09 鳥肌×戦慄=絆
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うん、まぁね。予想はしていたんだ。それなりに。
ただ何というか……想像以上にくるものがあった。鳥肌リターンズだ。襲来編である。
今、この時に見上げる『彼』の表情が――そこに込められた諸々も含めて――正直、直視するのが大変恐ろしい。
周囲の信じられないものを見たという表情も含め、双方見える位置にいる自分としては「何の責め苦だ」と苦言を呈したい。
だが、他ならぬその状況が許さなかった。こうなると涙目というより、ただ堪えているというだけだ。
まるで蛇に睨まれた蛙のように動けない。
実際問題、身体が竦んでしまって言うことを聞かない。
せめてもと顔を俯かせれば、ゆったりとした動作で覗き込まれる。頬に触れた手が、少しずつ顔を上向かせていくのに反抗することすら怖くて出来ない。
それはさながら油の差されていないブリキのようだったろう。ぎりぎりと、ゆるゆると――仰向いて。
そうして間近で見ることになった微笑みが、思考すらも凍り付かせる。
「遊里? たとえ君自身が認めなくても、君が僕のモノであることに変わりはないんだけど……?」
「無茶苦茶だ」
「理屈じゃないんだよ。これは本能。だから遊里の方が諦めて? そうすれば全部丸く収まるから」
「……心底呆れた。そこまで言い切る根拠は?」
「愛しているから」
「…………は?」
今、彼は何を言った。痛いくらいの静寂の中で、周囲の息を呑む音が、耳朶を打つ。
呆然と見上げた先、その表情にはただ呆れだけが垣間見えた。
『やっと気付いた?』
声に出さずに、口の形だけがそう紡ぐ。
「――前にも、伝えたね? 君が僕を選ばないなら、僕はきっと君を殺してしまうよ。冗談だと思った? 残念、本気だよ。……ねぇ、だから僕を選んで。僕だけを、愛して?」
「……選ばないなら、殺すのか?」
「遊里を殺す日は来ないよ。だって、どんな手を使ってでも選ばせるから」
だから、心配なんて端から要らないよね――。そう呟く『彼』は何処までも柔らかく笑んでいる。
「……怖いんだね遊里? でも君が僕の為に泣くのなら、その涙さえも愛しいんだけど」
「……は、離れろ」
「離れない」
ドン引きだ。
周囲の様子を例えるのに、それ以上に適した言葉が浮かばない。いや、もう一つあるな。
「……周りを、見ろ。今の言動に全員が戦慄を覚えているぞ」
「それが何? 正直、遊里以外の誰がどうなろうとどう思おうと、まるで気にならないけれど」
「今まであれ程まで振り撒いていた愛想はどこにいった? むしろ良いのか?」
「……あぁ、あれね。遊里が『穏便』に拘ったから。本来は直接交渉で片を付ける予定だったけど、遠回しに田中を孤立させようと思って色々試してみたんだ。正直疲れるだけで、特に収穫はなかったかな」
もはや教室に音がない。
居合わせた全員が絶句したまま、その動きを止めていた。
「あれの何処が穏便だ……。正直見ている方が居たたまれなかった」
「ふぅん、あれでも駄目なの? でもあれよりも穏便な手段なんて欠片も思いつかなかったよ。まぁ、これに懲りて遊里に近づこうと思うような男が一人もいなくなれば、それはそれで良いんだけどね……」
そう言った後に、何やら意味深な視線を方々に巡らせた彼。その視線に怯えた様子を隠さない男子生徒たち。
それはさながらドーベルマンを前にしたチワワの様相だった。
「周りを無意味に威嚇するのはやめろ。これ以上やったら、もう誰も近づかなくなるぞ」
「心配してくれるの? 遊里は本当に優しいね」
「そういう問題じゃない……」
呆れ顔で見上げれば、頬に伸びていた指先がつぅ、と下の方へ伸びて首に触れた。
何がしたいのかと疑問を覚え、首を逸らせる。しかし、指先は構わずに追ってきた。
無言の攻防が暫し続いた。
「……おい」
「遊里、首にも傷があるよね?」
「あぁ、これは――」
「バケツをぶつけられた時の、傷?」
見ていたのか、と呆れ混じりで溜息を零した。けれどもふと、周囲の様子がおかしいことに気付く。
