あの子
高校三年生の春。
「大智、起きて」
肩を揺すられて、僕はゆっくりと顔を上げた。
「……なに?」
「なに、じゃないよ。さっきからずっと寝てるじゃん」
目の前にいたのは、幼馴染の莉愛だった。
「寝てないって」
「じゃあ、今の授業の内容言ってみてよ」
「……」
「ほらね」
莉愛は呆れたように笑った。
昔から、こいつにはこういうところをよく見られている。学校でも、野球部でも。莉愛は野球部のマネージャーをしていて、僕が練習をサボろうとすれば注意してくるし、調子がよければそれなりに褒めてもくれる。
僕にとっては、それが当たり前だった。
「今日の練習、遅れないでよ」
「分かってるって」
「昨日もそう言って遅れてきたじゃん」
「今日は大丈夫」
「ほんとかなあ」
そう言いながら、莉愛は自分の席に戻っていった。
僕はもう一度、机に突っ伏した。
僕は、自分の高校生活が好きではなかった。
嫌い、と言い切れるほどの理由もなかった。いじめられているわけでもなければ、友達が一人もいないわけでもない。勉強が絶望的にできないわけでも、部活でひどい目に遭っているわけでもなかった。
むしろ、周りから見れば、何の問題もない高校生だったと思う。
朝になれば学校へ行く。教室に着けば、顔を知っているやつに「おはよう」と声をかける。授業中は眠気と戦い、昼休みには友達とくだらない話をする。放課後になれば野球部の練習に参加して、疲れた体を引きずりながら帰宅する。
それなりに笑うし、それなりに楽しい。
けれど、家に帰って制服を脱ぐころには、その日一日のことなんて、ほとんどどうでもよくなっていた。
今日、何があったのか。
誰と何を話したのか。
何を見て、何を感じたのか。
思い返そうとしても、頭の中に残っているものはほとんどなかった。
毎日が、昨日の続きだった。
昨日と同じ電車に乗り、昨日と同じ道を歩き、昨日と同じ教室で、昨日と似たような会話をする。
それを繰り返しているうちに、僕はいつからか、何かを楽しみにすることが下手になっていた。
もちろん、楽しみがまったくなかったわけじゃない。
野球の試合に勝てば嬉しかったし、友達と馬鹿なことをして笑う時間も嫌いではなかった。
でも、それらは一日の中で起こる小さな出来事でしかなかった。
楽しいことがあっても、その楽しさが明日まで続くわけじゃない。
何かを頑張っても、明日になればまた同じような一日が始まる。
そう思っていた。
高校三年生になった春、周囲は少しずつ騒がしくなっていた。
進路の話が増え、受験を意識するやつが出てきて、先生たちは何度も「高校生活最後の一年」という言葉を口にした。
最後。
その言葉を聞くたびに、僕は不思議な気持ちになった。
みんなは、そんなに高校生活が終わるのが寂しいのだろうか。
部活が引退になれば、友達と過ごす時間が減れば、卒業してしまえば。
確かに、今までと同じ生活はできなくなるのだろう。
けれど、それがどうしたというのだろう。
終わるものは終わる。
始まったものは、いつか終わる。
僕は、そんなふうに考えていた。
野球部の引退だって、どこか他人事だった。
最後の大会が近づいていることは知っていた。練習が厳しくなっていることも、チーム全体が少しずつ本気になっていることもわかっていた。
それでも、胸の奥から何かが込み上げてくるような感覚はなかった。
悔しいと思うほど、野球に人生を懸けていたわけじゃない。
寂しいと思うほど、今の生活に執着していたわけでもない。
ただ、毎日をこなしていた。
そのころの僕は、きっと、自分の人生を少し遠くから眺めていたのだと思う。
自分が主人公のはずなのに、どこかで他人の物語を見ているような気分だった。
教室では、誰かが笑っていた。
廊下では、誰かがふざけていた。
放課後には、部活へ向かう生徒たちの声が響いていた。
そのすべてが、自分とは関係のないところで起きているように感じられた。
