
アシュレイはそのまま答える。
近づいてきたのは、以前も門前関連の伝達を持ってきた審問官だった。
無駄のない黒白の法衣。
感情を抑えた顔。
いかにも**役目で来ています**という感じの男だ。
「グラウス長より、お伝えしたいことが」
「ここで聞く」
「…では」
審問官は一礼し、抑えた声で続けた。
「白き王および終王に関する現状は、連邦の秩序維持上、極めて不安定です」
「知ってる」
「ゆえに、勇者殿のお立場を明確にしていただきたい」
そこでアシュレイは、ようやく審問官の方を見た。
「明確に?」
「はい」
「少なくとも、“討つべき時には討つ”という意思表示を」
来たな、と思う。
分かりやすい。
そして予想通りだ。
強硬派からすれば、いま一番欲しいのは勇者の剣だろう。
教義は保留。
法王は慎重。
聖女も断定を避ける。
なら、勇者だけでも**いざとなれば斬る**と表明させたい。
それで連邦の空気を一気に引き戻したいのだ。
「断る」
アシュレイは即答した。
審問官の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「理由を伺っても」
「見たからだ」
短い返答だった。
だが、それで十分だった。
「白き王も終王も、見た」
「その上で、“今すぐ討つべき相手です”なんて言えるほど、俺は都合よく勇者じゃない」
審問官は顔を変えない。
だが、引くつもりもないのだろう。
「勇者殿」
「連邦は、あなたに個人の感覚以上のものを期待しています」
「知ってる」
「ならば」
「だからって、見たものに反する旗は持てない」
そこで、ようやくアシュレイの声が少しだけ硬くなった。
「俺が見たのは、ただの災厄じゃない」
「脅威ではある。王だからな」
「でも、“勇者が斬れば正義になる類の敵”でもない」
訓練場の空気が、しんと静まる。
朝稽古をしていた兵たちの掛け声まで、どこか遠く感じた。
冷えた空気の中で、その言葉だけが妙にはっきり残る。
「…それが、勇者殿のご回答ですか」
「そうだ」
「長にそのまま」
「そのまま伝えろ」
審問官は一礼し、それ以上は何も言わずに去っていった。
その背を見送りながら、アシュレイは胸の奥にずしりとした重さを感じていた。
言った。
はっきり言った。
もう、自分は**討てと言われたから討つ勇者**ではいられない。
それは正しい。
だが、正しいからといって楽になるわけではなかった。
---
「ずいぶんはっきり言いましたね」
少し遅れて、リュミエラが訓練場の端から歩いてきた。
「聞いてたのか」
「途中から」
彼女は苦笑に近い表情を浮かべる。
「勇者らしいと思いました」
「そうか?」
「はい」
「でも、昔の“勇者らしい”とは少し違います」
それは自分でも分かる。
前の自分なら、もっと迷っていたかもしれない。
国のため。
秩序のため。
勇者としての役割のため。
そういう言葉に、もう少し強く引っ張られていた気がする。
だが今は違う。
「見たからな」
アシュレイは低く言う。
「ええ」
「見たものを無視して、勇者って看板だけ使われるのは嫌だ」
「それでいいと思います」
リュミエラの声は静かだった。
「私も、聖女という名で先に意味を決められるのが、少し怖くなりました」
その言葉に、アシュレイは少しだけ目を細める。
「そっちも大変だな」
「はい」
「かなり」
二人の会話は短い。
だが、以前よりずっと噛み合っていた。
勇者と聖女。
連邦において最も意味を乗せられやすい二人が、今はむしろ**意味を押しつけられたくない**側へ寄っている。
それはかなり大きい。
---
その日の昼、アシュレイは法王庁の小会議室へ呼ばれた。
中にいたのは法王ユリオス十三世と、グラウスだけだ。
あまり愉快な顔合わせではない。
「勇者」
法王が穏やかに言う。
「はい」
「今朝のやり取りは聞きました」
「そうですか」
「ええ」
法王の声に責める色はない。
むしろ、どこか静かな疲れの方が近い。
「グラウスは、あなたが断定を拒んだことを危ういと見ている」
アシュレイは黙ったまま、グラウスを見る。
異端審問長は表情をほとんど変えずに口を開いた。
「危うい、では足りません」
「連邦の剣が曖昧になる」
「白き王が何者であれ、人の時代の外にある王権です」
「終王もまた同様」
「ならば勇者は、人の側の線を示すべきだ」
理屈は理解できる。
それは連邦の秩序を守ろうとする者の言葉だ。
だが理解できることと、従えることは別だった。
「線なら示してる」
アシュレイは言う。
「何ですと」
「俺は“見たものに反する大義には乗らない”って線を引いた」
グラウスの視線が鋭くなる。
「勇者が個人の判断で秩序を選り分けるつもりか」
「個人の判断じゃない」
アシュレイは低く返す。
「現地で見て、感じて、剣を抜くべきかどうかを考えるのが勇者だろ」
「最初から結論だけ渡されて、それに合わせて斬るなら、ただの処刑人だ」
その言葉で、法王がごくわずかに目を伏せた。
グラウスは沈黙する。
怒っている。
