第139話 お帰りなさい
地下格闘場の瓦礫を蔓が押し上げ
破壊された通路を伝って
地上へと現れた時也の姿は
まるで修羅場から抜け出してきたとは
思えないほどに、静かで品があった。
その身に纏う着物の裾には煤がわずかに付き
袖の一部が裂けてはいたが
それすらも一幅の絵のように見せるほどに
彼は〝整って〟いた。
群がる野次馬達は
破裂音と振動に駆けつけた地元民か
あるいは元観客か──
ごった返す視線の先
瓦礫を吹き飛ばして地上に抜けたその男を見て
誰もが一斉に息を呑んだ。
「──な、何だ⋯⋯!?今の地響き!?」
「お、おい!あれ見ろ、あの服⋯⋯!
あいつ、さっきの会場の中にいた──」
「どうやって⋯⋯どうやって、無傷で⋯⋯?」
ざわめきが広がる中
時也は一つ、扇子を袂から取り出した。
紅に染めた竹骨に、薄桃色の絹が貼られた
季節外れの〝桜〟の意匠。
その扇子をゆるりと広げ
まるで品のある貴族のように首筋に風を送る。
火照った肌に風が滑り、ふわりと髪が揺れた。
そして。
「皆様、どうか──もっとお下がりください」
時也の声は、決して大きくはなかった。
だがその瞬間
空気の流れが──変わった。
何も起きていない。
ただ、彼が言葉を発した、それだけ。
それなのに
周囲にいた全ての人間が本能的に感じ取った。
─それ以上近付けば、死ぬ──と─
柔らかく、静かに響く声。
その奥に潜む、禍々しさすら含んだ静けさ。
怒ってもいない。
威嚇してもいない。
だというのに
誰もが〝そこにいるべきではない〟と理解した。
「ひっ⋯⋯」
「⋯⋯あ、あぁ⋯⋯」
一人また一人と、足を引き摺るように後退する。
誰かがぶつかって転び
別の誰かが押されて走り出す。
やがて押し合いへと変わり
軽いパニックが街路に広がった。
その中央
時也はただ微笑みのまま、扇子を優雅に畳んだ。
夜風が、彼の袖を揺らす。
「⋯⋯これで、準備は整いました。
あとは──貴方が存分に破壊してくだされば」
彼の瞳が
静かに揺らいだ地下の空間へと向けられる。
そこにはまだ、もう一人の修羅が在った。
暴れ足りない獣の気配が
真っ直ぐに、地上に届いていた。
静まり返った空気の中。
野次馬たちが半ば逃げるように離れ
時也が一人
崩壊の気配を見下ろすように立っていた
その刹那だった。
「──ッ」
突如として、地面が〝沈む〟音が響いた。
それは、爆発でも、崩落でもなく。
まるで大地が〝喰われる〟ような異質な沈降音。
時也の足元のすぐ先──
舗装された路面に深く、太い亀裂が走る。
瞬間、轟音と共にその一帯が崩れ落ちた。
街の倉庫区画。
闇に溶け込むように
立ち並んでいた鉄骨の建物が
重力に引かれるまま、奈落へと沈んでいく。
「⋯⋯っ!」
その光景に、周囲の者達が絶句した。
天を衝くように
地の底から生え出るものがあった。
鉄筋を突き破り
コンクリートを喰い破って現れたのは
大樹──
時也の植物操作によって支柱を侵食し続けた根が
ついに地上へと突き抜けた姿。
幹は太く、艶のある黒い樹皮に包まれ
枝葉は裂けた空に拡がるように
四方八方へと伸びていく。
その姿は破壊の象徴であると同時に
一つの〝創世〟のような荘厳さを纏っていた。
そして。
その枝の一つが大きくうねりながら空を切り裂き
まるで見せつけるように
時也の前方へとせり上がってくる。
その枝に、何かが〝ぶら下がって〟いた。
「⋯⋯⋯」
枝を掴み
瓦礫と土埃に塗れた身体を引き上げながら
そこにいたのは──
ソーレン。
重力の操作によって
自身を護る障壁を瓦礫の嵐から維持したまま
蔓のように伸びた大樹の枝に捕まり
悠々と、だが確実に
地上へと這い上がってきていた。
髪に土がつき、肩に微かな傷を負いながらも
その目は獣のように鋭く
まだどこか火照っている。
やがて
足が地面を掴み、着地の衝撃に膝を沈める。
重力が解かれ、空気がほんの僅か震えた。
その姿を、時也は静かに見つめていた。
一切の驚きもなく。
まるで、それが当然の結末であったかのように。
そして
扇子を閉じ、ゆるりと片手を上げて微笑む。
「⋯⋯お帰りなさい。お疲れ様でした」
その声音は、地下で死線を共に潜り抜けてきた
者に向けたものではなく──
日常の帰宅者に向けるような
何気ない、けれど深く通じ合った挨拶。
ソーレンは鼻を鳴らし、額の汗を拭う。
「⋯⋯ふぅ。
ちったぁ気持ち良く暴れられたよ」
そう言って背を伸ばすその姿を
大樹の枝葉がまるで労うように風に揺れていた。




