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作中連載第2話 恥の多い修業をしてきました

 国立国会図書館の最深部。


 窓ひとつない地下書庫。


 そこは、スマホのブルーライトも、アクセス数の電子音も届かない場所だった。


 あるのは、インクと紙の匂い。


 古びた背表紙。


 ページをめくる音。


 そして、読者に一切媚びる気のない文章たちである。


 ここは文学の精神と時の部屋。


 WEB小説帝国『なろう』の王者である俺――ダロウにとって、ほぼ拷問部屋だった。


「……ハァ、ハァ……」


 俺は、パイプ椅子に腰掛けたまま、額に脂汗を浮かべていた。


 胸元には、ナオキとアクタに穿たれた行間の傷跡が、まだかすかに痛んでいる。


「クソッ……。文字の表面しか追えない俺に、文学修行をしろだと……ダロウ?」


 強がって笑ってみせる。


 だが、その笑みは引きつっていた。


 そんな俺の前に、額読が一冊の本を置いた。


 薄い。


 だが、圧がある。


 表紙には、たった四文字。


『人間失格』


「タイトルが短すぎる」


 俺は反射的に言った。


「俺ならこうする」


 そして、即座にタイトルを詠唱する。


「【悲報】まともな人間をクビになった俺、実は裏社会で最強の共感性チートに目覚めていた件〜今さら普通の人間に戻れと言われてももう遅い〜」


「長いです」


「親切と言え」


「親切の皮を被った情報過多です」


「ぐっ……」


 額読の指摘が地味に痛い。


「いいですか、ダロウさん」


 額読は眼鏡のブリッジを押し上げた。


「これからあなたに必要なのは、文字の奥を読む力です。読者に届く速さは、あなたの武器です。けれど、速さだけではナオキさんとアクタさんには勝てません」


「速さだけでは勝てない……」


「はい」


 額読は本を指差した。


「まずは、一行目を読んでください」


「一行目か。任せろ。俺は一話目の一行目で読者の胸ぐらを掴む男だ」


「掴まれる側の経験も必要です」


「不穏なことを言うな」


 俺は咳払いをし、本を開いた。


 文字の表面を時速五万文字でスクロール消費してきた俺にとって、最初の一ページなど瞬きする間に突破できるはずだった。


 しかし。


> 恥の多い生涯を送って来ました。


「ちょっと待て……ッ!?」


 俺はガタガタと椅子を鳴らし、机に両手をついた。


「な、何なんだこの主人公は……! 一行目から人生が詰んでいる! 異世界転生もしない! トラックにも跳ねられない! 女神も出ない! 追放もされていないのに、すでにメンタルが追放済みだと!?」


「ダロウさん、落ち着いてください」


「落ち着けるか!」


 俺は本を指差した。


「普通、一行目というのは読者に期待を持たせるものだろう! なのに何だこれは! 初期ステータスのメンタルがマイナス百万から始まっている!」


「それが文学の導入です」


「導入から毒沼に落とすな!」


「主人公がすでに絶望の底にいるからこそ、読者はその人間の内側を覗き込むんです」


「覗き込みたくない! ブラウザバックしたい!」


 俺の眼前に、勝手にシステムウィンドウが開いた。


【警告】


【読者ストレスが急上昇しています】


【ざまぁ展開を挿入しますか?】


【YES】


【YES】


【YES】


「選択肢が全部YESだぞ!」


「あなたのシステムが拒否反応を起こしていますね」


「早く俺にざまぁをくれ! 誰でもいい、この陰気な主人公をいじめた奴を一人出せ! 俺が三行で破滅させる!」


「出ません」


「出ないの!?」


「これは、誰かを倒して気持ちよくなる話ではありません」


「じゃあ何で読むんだよ!」


「人間を読むんです」


「人間はめんどくさいんだよ!!」


 地下書庫に、俺の絶叫が虚しく反響した。


     ◇


 修行開始から三日目。


 俺の脳内に、異変が起き始めていた。


 スカッとする快感を最速で得ることに特化しすぎた脳にとって、行間を推理しながらじっくり読むという行為は、使ったことのない筋肉をいきなり限界まで酷使するようなものだった。