別に、ひとりぼっちだったわけじゃない。
ただ、誰かと一緒にいることと、誰かと本当につながっていることは、違うのかもしれない。
そんなことを考えたこともあった。
でも、考えたところで何かが変わるわけでもない。
だから僕は、深く考えないことにしていた。
このまま高校を卒業して、大学に進学して、その先もなんとなく生きていく。
きっと、それでいい。
そう思っていた。
あの子に出会うまでは。
高校三年生の春は、思っていたよりも退屈だった。
クラス替えをして、席替えをして、新しいクラスの空気に慣れていく。
最初の数週間は、誰もが少しだけよそよそしい。新しい友達をつくろうと積極的に話しかけるやつもいれば、去年の友達を見つけて安心したように笑うやつもいた。
僕は、そのどちらでもなかった。
話しかけられれば話すし、話が合えば笑う。
ただ、自分から積極的に誰かと仲良くなろうとは思わなかった。
どうせ一年もすれば、みんな卒業する。
そう考えると、新しく誰かと関係をつくることが、少し面倒に感じられた。
そんな僕の隣の席に、あの子がいた。
正確には、クラス替えの直後から隣だったのだと思う。
けれど、僕はあの子のことをほとんど知らなかった。
同じ学校にいたはずだし、廊下ですれ違ったことくらいはあったのだろう。
名前を聞けば、見覚えのある響きだと思う。
顔を見れば、どこかで見たことがある気もする。
それくらいだった。
彼女は、教室の中で特別目立つタイプではなかった。
いつも大勢に囲まれているわけでもなければ、教室の中心で大きな声を出しているわけでもない。
友達と話しているときは楽しそうに笑うけれど、一人でいるときは、スマートフォンを眺めたり、机の上を片づけたりしていた。
僕があの子について知っていたことは、その程度だった。
そして、知ろうともしていなかった。
毎週金曜日の二限には、家庭科の授業があった。
僕は家庭科が特別嫌いだったわけではない。ただ、実習や班活動がある日は、いつもより少し面倒だった。
誰かと協力して作業をする。
手順を確認する。
必要なものを準備する。
それ自体は難しくない。
けれど、普段なら自分のペースで進められることを、誰かと合わせなければならないのが、どうにも苦手だった。
その日も、授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。
先生が教室に入ってきて、今日の活動について説明を始める。
僕は教科書を開きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
春の空は、少し曇っていた。
特に何かを考えていたわけではない。
ただ、早く授業が終わらないかなと思っていた。
「じゃあ、班ごとに準備を始めてください」
先生の声で、教室が一気に動き出した。
椅子を引く音。机を動かす音。誰かが道具を探す声。
僕も立ち上がり、必要なものを確認した。
そのときだった。
「ねえ、これってどこにあるの?」
隣から声がした。
あの子だった。
あの子は、机の上に置かれた道具を見ながら、少し困ったような顔をしていた。
「え?」
「これ。先生が使うって言ってたやつ」
「ああ……」
僕は道具を見た。
見たところで、どこにあるのかなんてわからなかった。
「ごめん、俺も知らん」
「え、知らないの?(笑)」
「いや、知ってそうな顔してるだけだから」
「なにそれ(笑)」
あの子が笑った。
僕も、つられて笑った。
それだけのことだった。
特別面白いことを言ったわけでもない。気の利いた返しをしたわけでもない。
ただ、適当に答えただけだった。
なのに、あの子は思ったよりも楽しそうに笑った。
僕は、ほんの少しだけ意外に感じた。
それから、僕たちは作業をしながら、ぽつぽつと話すようになった。
道具をどこに置くか。
誰が何をするか。
先生の説明がわかりにくかったこと。
