10 B組談話×ヤンデレの基本事項=涙腺崩壊
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午後の授業は滞りなく終わった。それまでの喧騒など夢か幻の如く、平穏無事に終了する。
鐘が鳴り、教師が退出し、ノートをぱたりと閉じた途端にそれまでの疲労が一気に去来してきた。
その結果、そのまま机につっぷすようにして倒れ込む。
少し寝よう、それがいい。
しかしそんな感慨も余所に、周囲から駆け寄る数人の足音。
何故か知らないが、そのまま集まった面々で放課後B組談話が始まったらしい。
当人の耳元を選ぶあたりに、色々と物申したいところだ。だがしかし、起き上がれない。
「あー、ほらやっぱり疲れてるよ。だって公開キスまでしてたくらいだし……精神的にもきてるんだろうなぁ」「うん。私だったらあれ、その場で憤死してるね」「そうだよなー。あれは流石にないよなー。でもイケメンだから壁ドンも映えるよなぁ」「違うあれ、扉ドン」「どっちでもいいだろう、そこは」「いいえ、そこは重要です。あれは壁ドン未遂。きっと次回は狙いに来ますよ」「うん、あれ位置が狂ったんだろうね。本当は壁ドン狙いだったよね」「ねー」「なんか俺、香野が不憫になってきた……」「あ、俺も」
不憫だと思うなら、そっとしておいてもらいたい。切実にそう願う。
自分だって、憤死できるなら憤死しているさ。でも、健康優良児なんだよ。気絶すらできなかったよ。
「ちょっと、少し静かにしてあげて。遊ちゃんが起きちゃうじゃないの」「……橙子、あんたいつの間に名前呼び……」「しかも愛称……」「私たちも今の内に呼んで定着させちゃおうか?」「悩みどころね」「それにしても、中学から目を付けて高校までひっついて来るなんてヤンデレの中でも生粋ですよね?」「あ、それ私も思った。これから相当苦労するよねぇ」「……やっぱりもう、貞操は奪われちゃってるんですかね?」「そこまだ疑ってるの? あのレベルのヤンデレが高校まで我慢してるとかあり得ないでしょ」「ええ、ありえませんね」「気の毒ですが、これから処女を奪われるよりも先んじて奪われている方がまだマシですよ」「えーどういう意味?」「それについてはヤンデレの基本事項を参照してください」「そんなもの存在するの……?」「要するに、溜まりに溜まった欲求を解放されるのが処女相手では、あまりに気の毒過ぎて直視できないという事例です」「うわぁ……沙紀ちゃん、生々しいこと言うねぇ」「おや、失言でしたね」「ねぇ……そんなことより、さっきから遊ちゃんが泣いているように見えるんだけど」
いや、泣くだろう。残念ながら未だに処女の身空だ。耳元でヤンデレの基本事項なんて恐ろしいものに関する説明を聞いていたら、普通に涙腺も崩壊するわ。
あぁ、もう……逃避したい。主に天羽君という名のヤンデレ(仮)から。現実をありのままに見詰めたら、怖くて明日から生きていけない気がするぞ。
さめざめと頬を泣き濡らし、もぞもぞと腕の中に潜り込む。
もう少し体力を回復させてから、バス停経由で直帰しよう。その時に彼と時間帯が被らないように対策を講じなければなるまい。やれやれ、どうするこれから。
「もしかして……」「これは本当にもしかするとですね……」「早急に対策を練らないといけないわね……」
云々といった囁きなど、断じて聞こえていない。
やはり涙は堪えるべきだったな。すべては遅きに失する。確実に疑い出した視線の先で、平素を装うのはむしろ逆効果になり兼ねん。
こうなれば、お口にチャックならぬ、お耳にシャッターだ。この強固な防壁を使い、自らのメンタルを守り抜いてみせる。
要するに、現実逃避だろうと? 当たり前だ。こういう時に逃避しなくていつ逃避するんだ。
少なくとも学校を出るまで、少しの油断も命取りだ。