「ああ……見える……見えるぞ、ダロウ……」


 うわごとを呟きながら、俺は夏目漱石の『こころ』のページを睨みつけていた。


「先生とKの間に、文字が書かれていない白い空間がある……。ここだ……ここに隠し設定があるんだろ……?」


「隠し設定?」


 額読が嫌な予感を隠さず聞き返す。


「実は先生は元・魔王軍の幹部で、Kは最強の勇者だった。二人は前世から続く因縁のライバルで、下宿には古代文明の封印が――」


「書いてありません!!」


 額読が厚いノートで俺の頭を叩いた。


「それは、親友を裏切ってしまった男の、言葉にできない罪悪感の空間です! 異世界ファンタジーの設定資料集と一緒にしないでください!」


「ひえぇぇぇ!」


 俺は本を抱えたまま震えた。


「答えがステータス画面に明記されていないなんて、不親切すぎる! 考察班に丸投げかよ!」


「考察させる余白です」


「余白は読者離脱ポイントだろ!」


「違います。読者の想像力を信じる場所です」


「読者を……信じる……?」


 その言葉に、俺は一瞬だけ黙った。


 読者を信じる。


 全部説明することが、読者への優しさだと思っていた。


 疑問を残さないこと。


 迷わせないこと。


 不安にさせないこと。


 それが、俺の国の礼儀だった。


 だが、説明しないことで読者を信じる。


 そんな発想が、この世に存在するのか。


 そう思いかけた瞬間、俺の脳内で警告音が鳴った。


【危険】


【なろう脳に未知の概念が侵入しています】


【ただちにチート・ざまぁ・追放を摂取してください】


「くそっ……俺の中のランキングアルゴリズムが拒絶している……!」


「耐えてください、ダロウさん!」


     ◇


 修行五日目。


 俺の様子を見に、ポリスとノベラが差し入れを持ってやってきた。


 しかし、そこにいたのは、髪をボサボサにし、目からハイライトを失ったまま『羅生門』を貪り読む男の姿だった。


「おい、ダロウ」


 重装騎士ポリスが、鎧を鳴らしながら栄養ドリンクを差し出す。


「元気を出せ。二十四時間ポイントで換算した場合、お前の修行量はすでにプロ作家三人分の労働量に匹敵している。規律的には十分だ」


「ポリス……」


 俺は虚ろな目で顔を上げた。


「この老婆、死人の髪を抜いているんだ……」


「うむ」


「生きるためなんだ……」


「うむ」


「でも、それを見た下人が……」


「うむ」


「エモーショナルな恋愛フラグが……どこにもない……」


「そこを探すな」


 ノベラが怯えたようにポリスの背後に隠れる。


「ダ、ダロウさん! しっかりして! いつもの『ふっ、俺のチート魔法で一撃だ……ダロウ?』っていう、あのちょっと痛くて自信満々なあなたに戻ってよぉ!」


「チートなんて……ない……」


 俺は本を抱えたまま、壁際にずるずると座り込んだ。


「人間はみんな、エゴイストで、孤独で、失格なんだ……。俺も……俺もきっと、トップページから追放されるんだ……」


「完全に太宰化している……!」


 額読が青ざめた。


「まずいですね。WEBの王を、純文学の海に沈めるには早すぎました」


「一度、軽めのライト文芸に戻すか?」


 ポリスが問う。


「いえ」


 ノベラが首を振った。


「ここで戻したら、ダロウさんは一生、行間を恐れるようになります」


「しかし、このままでは壊れるぞ」


「大丈夫です」


 ノベラは震えながらも、俺を見た。


「この人は、読者を笑顔にしたい人です。だったら、戻ってこられます」


 俺はその言葉を、壁際で聞いていた。


 読者を笑顔にしたい。


 そうだ。


 俺は、何のために書いていた。


 ランキングのためか。


 ブックマークのためか。


 ざまぁのためか。


 違う。


 いや、少しはそうだ。


 かなりそうだ。


 でも、それだけではなかったはずだ。