本当に、どうでもいい話ばかりだった。
それでも、会話は途切れなかった。
あの子は、僕がくだらないことを言うと笑ってくれた。
しかも、ただ愛想笑いをするのではなく、ちゃんと面白がってくれているように見えた。
僕は、普段から冗談を言う方だったと思う。
友達の前では、適当なことを言って笑わせることもあった。
けれど、誰かを笑わせることを、特別に意識していたわけではなかった。
面白いことを言って、相手が笑えば、それで終わり。
そこに何か特別な意味があるとは思っていなかった。
でも、あの子が笑うと、なぜか少しだけ嬉しかった。
自分の言葉が届いたこと。
自分の言葉で、目の前の人が笑っていること。
それが、いつもより少しだけ心地よかった。
その理由を、僕は考えなかった。
考えるほどのことではないと思っていた。
作業がひと段落すると、僕たちは少し暇になった。
先生は別の班の様子を見に行っていて、教室のあちこちから話し声が聞こえていた。
僕は机の上に置かれた鉛筆を手に取った。
何となく、芯を少しだけ出す。
それを見たあの子が、ふいに言った。
「それ、折れないの?」
「折れないよ」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんって(笑)」
僕は鉛筆を机の上に置いた。
そして、何を思ったのか、出ている芯を慎重に積み重ねるようにしてみせた。
一本目。
二本目。
三本目。
少しでも力を入れれば折れそうだった。
あの子が身を乗り出した。
「え、何してんの?」
「見てのとおり、すごいこと」
「全然すごくないんだけど(笑)」
「まだ途中だから」
「何本までいけるの?」
「十本」
「絶対無理じゃん」
「じゃあ、賭ける?」
「何を?」
「負けた方がジュースおごる」
彼女は少し考えるふりをした。
「いいよ。絶対勝つから」
今思えば、どうしてあんな遊びを始めたのか、自分でもよくわからない。
高校三年生にもなって、授業中に鉛筆の芯を積み重ねている。
しかも、勝負までしている。
くだらないにもほどがある。
それでも、そのときの僕たちは真剣だった。
芯を一本置くたびに、二人で息を潜める。
少しでも机が揺れると、あの子が「ちょっと!」と声を上げる。
僕が笑うと、あの子も笑う。
そして、とうとう芯が崩れた。
「あーっ!」
あの子が声を上げた。
「今の絶対、大智くんのせい!」
「いや、何もしてないだろ!」
「笑ったじゃん!」
「笑ったら崩れるルールなんて聞いてない!」
「今決めたの!」
「後出しじゃんけんじゃん!」
二人で、くだらない言い合いをした。
その声が少し大きかったのか、近くの席にいた友達がこちらを見た。
「お前ら何やってんの?」
「勝負」
僕が答えると、友達は机の上を見て、呆れたように笑った。
「何歳だよ」
「高校三年生です」
「終わってんな(笑)」
友達はそう言って、自分の席へ戻っていった。
あの子は、まだ笑っていた。
僕も笑っていた。
そのとき、僕は初めて、授業が終わってほしくないと思った。
正確には、授業が終わってしまうことが、少しだけ惜しく感じられた。
いつもなら、チャイムが鳴るのを待っていた。
早く終わらないかな。
早く休み時間にならないかな。
そんなことばかり考えていた。
なのに、その日は違った。
もう少し、このままでいたい。
もう少し、あの子と話していたい。
そんなことを考えていた。
やがて、チャイムが鳴った。
先生が片づけるように指示を出し、教室の空気が少しずつ日常に戻っていく。
あの子は道具をまとめながら、僕に言った。
「結局、ジュースどうするの?」
「え、俺の勝ちじゃない?」
「は? 途中で折れたじゃん」
「いや、十本まで積めたら勝ちってルールだっただろ」
「十本いってないじゃん!」
「……そうだったわ」
あの子は、声を出して笑った。
僕も笑った。
結局、勝負は引き分けということになった。