不審に思い、彼の視線を辿ったところに――『答え』を見つけてゾッと背筋が凍りついた。
彼は微笑みながら、二人の女子の名前を順々に呼んでいく。
それはとても穏やかで、ひたすらに平坦な声だった。
「左から、内海 恭子さん。谷上 澪さん……だったよね?」
「天羽君、違うよ。私たちは別に……」
「そう、悪気はないの。ただ……本当に偶然で」
銘々に震えながらも、彼の視線から逃れられない状況に必死に弁明を試みる少女たち。
だがそれも果たして彼の耳に届いていたかすら、正直なところ疑わしい。
ふわりと微笑んで、徐に彼が踵を返す。そして向かった先。それは、掃除用具入れだ。
何を考え、何をしようとしているのかが瞬時に繋がった。
自分以外の何人かも思い至ったのだろう、表情にそれが見て取れた。
咄嗟に止めようと立ち上がったが、迷いの欠片もない『彼』の行動の方が僅かに早い。
その手に取られたのは、二つのバケツだ。
「よいしょ」の軽い掛け声とともに放たれたバケツは――それは狙い澄ました軌道を辿り――彼女たちの真横を過ぎて跳ね返った。
ガァン、と盛大な音を立てて叩きつけられ、床に転がる。
それに伴って上がる周囲の喧騒と、悲鳴。
迷う暇すらなかった。
椅子を引いた反動で、一足飛びに『彼』へ駆け寄る。
そのままの勢いで振り上げた右手は――過たず、左頬を捉えていた。
パン、と甲高い音が響く。痛い。掌がジンジンと痛い。でもこれは、仕方がない。
「阿呆! あの子らが怪我をすれば、下手をしたら一生ものの責任を負うんだぞ?!」
「はぁ。遊里は本当にお人よしだね……なら、遊里に傷を残した責任はどう負わせるつもりでいるの?」
「そんなもの、端から問うつもりはなかった。傷を負った当人が言う以上、他の誰にも口は挟ませない」
「まさか本気で言ってる?」
「本気だ」
真っ向から対峙し、頭痛の種が消えるどころかポンポンと芽吹いていく現状に「何でこうなる」と頭を抱える内心。
そもそも、今回の一連の騒動自体が元を辿れば全部『彼』に通じると言っても過言でない。
それにも拘らず、どうしてその当人が一番偉そうなんだ。自覚がないのか。それとも分かっていてそうなのか。
思考がぐるぐると巡る最中、頬を叩かれて尚もどこか嬉しそうな微笑みを見た結果。
とうとう「ぶつり」と何かが切れる幻聴が聞こえた。
「そもそも、こうなったのが一体誰の責任だと――――」
あ、駄目だ。
ふいに脳裏を過った警鐘音に、冷静に立ち返るも一歩遅すぎた。
そう、全部ここまでも含めた計略だ。
あの『彼』をして、どうしてここまでの騒ぎに広げたのか。それは全て、周知させるためにある。それほどの労力を払い、彼が得ようとした『その言葉』に思い至った瞬間。
咄嗟に身を翻した。
机の隙間を駆け抜け、教室の扉を開けようと手を伸ばしたところで――耳元に掠めた袖の感触と気配。
確かに笑う『彼』の表情を垣間見て「あぁ……終わった」と自覚した。
扉に押し付けられるようにして、ぐっと引き寄せられた身体。咄嗟に身を捩ったが、それ位の抵抗は元より織り込み済みだったのだろう。
唇に、そのまま喰いつかれる。
――まさにそれは、公開処刑に等しい情景だ。むしろ、これ以上の辱めが存在するだろうか。いや、ない。
全員の見開いた眼と、息を呑んだまま固唾を飲む様子とか……あぁ、もう本当に死にたい。
とりあえず、もう一度殴ろう。そうしよう。次は平手じゃ済まないぞ。
何やら満足げな様子で、ようやく口づけを解いたその頬を、間を入れずにグーで殴り上げる。
勿論一切、容赦などしていない。真剣に、可能な限りの力を込めて、振り上げた。
結果。奇麗な放物線とまではいかないものの、まぁまぁ飛んだ。
勢いのままに床へ叩きつけられた彼を、冷めた眼差しで眺める。敗者は敗者なりに、相応のけじめはつけさせてもらった形だ。今だけは絶対に文句は言わせない。
「……痛たた。はぁ、遊里のパンチも中々のものだね。少し口の中を切ったかも」
「とりあえず、保健室に行け」
「全く、君は本当に優しいよ。優しすぎるから、僕みたいなのに目を付けられてしまったんだよ?」
