1-5 脱出の柱
ああ神よ、俺は罪を犯しました。
俺一人の肩には背負いきれない程の、惨憺たる罪を犯しました。
どんな裁きでも被りましょう。
だが、しかし。
俺には未練があるのです。
俺にはやらなければいけない事がある。
そのために、遥か遠い対極から此処に来た。
置いてきた罪は、顔も分からない無辜の人間達を殺め続ける。
清算なんて待っていられない。事態は刻一刻を競い続けているのだ。
ゆえに、罪を罪で上塗りするのが、極悪人である俺が出来る方途。
咎を受けるのは、それからだ。
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「ふわぁあ...あっ、しまった!」
私はうっかりして、エタノール水溶液を入れていた瓶を床に落としてしまった。
昼下がりの病院、閑古鳥が鳴く建物内に軽快な破砕音が響く。
ガラスの破片と薬液が宙を舞う。
「おいおい、しっかりしてくれよ。エスがその調子じゃあ患者に誰も対応出来ないぜ?」
窘めるのはハゼ、同じ病院で作業する同僚だ。
「誰もって...ちょっとは年上らしい所見せて欲しいんですけど。」
普段使わない敬語で切り返す。とはいえさすがに不注意には反省しているつもりだ。普段行わないミスなのがげんなりする。
昨日の夜は予想外の事が多々起こり、深く入眠することができなかったのだ。
寝ぼけ眼をさすり、昨晩の事を思い出す。
「見逃された...の?恐ろしい、嵐みたいな人だった」
奇妙な男が去り、私は穴が空いた壁を見つめていた。
キュービットは私たちの命令次第で自由に動く。その利便性から建築など様々な物に使われる。
「キュービットが黒い炭みたいになるなんて、そんなの見たことない。あの人は何をしたの?」
黒く壊変したキュービットはうんともすんとも言わず、やがて風と共に粒子となって流れて行った。
「うーん、見たことがない光景ばかりで目眩がする...」
思えばあの男も、間違いなくこの区の人間ではない。少しの間しか相対していないが、身体能力が凄まじく高かった。まるで重力を意に介していないような...
「うわっ!?大丈夫かアンタ!」
表口からハゼの声が聞こえる。私は考えを中断し、声の方向に駆け出す。
「なっ...」
思わず絶句した。キュービットで運ばれてきた20代程で体格のいい男性は、全身に酷い殴打の跡を携え、苦悶の表情を浮かべていた。
青痣になった皮膚が痛々しい。血は出ていないようだが、指があらぬ方向に折れ曲がっていた。もしかしたら他にも骨折があるかもしれない。
事故などの類でないことは明らかであった。時速60キロメートルの速度で移動するキュービットの塊と衝突した、なんて事例はあったが、今回は痣が点在している。まるで誰かに危害を加えられたような...
「あの!誰から、あとどこで怪我を負いましたか!?」
「西の方の...でかい柱が建ってるところ...この辺りで見たことないような、赤い髪のやつに...」
「あぁっそうだよね!悪い予感しか当たらないんだから...!」
患者に詰め寄り、状況を聞く。そもそも喧嘩はあっても、大の大人がここまでの大怪我を追うことはまず無いのだ。なぜなら、人が出せる力には上限があるから。そして、その上限を容易く超える人物がこの創傷を作ったのだろう。
「このっ...!」
「おっおい!どこ行くんだ!?」
ハゼからの呼びかけを無視し、私は白衣のまま駆け出す。怪我人を出したとなると、さすがに放っておく事はできなかった。
白一色の街を駆ける。空に舞う無数の一群が、尾を引いて反対方向に流れていく。
ヒナゲシ区は絶壁に囲まれた小ぢんまりとした街であり、必要最低限の物だけが揃っている。よく言えば洗練された、悪く言えば何も無い町であるが、被害者が言っていたでかい柱というのは分かる。
「脱出の柱だよね...!」
その大層な名前の柱は、この街の最西端に位置する柱である。
「いくらキュービットを積み重ねたって、さすがにこの街の壁を超えるなんて無理だよ」
キュービットはこの街の壁より上には上昇出来ないようになっている。誰が決めているのかは知る由もないが、安全上の都合だろうか。
そのせいで、外への出入りが少なくなっているのだ。そうなると、外を繋ぐ門を経由するしかないのだが、厳格な審査が必要であり、おいそれと出れるものではない。
ゆえに、物理的に乗り越えてしまおうと積み立てられているのが通称''脱出の柱''である。
誰が組み立てているのかは不明だが、キュービットが上昇可能な高度を超えた位置まで、人力で重ねていくという荒業によって支えられている柱である。初期には撤去すべきとの声もあったが、現在ではこの区のランドマークとして、少しずつ全長を延ばしているようだ。
病院から走って10分、件の柱が見える位置にたどり着く。
「やっぱりっ...!」
予感は的中した。人ひとり居ない柱の根元に居たのは、昨日も相対した赤い髪の男だった。
「このっ...!キミは根っからの悪人だ!」
私にしては珍しく感情をぶつける。自分の中にある正義感を手に取り、鼻高に主張しているようであった。
男は視線を変えず、空を見つめている。
レスポンスを待っていたが、男は突然柱へと跳躍した。
「なっ...待てっ!」
ひょいひょいと、柱に刻まれた段差を足がかりとし、上へ上へと飛んで行ってしまう。まるで手から離れた風船のようだ。
私にはそんな事は出来ないので、手元の電子板からキュービットを呼び出す。適当な板状に設定し決定すると、周りに浮遊していた群集が形を成す。その上に飛び乗り操作、昇降版としての役割を命じた板は、地面と垂直に浮遊していく。
二人の点と点が交わったのは、柱の頂上だった。更地であるそこで、風に飛ばされないよう気を付けながら再び問いかける。
「もう逃げ場はないね!私もこんな高いところまで来たのは初めてだよ!」
風音に負けないよう声を張り上げるが、相手は直立のまま応じない。突風を受ける面積が少なくなるよう、かがむような姿勢になりながら睨みを効かせる。
「どぉしてキミはっ!こんな!暴力とか!酷いことができるの!?」
「この崖を超えたい。方法を教えてくれ。」
思わず目を見開く。ありえないと言いたかった。目の前にいる剣呑な男は、まるで違う世界に住んでいるようだと錯覚できた。私の常識が通じない、絶対に分かり合えない相手だと。
「違う、そうじゃなくてっ...」
言葉に詰まる。そういえば、私は何をさせたくてこの男を遮二無二追ってきたのだろうか。
男は踵を返し、助走をつける格好を取る。まさか、ここから跳躍して崖を越えようと言うのか。
それは無茶だ。いくら膂力があろうとも、ここと崖までは50メートルはある。それに崖の切り口は目線の上なのだ。
「嘘でしょっ...?」
私は吃驚してつい声を漏らす。男が軋む音とともに足に力をかけた時。
不意に一陣の突風が吹いた。
「きゃあっ!?」
急な風に姿勢を保てない。反射的に目を瞑ってしまい、受け身の姿勢を取る。
「...嫌な予感がする」
私はゆっくりと瞼を開く。
視界に映っていたのは、普段では決して見られない光景だった。
「空、飛んでるぅぅぅ!?」
眼下に広がるヒナゲシ区を一望しながら、私は上空から命綱なしのバンジージャンプを敢行していた。