ジュースをおごる約束は、曖昧なまま終わった。
それでも、僕はその日のことを覚えていた。
鉛筆の芯を積んだこと。
あの子が笑っていたこと。
自分も、久しぶりに何も考えずに笑っていたこと。
練習が終わる頃には、空が少しずつ暗くなり始めていた。
着替えを済ませて校門を出ると、先に帰る準備を終えていた莉愛が待っていた。
「遅い」
「着替えてたんだから仕方ないだろ」
「みんなもう帰ったよ」
「じゃあ先帰ればよかったじゃん」
「一緒に帰ろうと思ったんですけど?」
「はいはい、ありがと」
「感謝が足りないんだけど」
莉愛はそう言って、僕の隣を歩き始めた。
「今日の練習どうだった?」
「いつも通り」
「それ、毎回言うよね」
「実際いつも通りだし」
「もっとなんかないの? 調子よかったとか、疲れたとか」
「疲れた」
「それは見てれば分かるよ」
莉愛が笑った。
僕も適当に返事をしながら、いつもの帰り道を歩いていた。
莉愛とは、こういう会話を何度もしてきた。話すことがなくても困らないし、沈黙が続いても気まずくならない。気を遣う必要もなければ、無理に話を続けようとする必要もなかった。
それが普通だった。
ふと、昼間の家庭科の授業を思い出した。
あの子とくだらないことで笑い合ったこと。授業が終わるとき、もう少し話していたいと思ったこと。
ほんの些細な出来事だった。
なのに、今こうして莉愛と歩いていると、あのときとは何かが違うような気がした。
「なに、ぼーっとしてんの?」
「え?」
「さっきから全然話聞いてないじゃん」
「ああ、ごめん」
「珍しいね。いつもはうるさいくらいなのに」
「それ褒めてる?」
「まさか」
莉愛は笑った。
僕も笑い返した。
楽しくないわけじゃなかった。莉愛といる時間は、昔から変わらず居心地がよかった。
それでも、昼間のあの子との時間を、もう一度思い返してしまう自分がいた。
その日の帰り道、僕はいつもより少しだけ機嫌がよかった。
次の金曜日が来るまで、僕はあの子と特別な会話をしたわけではなかった。
廊下ですれ違えば、軽く挨拶をする。
教室で目が合えば、何となく笑う。
それくらいだった。
それなのに、金曜日が近づくと、僕は家庭科の授業を少しだけ意識するようになった。
木曜日の夜、翌日の時間割を確認する。
家庭科がある。
それを見て、ほんの少しだけ気分が軽くなる。
自分でも、不思議だった。
たった一度、くだらない遊びをしただけだ。
彼女のことを、まだほとんど知らない。
好きな音楽も、好きな食べ物も、休日に何をしているのかも知らない。
それなのに、次に話せる時間を楽しみにしている。
どうしてだろう。
考えてみても、答えは出なかった。
だから、考えるのをやめた。
たまたまだ。
たまたま、話が合っただけ。
たまたま、面白い子だっただけ。
きっと、そういうことなのだと思った。
次の金曜日。
家庭科の授業が始まると、あの子はいつもどおり隣に座っていた。
「今日、何やるんだろうね」
彼女が教科書を開きながら言った。
「さあ。俺、何も聞いてない」
「ちゃんと聞いてよ(笑)」
「いや、先生の説明が難しいんだって」
「まだ始まってもないじゃん」
あの子が笑った。
僕も笑った。
前の週と、何も変わっていない。
同じ教室。
同じ机。
同じような会話。
なのに、僕はその時間を楽しんでいた。
あの子と話すことが、少しずつ自然になっていた。
そして、授業が終わるころ、僕は思った。
来週も、こうして話せたらいいな。
それは、誰かを好きになったときの感情としては、あまりにも小さなものだったのかもしれない。
胸が苦しくなるわけでもない。
眠れなくなるほど考え込むわけでもない。
ただ、来週も会話ができたらいい。
それだけだった。
でも、今振り返れば、何かを好きになるということは、案外そういうところから始まるのかもしれない。
特別な出来事があったからではない。
