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「 へぇ、此処が? 」
「 ……あぁ、祈りの泉だ 」
ビビが足を止めたその先に広がるのは、水面に何故か薔薇の花弁が引き詰められた不思議な泉だった。 泉の真ん中にはどうやって建てられているのか、あの絵画の神様の銅像が佇んでいる。
サッとビビから飛び降りたラファエルが、私を子供みたいに抱きかかえて地面に降ろしてくれる。森の木々の中に隠された秘境……まさに、この祈りの泉はそんな厳格な雰囲気が漂っている。
「 ねぇ、神様いないの? 」
銅像に向かってそう声を放ったけれど、虚しく木々の中に響いて消えて行くだけだった。 隣にいるラファエルは私の腰に腕を回して、そんな私を見下ろしている。
「 前に言った言葉…アレ、全部撤回するわね。 私はもう地球には絶対に戻らないわ 」
返事はやっぱりなくて、ただ湿っぽい風だけが私と彼を通り抜ける。
「 もう、悲観的になるのも辞める ……大丈夫、私にはこの人が居てくれるから! この世界で貴女がくれた新しい命で生きて行くから‼︎‼︎ 」
爽快な笑顔で叫んだ私をラファエルは、安心した様に微笑んで見つめて来て、そんな彼を見上げて、頷いて笑う。
「 ねぇ、この世界に連れて来てくれて本当にありがとう! 神様……アンタって何処の誰より最高に良い女だよ! 」
口に手を当てケラケラ笑って叫んだ私に、ラファエルはキョトンする。 堅物には考えつかなかったんだろう。 まさか、神様を良い女呼ばわりするなんて。
「 ……お前、肝が座っているな 」
「 大丈夫よ。 神ってのは慈悲深いんだからね 」
戯けて笑った私に当たり前の様に手を差し出してくれたラファエルに、心からの笑顔を贈って手を握る。 壊れ物を扱う様に私をビビの上に乗せた彼は、後ろからしっかり私を抱き寄せる。 今までと変わったのは、そのあと私の顔を覗き込んで、優しく表情を崩す様になった事だ。
その時、少しだけ強い風が吹いて私と彼の似た色の濃い髪がフワリと靡いた。
「 ……え? 」
「 ん、どうかしたか 」
「 ふふふ、いいえ何でもないわ 」
喉を鳴らして小さく笑う私に、ラファエルは少しだけ不思議そうに笑ってからビビの手綱を握る。 ビビは嬉しそうに駆け足で森の中を駆け抜けて行く。あの風が吹いた時に、本当に小さかったけれど。
ーーあの御茶目な神様の鈴の様な笑い声が、私の耳に届いて来た。
ーーーー
ーー
「 ……それは本当なのか? 」
「 そんな下らない嘘はつかないわよ 」
屋敷の近くのまだ誰も居ない舗道をビビがゆっくりと進んで行く。 そんなこの子の背中の上で、ラファエルは少しだけムッとした顔で私を覗きこんでいる。
「 アドルフに指摘されるまで、私も泣いてることに気付かなかったんだけどね…私が貴方に惚れてるって事にあの人は気付いてたんだねぇ 」
泣き顔も独り占めしたいなんて言ってたラファエルに、あの日の事を一応伝えると案の定ちょびっと拗ねてしまったみたい。ただ、最後の言葉に何処か嬉しそうに微笑む。
「 だが、よりによってアドルフか……どうせ、あいつの事だ。 どさくさに紛れてお前の事を抱き締めたろうな 」
親友を思い浮かべて呆れた様に顔に手を当てるラファエルに笑いが込み上げて来る。
「 本当にアドルフの事を信用してるのね、貴方って 」
彼の顔は拗ねてはいたけれど、嫉妬の様な物は浮かんでいなかったから。そう言った私にキョトンとしてからクスッと笑いを零す。
「 あいつはああ見えて、気の良い奴だ。 信用がなければお前の事を任せたりなどせぬ 」
男の友情ってよく分からないけれど、楽しそうな顔のラファエルを見てると良いもんなんだろうなと思える。
「 先日、カミーリィヤからお前への言伝を預かったのだ。 どうしてもお前に頼みたいらしい 」
「 私にあの子が? ……何を? 」
ビビはただただ楽しそうに尻尾を揺らして早朝の舗道を進んでいく。
ーーー
ー
「 あら、3人でこんな早くからお出掛けしてたの? 」
屋敷の門を潜り抜けて帰ってきた私達を出迎えたのは、朝早くから庭園の手入れをしていたカロラナ様だった。 3人と喩えるその言葉だけで、この人の人柄が本当に滲み出ていると思う……私は、正直に伝えなきゃ。