「そこは……何と言うか、うん……さっき自覚したばかりだ」
「ふふ。遅いなぁ、自覚するの。まぁいいけど。……遊里、戻ったら続きを話そうね?」
「さっさと行け」
「はいはい――君の身体に傷を付けた以上、これから先の君の人生は僕が責任をもって負うから。覚悟、しておいてね」
去り際に勝利宣言をし、ひらひらと手を振るその背をあらん限りの眼力で睨み据える。
周囲の視線を一点集中で、取り残された現状にわぁわぁと泣けばいいのか。泣き喚けばいいのか。
そんな器用な真似ができるのか、自分。
果たしてその答えは否である。無茶振りだ。普通に無理だ。
どうしてくれるんだ、これ。どう収拾を付けるつもりなんだ、この混沌。
項垂れたまま、後方の視線を振り返ることすら怖くて出来ない自分のその肩に――乗せられた手。
恐る恐る確認すれば、とても見覚えのある顔だった。
「……田中君」
「香野……元気を出せよ。何と言うか、これから先のお前の人生はとっても大変になるだろう。俺は陰ながら応援してるからな」
まさかの田中君からの応援メッセージに、どう返答したものか悩む最中。
ぽん、ぽんと続いて叩かれる肩。その先を辿れば、中学時代の同級生たちが憐憫の目も露わに佇んでいる。
「頑張れ、香野。B組はお前の味方だ」
「天羽が愛想を振り撒き出した時は、正直青春の終わりだと思ったけど……こうなった以上は、お前の犠牲を忘れないからな」
「ああ、あんなに重い愛をドラマ以外で見たのは初めてだが……きっとお前なら受け止められるさ」
B組味方宣言をしたのが、嘗ての同級生である横川君。
犠牲――オブラートに包まずにそう言い切ったのが渡辺君。
最後の重い愛発言に対しては「何を根拠に、山瀬君」と思わず反論しかけたものの、その動きは事前に察知されていたらしい。
するりと交わされ、イイ笑顔で親指を立てられた。地味に殺意が芽生えた瞬間である。
それからも、殆ど挨拶しか交わしたことのない男子生徒たちの激励の声が続いた。
曰く「まぁ、何とかなるよ」「そうそう、基本的にあいつだけを見てやれば害は無いさ」「うん、俺たちの平穏の為にも香野にはあの愛に耐えてもらいたいところだな……」「いやいや、あれに耐えるとか普通に厳しいでしょ」「ああ、出来たらマジ尊敬するな」「香野……お前可哀そうだなぁ。俺、途中から涙なしには見れなかった」「おい、感動巨編見たときみたいなコメント挟むなよ」「でも天羽がヤンデレだったのは、正直意外だったなぁ」「え、マジか。あれヤンデレか?」「ヤンデレだろ……あれが普通に見えんのかよ」「……んー、確かに見えんな」「まぁ、ある意味では純愛と言えるけどな」「でも重いぜ?」「あぁ、普通に重いな。同性でも聞いていて結構引いたからな」
云々。
途中から激励とかそういう意図以上に『果たして天羽はヤンデレか否か?』的議論に発展していたのが、遣る瀬無い気持ちを加速させた。
クラスの平穏とか、いつの間に託されたんだ自分。早々に潰れたら白い目で見られるんじゃないのか。
しかし早々で申し訳ないが、絶望に押し潰されそうな予感しか覚えない。
だって、重いぞ……あれ。前々から少しずつ「あれ、なんかおかしい」とは思っていたが、ここまでくると最早否定するのが難しくなる。
「天羽君は、自分のことを好きなんだろうか……?」
ポツリ、と零れ出た内心に後方から上がるのは――――おそらくクラス全員の心の声だったのだろう。
「「「「「「え、お前今更何言ってんの?!」」」」」」
何か途中で、エコーっぽくなったそれに呆然と振り返る。
長い長い昼休みの、始まりと終わりを使い切った騒動の末にようやく自覚した私の顔は真っ赤だった。
見なくても、分かる。
体温の上昇が、半端ない。多分茹蛸だ。
「……いや、本当に知らなかったんだ。だって、言わないし。それに彼は中学時代に自分に寄って来る女子全員を『雌豚』と称していたくらいで……まさかそれが、高校で恋愛に目覚めるなんてとても信じられなかったから……」
顔を両手で覆い「あぁ……このまま消えてしまいたい」と嘆く。これほどに恥ずかしい思いをしているのはきっと今、この地上で自分を除いて他にいないと言える自信があった。