相手が誰よりもかわいかったからでも、運命を感じたからでもない。
その人と過ごす時間が、ほんの少しだけ、ほかの時間よりも楽しみになった。
ただ、それだけだった。
「声出せ! まだいけるだろ!」
監督の声がグラウンドに響いた。
「はい!」
返事と同時に、金属バットがボールを弾く音が鳴った。
「オーライ! オーライ!」
フライを追う声。土を蹴るスパイクの音。ミスをすれば、すぐに次の球が飛んでくる。
「今の一歩目、遅い! もう一本!」
「はい!」
息を切らしながら、僕たちは守備位置につき直した。
六月が近づくころ、野球部の練習は少しずつ忙しくなっていた。
最後の大会が近づいていた。
練習が増え、放課後の時間はあっという間に過ぎていった。ようやく練習が終わるころには、空はもう真っ暗だった。
「お疲れー」
「足やばいんだけど」
「明日もこれだったら死ぬわ」
部員たちのそんな声を聞きながら、僕は道具を片づけた。
着替えを済ませ、校門を出る。いつも通る帰り道なのに、その日はやけに長く感じた。
「ただいまー」
「おかえり。今日も遅かったね」
キッチンから母親の声がした。
「部活。」
家に着くと、鞄を置いて、そのままベッドに倒れ込んだ。
スマートフォンを開き、友達からのメッセージを確認する。
動画を見たり、SNSを眺めたりしているうちに、いつの間にか夜になっていた。
いつもと同じ生活だった。
その日も、特に何かが起こるとは思っていなかった。
スマートフォンが震えるまでは。
画面に表示された名前を見て、僕は一瞬、動きを止めた。
あの子だった。
『大智くんって野球部だよね?』
僕はメッセージを開いた。
何だろう。
大会のことだろうか。
そう思いながら、返信を打つ。
『そうだよ』
送信して、少し待った。
すぐに既読がついた。
『今度の大会って、まだ見に行ける?』
その文章を読んだ瞬間、僕は画面を見つめた。
見に行ける?
つまり、応援に来てくれるということだろうか。
いや、まだそうと決まったわけじゃない。
友達と一緒に行くのかもしれないし、たまたま興味を持っただけかもしれない。
深い意味なんてないのかもしれない。
それでも、嬉しかった。
自分が野球をしているところを、あの子が見に来てくれる。
僕にとっては、それだけで十分だった。
『まだ大丈夫だと思う!』
できるだけ普通に返した。
文章の最後に、変な絵文字をつけるのはやめた。
変に浮かれていると思われたくなかった。
そもそも、浮かれていること自体を認めたくなかった。
スマートフォンを置いた。
数秒後、また手に取った。
返信が来ていないか確認した。
まだだった。
僕は自分の行動に笑いそうになった。
何をやっているんだ。
たった一通のメッセージで、こんなに落ち着かなくなるなんて。
それでも、スマートフォンを遠くへ置くことはできなかった。
「大智ー! ご飯できてるよ!」
「今行く」
そう返事をして、僕はスマホを置いた。
……数秒後、もう一度手に取った。
「大智! 何回呼ばせるの!」
「今行くってば」
母親の声に僕は慌てて階段を降りた。
その夜、僕は何度も画面を確認した。
あの子とのやりとりは、そこから少しずつ増えていった。
大会の話から、学校の話へ。
学校の話から、テストの話へ。
気づけば、特に用事がなくてもメッセージを送るようになっていた。
『今日の授業眠すぎた』
『わかる(笑)』
『先生の声、眠くなるんだよな』
『失礼すぎる(笑)』
そんな、何でもないやりとり。
別に、深い話をしているわけではない。
それなのに、あの子から返信が来ると嬉しかった。
何かを話したいというより、あの子とつながっていたかったのかもしれない。
でも、当時の僕には、そこまで考えることはできなかった。
ただ、あの子とのやりとりが楽しかった。
そして、少しずつ、僕の日常の中であの子の存在が大きくなっていった。
テストが近づいていた。