下手を打てば、明日から登校拒否を切実に検討せざるを得なくなる。それは後々が面倒臭いので、自分は普通の生活をこれまで通りに過ごしたい。
――とまぁ、そんな風に安穏でいられた時もあったのだ。
生暖かい視線に晒されながら、教室を出る時までは少なくともそうだった。ホールを抜けて、バス停へ向かう道すがら『兎にも角にも直帰』に拘っていた自分は、その他の状況についてほぼ無自覚であったと言える。
嵐の前の静けさ、という典型的なそれに思い至るまでもなく。
バスに揺られる合間も、意識は常に『明日以降』。
「続きは後で」と言い残して去った彼の真意――その『後』がいつを指しているのか――すら、考えるのを忘れていた。
ほぼ盲目状態で、家の前まで帰り着いた頃。
「一体全体、何事だ」
「お帰り、遊里。思ったより遅かったね。とりあえず、これから君に謝罪させるから」
やっとのことで帰宅した我が家の前に、佇む三人分の人影を遠目に見た時に何やら嫌な予感は覚えたのだ。
近付くに従い、あきらかにそれが天羽君、天羽君のお母さま、婚約者の薔香さんということに気付いた時にはさらに嫌な予感が増大していくという救いの無さ。人数分で、トリプルだ。
だがしかし、この時点で逃亡も何もない。
だって家の前である。回れ右してどこぞで時間を稼いでくるというのも、ほとほと馬鹿馬鹿しい。しないぞ、そんな面倒なことは。今はとにかく枕に向けてダイブしたい気分だ。
諦めて近づいた先で、端的に尋ねてみる。見仰ぐ天羽君の表情はどこか晴れ晴れとしているが、彼の背後の二人――お母さまと薔香さんの顔色は蒼白を通り越して、不安を覚えるそれだった。
正直な話、一言目で病院を薦めようかで迷った。
「いらんわ」
「まぁ、そう言わずに二人分の謝罪を受け取って。そうでないとこの人たち、明日から真っ当には生きられないから」
「後半が怖すぎる。一体何をする気だ……いやいい、説明しなくて。ホラーは見るのも聞くのも勘弁だ」
「そう? なら、お言葉に甘えてその辺は省略するけど」
当人は説明する気満々だった。先んじて遮っておいて本当に良かったと胸を撫で下ろす。
しかし、それは早計に過ぎた。
「……待った。家の前で一体何をさせるつもりだ」
「何って? 見れば分かる土下座」
「鬼畜か!」
過たず振り上げた拳に、確かな手ごたえを感じる。今日はなんだか天羽君を平手で打ったり、殴り飛ばしたり、殴り上げたりしてばかりだ。
元々は平和主義者なんだ。その自負は今もってある。だがしかし、今は殴る時だ。
「……はぁ、もういい。天羽君と話をしたところで埒が明かない」
「今日は一日遊里に怒られてばかりだね」
頬を摩りつつ苦笑する彼。それを尻目に向き直った。
中途半端に膝を折ったまま、見開かれたままの二対の双眸。まじまじとこちらを見詰めるそれらに、少なくない戸惑いを覚えつつも、そろそろと手を差し伸べる。
むろん、これは二人に立つようにとその意味合いを込めて差し出した手だ。
しかしどうやら、彼女たちからすれば『それ以上』の意味があったらしい。
「「……貴女は、天使なの?」」
「……は?」
言われた言葉がまるで理解できず、呆けたまま差し出していた手。それをがっつりと握りしめられ、縋られた。
片方の腕ずつに、人一人分の体重が乗る。その重みたるや、想像以上。
思わずよろけたところを、見計らったようなタイミングで背後から抱え込まれた。
腰のあたりを囲う手と、不自然なくらいに密着している互いの身体。これも一つの『予定通り』かと思い至れば、げんなりもする。
頬ずりをしながら、耳元へどさくさに紛れて息を吹き込んで来る天羽君。「……やめろ」と軽く頭を振ってそれを払った。「虫扱い?」と尋ねられたので「まだ虫のほうがマシだ」と返しておく。
人の見方によって、虫は二種類に分かれるらしい。益虫と害虫だ。自分にとって『彼』がどちらに分けられるかは言うまでもない。