ふと、その肩に乗せられた柔らかい手。指の隙間から、それが誰かを確認した。
まず覚えたのは、純粋な驚きだ。
「……日高さん?」
「ごめん、香野さん。今まで虐めを見ない振りしたり、時々陰で笑ったこともあるよ……最低だよね。まずはそれを謝らせて」
「私も、バケツが当たった時何も言わずに通り過ぎてた……」
「ごめん、それ私もだ」
クラスの中心女子といっていい、日高 橙子。彼女を中心に、ぽつぽつと溢れ出てくる謝罪を込めた言葉に小さく首を振った。
それは、本当にもういいのだ。確かに怪我もしたし傷つきもした。ただ、一番大きな怪我の件は内密に医療費を請求させてもらっているし、そちらの親からの謝罪も済んでいる。
それぞれに見合った対応を着々と済ませている現状で『実際に手出しをしたわけではない』彼女たちの謝罪は特別必要ないものだと思っている。
そこは偽らざる本心だ。
「……香野さん、私たちも目が覚めた気持ちよ。あんな重い男に執着されてしまったあなたは寧ろ被害者といって過言でないわ。困ったことがあったら、何でも相談して。協力は惜しまないから」
「ありがとう、日高さん。心強いよ」
素直にうれしくて微笑むと、何故かぎゅっと抱きしめられた。「……え、何事だ」と目を回していると軽く嗚咽じみたものが聞こえてくる。
「なんて健気なの……」
「いや、別にそこまで……」
そう言いかけるも、何やら周囲の女子たちが一様に憐憫を帯びた眼差しで駆け寄って来た。
何なんだこのノリは。いつしかクラスがミュージカルに――?! そう半分ほど意識を飛ばしている間にも、何人かの女子生徒から激励じみた言葉を貰う。
「現実にあれはきついよね? 辛くなったらいつでも言って。愚痴なら幾らでも聞くから!」「うんうん、例えイケメンでもあれは普通に引くよねー。心から同情するわ」「香野さん、中学校の頃から同じクラスだったんだね。きっとその時に目を付けられたんだわ……恐るべしヤンデレ」「うん、正直ヤンデレは引くよね」「例えイケメンでもね」「えー、でもあれほど愛されたらそれはそれでありじゃないの?」「じゃあ、あんたは耐えられるの?」「……うーん。天羽君ほどのレベルだと悩むけど、でもお呼びじゃないかな!」「やっぱ嫌なんじゃない……」「香野さん、今更ですけど貞操は無事ですか?」「ちょ……! あんたそんなプライベートを気安く聞くんじゃないわよ! あれに迫られて無事なわけないじゃない!」「……あ、やっぱりそうですよね。ごめんなさい。配慮が足りなくて……」「もう、乙女心を何だと思ってるのよ」「……いやいや、あんたも大概だからね」
云々。とても既知感を覚える羅列であったと共に、男子諸君よりも大分突っ込んだ内容に内心で戦慄する。
高校生女子とは、これ程に逞しいものか……。正直、甘く見ていたな。反省だ。
「ありがとう皆。当面は……潰れない程度に頑張るつもりだ。状況次第で協力をお願いすることが出てくるかもしれないが、ひとまず宜しくお願いしたい!」
「あー、もう。可愛いなぁ……なんで今までこれに気付かなかったかねぇ、あたしたち」
「節穴でしたねー。今後は私たち全員で、香野さんの精神面をサポートしていきましょう!」
日高さんの声に続いて、クラス一の秀才と名高い加藤さんが音頭を取ってくれた。因みにこの加藤さん、先ほどの発言のなかで自分の貞操が無事かどうか真っ向から質問してきた猛者だ。
思うにこのクラス、実はなかなかに濃ゆいメンバーの巣窟ではなかろうか。ふと過る疑惑に、いや今はあんまり考えたくないな……と蓋をする。
後々、今よりもずっと心のゆとりがある時に考えることにしよう。それがいい。
「やるぞー」「おー」「出来るだけ守ろうなー」「うん、出来るだけね!」
何時になくワイワイと騒がしいB組に、通り過ぎる他のクラスの生徒たちが目を丸くしている。
やがて予鈴が鳴り、普段の落ち着きを取り戻していく教室の中。
前よりもずっと暖かいと思える、その場所で。
窓側の席、前から三番目。自分は午後の風を頬に受けてほんの少しだけ目を瞑った。
少しだけ泣きそうだったのは、誰にも内緒だ。