僕は机に向かい、英語の単語帳を開いていた。
開いていた、というだけで、勉強が進んでいたわけではない。
同じページを何度も読み返しているのに、頭にはほとんど入ってこない。
スマートフォンを手に取る。
あの子とのトーク画面を開く。
何か送ろうかと思ったけれど、特に用事はなかった。
今、何をしているのだろう。
勉強しているのだろうか。
そんなことを考えながら、画面を眺めていた。
すると、あの子からメッセージが届いた。
『テスト勉強進んでる?』
僕は思わず笑った。
『全然』
『私も(笑)』
そこから、勉強が進まないという話になった。
そして、あの子が言った。
『じゃあさ、電話する? 一緒に勉強しよ?』
一瞬、指が止まった。
電話。
文字で話すのと、声で話すのとでは、何かが違う気がした。
もちろん、友達と電話をしたことくらいはある。
けれど、あの子と電話をするとなると、少し話が違った。
何を話せばいいのだろう。
沈黙になったらどうしよう。
変なことを言って、つまらないと思われたら。
そんなことを一瞬で考えた。
それでも、返事は決まっていた。
『まじで? うん、しよう』
送信した。
すぐに、あの子から返事が来た。
『じゃあ、LINE交換しよ!』
僕は慌ててスマートフォンを操作した。
連絡先を交換して、電話をかける。
呼び出し音が鳴った。
一回。
二回。
三回。
そして、つながった。
「もしもし?」
あの子の声が聞こえた。
僕は、なぜか少しだけ緊張した。
「もしもし」
「え、なんか変な感じ(笑)」
「いや、こっちのセリフなんだけど」
「なんでよ(笑)」
あの子が笑った。
その声を聞いて、少しだけ安心した。
文字でやりとりしていたときにはわからなかったことが、いくつもあった。
笑うときの声。
話すときのテンポ。
何かを思い出したときに、少しだけ声が高くなること。
そんな細かいことが、電話越しに伝わってきた。
僕たちは、一応、勉強を始めた。
英語の単語帳を開いて、わからない単語を確認する。
でも、五分もしないうちに話が逸れた。
「これ、なんて意味だっけ?」
「え、今やったじゃん」
「忘れた」
「早すぎるだろ(笑)」
「だって覚えられないんだもん!」
「俺もだけど」
結局、二人とも勉強はあまり進まなかった。
その代わり、いろいろな話をした。
学校であったこと。
友達のこと。
好きな食べ物。
休日の過ごし方。
話題がなくなったと思っても、少しするとまた何かが浮かんできた。
気づけば、かなりの時間が過ぎていた。
「やば、もうこんな時間」
あの子が言った。
「ほんとだ」
「全然勉強してない(笑)」
「誰のせいだよ」
「大智くんでしょ!」
「いや、絶対そっちだろ」
また、二人で笑った。
電話を切る直前、彼女が言った。
「じゃあ、またね。おやすみ!」
「おやすみ」
通話が終わった。
画面が暗くなった。
部屋には、いつもの静けさが戻っていた。
机の上には、開いたままの単語帳。
時計を見ると、思っていたよりも遅い時間になっていた。
勉強は、ほとんど進んでいなかった。
それなのに、僕は後悔していなかった。
むしろ、もう少し話していたかったと思った。
さっきまで聞いていた声を思い出す。
笑い方。
言葉の選び方。
何でもない話をしているときの、少し気の抜けた声。
文字だけでは知らなかったあの子が、少しだけ近くなった気がした。
僕はスマートフォンを開き、トーク画面を見た。
最後に届いたメッセージは、電話をする前のものだった。
何か送ろうかと思った。
でも、もう遅い時間だったし、特に用事もなかった。
結局、何も送らずに画面を閉じた。
その夜、僕はいつもより少しだけ、明日が来るのを楽しみにしていた。
それから、電話をすることが何度かあった。
毎晩というわけではない。
部活で疲れている日もあれば、あの子が忙しい日もあった。
それでも、時間が合えば電話をした。
テスト勉強をするつもりで始めて、結局、ほとんど雑談で終わる。