 誰かが夜中にスマホを開いて、三分だけ現実を忘れる。


 その三分を守るために、俺は王であり続けた。


 なら。


 文学の重さを知ることも、読者を苦しめるためではなく、もっと深いところまで届くためなら。


「……まだだ」


 俺は、かすれた声で呟いた。


     ◇


 修行七日目。


 額読が、ついにため息をついた。


「……限界ですね」


 彼女は本を片付けようとした。


「ダロウさん。今回はここまでにしましょう。文学の重力に、まだあなたの精神が耐えられない」


 その時だった。


「……待て、額読」


 俺が、ゆっくりと立ち上がった。


「ダロウさん……?」


 俺の手には、ボロボロになった三島由紀夫の『金閣寺』があった。


 ページの端には、震える手で書いたメモがいくつも挟まっている。


【美=ラスボス?】


【嫉妬=ヘイト管理?】


【語られない欲望=隠しパラメータ?】


【主人公の中に悪役を入れる構造?】


「俺は……少しだけ分かったぞ」


 俺は、かすれた声で言った。


「彼らが、なぜあんなにも回りくどい情景描写を使うのか」


 額読が息を呑む。


「それは、読者の脳内に直接、最高画質の世界を強制ダウンロードさせるための、超高圧縮ファイルだったんだな」


「言い方はひどいですが……かなり近いです」


「そして、行間とは」


 俺は本を閉じた。


「書き忘れじゃない」


 地下書庫の空気が、わずかに震えた。


「フラグをあえて隠すための、究極のステルス・スキルだ」


 額読の目が見開かれる。


「ダロウさん……!」


「美への嫉妬。罪悪感。孤独。人間の醜いエゴ」


 俺は、ゆっくりと拳を握った。


「これらはWEB小説でいうなら、最悪のヘイトキャラに背負わせる感情だ。けれど文学は、それを主人公自身に憑依させる。読者は敵を倒してスカッとするんじゃない。自分の中にもある、見たくないものを突きつけられて、苦しくなる」


 俺は笑った。


 ボロボロで。


 目の下にクマを作って。


 それでも、笑った。


「つまり文学は、カタルシスの前にストレスを置くんじゃない」


 俺は言った。


「ストレスそのものを、物語の中核にしているんだ」


 ピキ、と音がした。


 胸元に残っていた行間の傷跡が、青白く光り始める。


 俺の背後に、これまでのWEBの記号が立ち上がった。


【追放】


【ざまぁ】


【チート】


【悪役令嬢】


【婚約破棄】


【スローライフ】


 その奥に、重たい文学の文字が混じっていく。


【罪】


【孤独】


【恥】


【美】


【沈黙】


【行間】


 額読が震える声で呟いた。


「融合している……。WEB小説の記号と、文学のサブテキストが……」


 ポリスが腕を組む。


「規律的には、かなり危険な進化だな」


 ノベラは、小さく笑った。


「でも、少しだけ……面白そう」


 俺は顔を上げた。


「ナオキ。アクタ。待っていろ」


 俺はもう、ただのテンプレだけの男じゃない。


 かといって、読者を置き去りにするつもりもない。


 読者に媚びるだけのテンプレと、読者を置き去りにするだけの文学。


 その両方をねじ伏せる、ハイブリッドの力。


 それが今、俺の中で目覚めようとしていた。


「ステータス・オープン」


 青白い画面が浮かび上がる。


【行間読解:1】


【情景描写耐性:3】


【サブテキスト感知:1】


【読者配慮:限界突破】


【作者性:瀕死 → 微弱回復】


【新規スキル】


【文学翻訳】


 俺は、画面を見て不敵に笑った。


「ふっ……」


 そして、いつもの言葉を口にする。


「ここからが、俺の反撃開始だ……ダロウ?」


(作中連載第2話・了)


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