恋人と言うのは、偽りだったって。
ビビから先に降りたラファエルが、私をまた子どもみたいに抱き抱えて地面に降ろす。 カロラナ様はそんな私達の元に穏やかな微笑みを浮かべてやって来る。私が手に持っていた椿の花を何故か少しだけ嬉しそうに眺めていた。
「 ああ、少しだけ散歩に出掛けていた 」
母親の問い掛けに、穏やかな声で淡々と返事をするラファエルは平常運転だ。 彼はずっと私の腰に手を添えて、私を寄り添わせている。カロラナ様はずっとニコニコと微笑んでいて。
「 ラファエル、ちょっとだけ良い? 」
腰に回されたその手に手を重ねて、顔を見上げて問いかけると彼は腰からその手を離した。 そのやりとりに少しだけ目を見開いた後、嬉しそうにカロラナ様が笑って、そんなカロラナ様に私は恐る恐る近寄る。
「 あら、そんな思い詰めた顔してどうしたの? 」
「 あの、カロラナ様……実は 」
俯かせていた顔を決意して上げた途端、カロラナ様が私の手をギュッと握りしめて来た。
「 椿? ……私が貴女の事を娘の様に愛しく思うのは、息子の恋人だからという理由からではないのよ 」
「 ……え? 」
私の言葉を遮り、穏やかに諭すように話しかけて来たカロラナ様に私は唖然としてポカンと口を開けたままにしてしまう。
「 椿、母上は知っていたんだ。 最初からこの人にはお見通しだったらしい 」
ポカンとしたままの私の隣に、眉を下げて降参した様に微笑むラファエルがやって来て、その言葉に驚いて私はカロラナ様を凝視する。
嘘、だって、なら、何故。
「 確かに、貴女がいつかこの言葉足らずな愚息の恋人になれば嬉しいなとは思っていたわ。 私はね椿、貴女の素敵な所を沢山知っているわよ 」
「 ……カロ、ラナ様? 」
この人の手も、ラファエルと同じ温度がする。 そしてお日様みたいな香りも漂って来る。
「 子供と泥だらけになって遊ぶ貴女も、心配性な貴女も……泣いてる女の子と髪型をお揃いにして、笑い合う椿も。 沢山、沢山そばで見て来たつもりよ? ……そんな貴女だから、私は本当の娘の様に愛しているのよ。 ラファエルなんか関係ないわ、貴女が貴女だからよ、 椿 」
愚息と呼ばれたラファエルが苦笑いで私を見下ろして来て、カロラナ様はただずっと私の手を握りしめている。
「 ふふふ、それに、さっきから表情が緩みっぱなしの馬鹿息子の恋心は実ったみたいだしね 」
皆が話してたお母さんって、こんな感じなんだろうか。
「 どうしても帰りたくなる場所の事を我が家と呼ぶの、そしてそこに居る人達のことを『 家族 』と、そう言うのよ……私にとって椿は、必ずそこに居るわ 」
両手を広げて、穏やかに微笑むカロラナ様が私にあの言葉を掛けて来る。
「 お帰りなさい、椿 」
ああ、また視界が歪んでしまう。
どうしてこうも、この世界に来てから泣いてばかりなんだろう。
「 ……っ、ただいま! 」
ーーフワリと私とカロラナ様のドレスが風に揺らめく。
耳元で穏やかなカロラナ様の喉を鳴らす音が聞こえて来て、その腕の中に飛び込んだ私の髪を小さな子供をあやすように撫でてくれる。
「 馬鹿な子だけど、貴女を想う気持ちは誰にも負けないと思うから、どうか見捨てないでやってね 」
「 ……母上、それでは余りにも私が可哀想だと思わないのか? 」
お母さんってこんな香りがするんだ。 あの人は私に教えてくれなかった……お母さんがこんなにあったかいんだなんて。
「 貴女に何があったかは今はまだ聞かないわ。でもね、貴女の母親は私一人で充分よ……他の女なんてリボンを付けて返却してやりなさい 」
ギューっと抱き締めてくれるカロラナ様を、負けない様にギュッと抱き締め返して私は本当に小さな子供みたいに声を上げてわんわん泣いた。
本当は、あの人と一緒に本を読んだりテレビを見たりしたかった。 恋の相談だってしてみたかった。友達の様に休みの日にお出掛けしたりしたかった。 でも、もう憧れたりしない。
そのかわりにこの世界で、カロラナ様と一緒にお茶を飲もう。 この人と王都に出掛けて、疲れたらお店に入って美味しいランチを食べよう。
ーーもう、熱い熱湯が降って来ることは、二度とないんだ。