そんな夜が増えていった。
彼女からメッセージが来ることも、少しずつ自然になっていた。
『今日の練習どうだった?』
『テスト終わった?』
『明日、頑張ってね!』
その一つひとつが嬉しかった。
誰かが自分のことを気にかけてくれている。
今日、何をしていたのか知りたいと思ってくれている。
それまでの僕は、誰かに必要とされることについて、あまり深く考えたことがなかった。
友達と遊ぶのは楽しい。
誰かと話すのも楽しい。
でも、自分がいないと寂しいと思ってくれる人がいること。
自分の一日を知りたいと思ってくれる人がいること。
それは、今まで知らなかった種類の嬉しさだった。
ある日、あの子からメッセージが届いた。
『大会、もうすぐだね!』
『そうだね』
『緊張してる?』
僕は少し考えてから返した。
『まあ、ちょっと』
本当は、緊張している理由が野球だけではないことを、あの子には言えなかった。
あの子が見に来てくれる。
そのことが、ずっと頭にあった。
いいところを見せたい。
かっこ悪いところは見られたくない。
できれば、勝ちたい。
でも、もし負けてしまったら。
そんなことを考える自分が、少し情けなかった。
野球の試合なのに。
あの子に見られることを、こんなにも気にしている。
それまでの僕なら、試合の結果を誰かにどう思われるかなんて、そこまで気にしなかったはずだ。
それなのに、今は違った。
彼女に、少しでもいいところを見せたかった。
その気持ちに気づいたとき、僕はしばらく画面を眺めていた。
これは、好きということなのだろうか。
あの子と話したい。
あの子に会いたい。
あの子に、自分を見てほしい。
あの子が笑っていると嬉しい。
あの子から返信が来ると、何度でも画面を開いてしまう。
ここまで考えれば、答えはもう出ていたのかもしれない。
でも、僕はまだ、その言葉を口にしたくなかった。
好きだと認めてしまえば、今までのようにはいられなくなる気がした。
もし、僕だけがそう思っていたら。
もし、あの子にとって僕が、ただ話しやすいクラスメイトだったら。
もし、今の関係が壊れてしまったら。
そう考えると、少し怖かった。
だから、僕はその気持ちを、心の奥にしまっておくことにした。
まだ、好きだとは言わない。
まだ、何も決めない。
今のままでも、十分に楽しいのだから。
そう思っていた。
けれど、そのころにはもう、僕の日常の中で、あの子は特別な存在になっていた。
大会の日が近づくにつれて、さらに練習は厳しくなった。
「足止めるな! 最後まで走り切れ!」
監督の声がグラウンドに響く。走り込みを終えたばかりの僕たちは、息を切らしながら再び列に並んだ。
「次、ノックいくぞ! 一本一本、試合だと思ってやれ!」
「はい!」
打球が飛ぶ。土を蹴り、飛びつき、立ち上がる。ミスをすれば、すぐにもう一本。
「今の取れただろ!」
悔しそうに顔をしかめるチームメイトを横目に、僕もグローブを構え直した。
練習が終わっても、素直に帰れる日は少なかった。残ってバットを振るやつもいれば、納得がいくまで守備練習を続けるやつもいた。
誰もが、最後の大会を意識していた。
僕だって、何も考えていなかったわけではない。
ここまで続けてきた野球が、もうすぐ終わる。
そう思うと、少しだけ寂しかった。
けれど、それ以上に、僕は落ち着かなかった。
あの子が来てくれる。
そのことが、頭から離れなかった。
大会当日の朝、いつもより早く目が覚めた。
朝食を済ませ、荷物を確認して家を出ると、校門の近くに莉愛がいた。
「おはよ」
「おはよう。今日、寝坊しなかったんだね」
「するわけないだろ。今日、大会だぞ」
「いや、大智って朝弱いじゃん」
「なんで知ってんだよ」
「お母さんから聞いた」
「……余計なことを」
莉愛は楽しそうに笑った。
「まあ、頑張ってね。ちゃんと見てるから」
「おう。ありがと」