だが、反論もまた簡単ではない。
勇者とは何か。
その問いに対して、アシュレイの答えはかなり本質を突いているからだ。
「私は」
グラウスがゆっくり言う。
「連邦の秩序を守りたいだけです」
「分かってる」
「なら」
「でも、守りたいからって見たものを雑に切っていいとは思わない」
また沈黙が落ちる。
気まずい。
重い。
だが逃げる気にはならない。
もう、ここは越えなければならない段だ。
「グラウス」
法王が静かに言った。
「勇者は、我らの都合で振るう刃ではありません」
「しかし猊下――」
「そして勇者」
今度はアシュレイを見る。
「あなたもまた、自分が見たものだけで連邦の全てを切り離してはならない」
その言葉に、アシュレイは少しだけ息を吐いた。
それは正しい釘だった。
「…分かっています」
「ええ」
「だからこそ、あなたは“拒む”だけで終わってはなりません」
「はい」
「見たものを、どう人の側へ持ち帰るかまで考えなさい」
それは厳しい命令だった。
だが、勇者としては正しい。
見た。
違うと思った。
だから拒む。
それだけでは足りない。
見た上で、なお人の側にどう立つか。
そこまで引き受けて、ようやく勇者なのだ。
「承知しました」
アシュレイははっきり答えた。
---
会議のあと、法王庁を出たアシュレイは中庭でしばらく立ち止まった。
曇った空の下、白い石畳が冷たい。
どこか北方の門前に少しだけ似ている気がして、自分で苦笑する。
似ていないのに、似ている。
そういう感覚も最近増えた。
(見たものを、どう人の側へ持ち帰るか、か)
面倒な宿題を渡された気分だった。
だが、たぶん必要な宿題でもある。
白き王をただの災厄と呼べない。
終王も、斬れば終わる敵ではない。
なら勇者として自分は、その**違う**をどう人の言葉に変えるのか。
そこを引き受けなければ、結局また誰かが雑に名を置く。
「難しいな」
ぽつりと漏らす。
「はい」
横から返事がして、アシュレイは少しだけ肩を揺らした。
「…いたのか」
「今来ました」
リュミエラが静かに隣へ立つ。
「難しいですね」
「そっちもか」
「ええ」
「私も、“名を置かない”だけで終わるわけにはいかないんだと思います」
その言い方は、法王の言葉とよく似ていた。
「結局、受け止めるだけじゃ足りないんでしょうね」
「だろうな」
「でも、押しつけたくもない」
「面倒だな」
「はい」
二人して、少しだけ苦笑した。
勇者と聖女が同じように**面倒だ**と思っている。
連邦らしくないが、今の連邦にはむしろそれくらいがちょうどいいのかもしれない。
---
夕刻、連邦から黒翼庭へは新しい通達は出なかった。
それ自体が、一つの答えだった。
断定はしない。
だが、勇者も聖女も簡単には敵認定へ乗らない。
その静かな停滞が、いまの連邦の精一杯なのだろう。
黒鴉城ネヴァーグレイヴの小会議室で、ヴェルミリアはその**何も来ないこと**を報告に含めた。
「連邦、表向き変化なし」
「ですが」
「勇者殿は本日、強硬派へ明確に線を引いた模様です」
クロウは小さく息を吐いた。
「…そうか」
「はい」
「ましだな」
「かなり」
それは本音だった。
アシュレイがまだ**討てと言われれば討つ剣**のままだったら、いまの連邦はもっと危うい。
だが、もう違う。
見たものを裏切らない。
その一点で、彼はかなり勇者らしくなっている。
「勇者は」
クロウが記録板を見たまま言う。
「討てと言われたものを討つための剣じゃない、か」
ヴェルミリアがわずかに目を細める。
「はい」
「それは、陛下もお認めになりますか」
「…ああ」
短く答える。
「少なくとも今は、そう見える」
そこまで言って、クロウはほんの少しだけ口元を緩めた。
「面倒な奴だが」
ヴェルミリアは静かに一礼する。
「陛下にそう言われるなら、かなり高評価かと」
「そうでもない」
そう返しながらも、完全には否定しない。
討つ勇者から、間違った大義を拒む勇者へ。
それはクロウの側から見ても、ちゃんと並べるだけの成長だ。
---
夜。
中庭の石畳を歩きながら、アシュレイはふと剣の柄へ手を置いた。
剣を抜かない。
それは弱さではない。
抜くべきでない時に抜かないためにも、剣は必要だ。
振るわぬ時間があるからこそ、いざ振るう時の意味も重くなる。
そして、いざ抜くなら**誰かに渡された雑な正義**のためではなく**見たものの先で自分が選んだ線**のために抜きたい。
それが今日、自分の中ではっきりした。
「勇者、か」
小さく呟く。
昔より、その呼び名が少しだけ重く感じる。
だが同時に、前より逃げたくはなくなっている。
勇者は、間違った大義を拒む。
そのために必要なら、国の空気に逆らってでも立つ。
守るべきものを守るために、
“守るふりをした雑な正しさ”を切り捨てる。
その覚悟が、ようやくアシュレイの中で形になり始めていた。
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