やたらと密着することに拘る害虫だ。
それを背後に張り付けたまま見詰める先、にじり寄るお母さまの表情は既に泣き濡れている。
お母さまはきっと女優の才能ありだ。素人目でも、そのように思う。
「どうか……どうか許して。今となっては貴女に伝えた言葉全てを後悔しているの。結貴には貴女みたいな人が必要だと分かったの」
「……許すも何も、そもそも謝罪は求めていな……」
「……あぁ! 何て優しい子なの。それなのに、私は初めから目を曇らせて……散々酷いことを貴女に言ったのに。貴女はそれを許してくれるのね……?」
「……許すも何も」
「ねぇ遊里さん? 今更私の口から言えるようなことだとは思っていないわ。それでも、どうか聞いて。息子の望みを叶えてあげて欲しいの。この子には貴女が必要なのよ。むしろ貴女以外に息子を御せる人はこの世の何処にもいないわ」
「……さっきから同じことしか言えないな。いや、それより天羽君には薔香さんという正式な婚約者が――」
「――私、嘘を付きました」
右腕が、ずんと重みを増した。
視線を向ければ、ハラハラと泣き零す美少女の姿が。なんとも罪悪感しか覚えない光景だ。
「本当は、ただの親同士の口約束でしたの。私が一方的に心を捧げて、今に至るまで『婚約者』という縛りを押し付けてきたに過ぎないのです……」
「……口約束の婚約?」
「はい。私の父と、天羽家の御当主との間で交わされた他愛のない遣り取りです。勿論、正式な書面など存在しません。けれども一目見た時から恋の炎に身を焼かれた私は、それを自分の都合のいいように誇張して、今に至るまでずっと利用し続けてきたのです」
「……要するに、一目惚れか?」
「はい。瞬きの間に、心を奪われておりました」
凄いな、言い切ったぞ。やはり大人メンタルは違う。
ふむふむと感じ入っている間に、いつしか背後への注意が逸れて『どさくさ行為』が悪化していた。
更に密着した体勢から、耳をはむはむと噛まれる。やたらと扇情的な噛み方をするので、流石に鬱陶しさが勝ってふるふると首を振ってやめさせた。
「退屈なんだよね」「我慢しろ」といった遣り取りを終えて、再び薔香さんの話に耳を傾けた。
どうやら話はずっと続いていたらしく、いつの間にやら佳境を迎えていた。
「――たとえ、その心が私に向いていないことを分かっていても。どうしても、諦めきれなかった。だから、嘘に嘘を重ねて私は貴女を彼から遠ざけようとしました……でも、もういいのです」
「いや、よくない」
それでは色々と困るのだ。
思わず零れ出た本音に、強まる腕の力。――振り返れば、そこに絶対零度の微笑み。
日常で最も身近な非現実、それこそホラーである。
「遊里?」
「……痛い。離せ」
「離さない。これから先、もう君から離れるつもりはないから」
「背後霊にでもなるつもりか?……真顔で頷くな。ならせめて、腕の力を緩めろ」
「遊里がこの場で誓うなら、緩めてあげる」
「……誓う? 何をだ」
「――二十歳を迎えた時点で、僕の伴侶になること」
「重い」
想像していたよりか、遥かに重い台詞が耳元に落ちてきた。
思わず身を震わせれば「寒いの?」と呟いた声の主がさらにその身体を密着させてくる。故意犯だ。まず間違いない。
「誓わないぞ」
「誓うの」
延々とその問答をしている間に、思えばそれなりの時間が経過していたのだろう。
自宅の庭先で、傍から見れば『どのように』見えるのか。そこが全く抜け落ちた状態で、不意にその場に響いた声。
その耳慣れた、声の主は――
「あらあら、買い物帰りにとんでもない光景に出くわしちゃったみたいだわ」
「……姉ちゃん」
「……遊里」
片頬に手を、片手に買い物袋を持った母。学校帰りの弟。仕事帰りの父。
姉(留学中)を除いた家族全員と出くわすという、最悪のパターンが待ち受けていた。