「負けたら許さないからね」
「急にプレッシャーかけんなよ」
「冗談。いつも通りやればいいよ」
そう言って、莉愛は僕の背中を軽く叩いた。
「じゃ、あとでね」
「ああ」
グラウンドへ向かう。
見慣れた景色のはずなのに、その日は何となく違って見えた。
試合が始まれば、余計なことは考えなくなるはずだった。
実際、試合中は必死だった。
ボールを追い、声を出し、目の前のプレーに集中する。
それでも、ふとした瞬間に、観客席のことが頭をよぎった。
来ているだろうか。
どこかで見てくれているだろうか。
そんなことを考えてしまう自分がいた。
試合は、思うようにはいかなかった。
相手に点を取られ、こちらはなかなか流れをつかめない。
時間が過ぎるほど、勝利が遠ざかっていくのがわかった。
「整列!」
試合終了。
負けた。
大差だった。
最後のアウトが成立した瞬間、グラウンドの空気が変わった。
それまで聞こえていた声が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
悔しかった。
もっとできたんじゃないか。
あそこで、何かが変わっていたら。
そんなことを考えた。
でも、試合が終わったという事実は変わらなかった。
僕たちの高校生活の中で、当たり前のように続いていた野球が、終わりに近づいていた。
それでも、僕はすぐには帰れなかった。
観客席を見渡した。
あの子を探していた。
負けた試合を見せてしまった。
何を話せばいいのだろう。
来てくれてありがとう、と言えばいいのか。
負けちゃった、と笑えばいいのか。
自分でも、よくわからなかった。
そのときだった。
「大智くん!」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、あの子がこちらへ走ってきた。
「お疲れさま!」
息を切らしながら、あの子は笑っていた。
僕は、少しだけ言葉に詰まった。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
あの子は僕の顔を見て、何かを言おうとした。
けれど、すぐにいつもの表情に戻った。
「写真撮ろ!」
「え、今?」
「今! せっかく来たんだから!」
彼女は、当たり前のようにスマートフォンを取り出した。
僕は汗をかいていたし、疲れていたし、できればもう少しまともな顔をしているときに撮りたかった。
でも、あの子が撮りたいと言うなら、それでいいと思った。
「うん撮りたい。」
隣に並ぶ。
あの子がスマートフォンを構える。
シャッター音が鳴った。
「見せて」
僕は画面をのぞき込んだ。
そこには、疲れた顔の僕と、笑っているあの子が写っていた。
「俺、めっちゃ疲れた顔してない?」
「してる(笑)」
「ひどくない?」
「だって、本当に疲れてるじゃん!」
あの子は笑った。
僕も笑った。
試合に負けたことが、なくなったわけではない。
悔しさだって、まだ残っていた。
それでも、あの子が笑っているのを見ていると、少しだけ気持ちが軽くなった。
彼女は、試合に勝った僕を見に来たわけではなかったのかもしれない。
少なくとも、僕にはそう思えた。
勝っても、負けても。
格好よくても、格好悪くても。
あの子はここに来てくれた。
そのことが、何よりも嬉しかった。
帰り道、僕は何度も写真を見返した。
自分の顔は、やっぱり疲れていた。
でも、消そうとは思わなかった。
あの子が隣にいた。
それだけで、その写真は僕にとって大切なものになっていた。
その夜、僕はようやく、自分の気持ちを認めた。
僕は、あの子が好きだ。
一緒にいると楽しいからだけじゃない。
話が合うからだけでもない。
あの子に会いたい。
あの子の声が聞きたい。
あの子に、自分のことを知ってほしい。
そして、あの子のことをもっと知りたい。
好きだ。
この気持ちを、もう誤魔化せなかった。




