第50話 海の大人魚
海ではしゃぎ終えたところで、アリエッタたちは軽食を取ることにした。アリエッタの母バーバラが用意してくれたものだ。
竹製の籠の中にはサンドウィッチとレモンがたっぷりのったトーストが入っていた。
「美味しそうね。さすがお母さま」
各々好きなものをとっていく。ネフィシーは黙ってレモントーストを手に取っていた。彼はここにきてからトーストをよく食べている。好物なのだろうか。
アリエッタもサンドウィッチを手に取る。中にはレタス、ハム、卵が入っており野菜たっぷりだ。溢れ出る汁が舌を誘う。
サンドウィッチはナーリア王国で古に生きたサンドーという名の魔女によって発明され、伝承されている食べ物らしい。栄養が取れて腹も満たさるということでたちまち人気になったそうだ。
「ネフィシーさま。トーストより野菜たっぷりの方が健康に良いのではないでしょうか?」
「……何を。野菜は好まないがちゃんと摂取している」
大嘘を。アリエッタが無理やり盛り付けた時以来、野菜を食べているところを見たことがない。今もトーストを取っているし。
「レモンも野菜だ」
レモンは野菜ではない。果物に属する。堂々と言うことではない。アリエッタは諦めてサンドウィッチを口に入れた。野菜たちが上手くとけあって、絶妙な味わいだ。
母の料理を堪能しているとエルラが疑問を投げかけた。
「ねえ。さっき喉が渇いたから、海水を沢山飲んだのよ。なのに不思議ね。口に十分含んだのに喉が渇いて渇いてしょうがないわ」
その言葉を聞いてアリエッタは険しくなる。無言でエルラに鉄製の水筒を渡した。
「まずはそちらで水分を補給してください」
「え、ええ」
ただならぬ雰囲気を感じたのかエルラは珍しく反論せずにアリエッタの言う通り行動した。エルラは一口飲んだだけで満足ようで水筒を籠の中へ戻す。
「一口だけでは足りないかもしれません。もっと摂取してください」
「どうして? わたしはさっき海水を有り余るほど……」
「だからです。最悪死にますよ」
そう警告すればエルラは「ひい」と顔を真っ青にしてさらに水を口に含めた。
「アリエッタ。なんで海水を飲んじゃ駄目なの?」
「ああ。それは俺も気になる」
三人とも知らないのか。常識の範囲内だろうと思いつつ説明した。
「海水を飲めば体内の塩分濃度が上がってしまいます。エルラさま、海水の味はどうでしたか?」
「塩辛くて苦くて。とにかく美味しくなかったわ」
美味しくなかったのに飲み続けたのか。ある意味すごい。アリエッタは一口で限界がくるのに。
「沢山塩分が含まれていますからね。美味しくないのは当然です」
「美味しそう」
隣に座るネフィシーがぽつりと呟いた。美味しそうだと思うのなら今すぐに飲んでこれば良い。その後の結末は知らないが。
「塩分濃度が高くなれば人は濃度を薄めようと必死になるのです。その過程で犠牲になるのが体内の水分。エルラさま。今のあなたは水分が足りていないのですよ」
「わ、分かったわ。水を飲めば良いのでしょう。もう、本当嫌ね」
好奇心旺盛なエルラはどこかへ旅立ち素直になれない照れたエルラが現れた。彼女は機嫌が急に変わるから妙に関わりづらいのだ。
「わたしは更に海を満喫しようと思うの。アメリアも来てちょうだい」
エルラは十分に体内の水分を補完させた後、すぐに立ち上がった。立ち上がる時に少しよろめいていたが大丈夫だろうか。
「海で遊ぶのは構いませんが。少しでも違和感を感じたらすぐに休んでくださいね」
「あ、あなたがわたしを諭してくれている……? 珍しいわね。そんなにわたしのことを心配してくれているの?」
僅かに頬を紅潮させ探るように目を細めながらアリエッタの方へ顔を近づける。水に濡れた絹のようなさらさらな髪から雫がぽたりとアリエッタの足首に滴り落ちた。
「いえまったく。ただまあ知人がひとり死ぬのは嫌ですからね。私は構いませんけど。その後のなんとも言えない空気が嫌いなのです」
エルラが自分に寄せているであろう期待という言葉を裏切ることになるが。心配したと勘違いされるよりは遥かにましだ。
「そう。良いわ。行きましょう、アメリア」
「エルラの健康管理はこのあたしにお任せあれ」
つまらなさそうに踵を返すエルラをアメリアが追いかける形でふたりは海辺の方へ再び向かった。
一方のネフィシーはというとまだレモントーストを噛み締めている。サンドウィッチはまだ残っているのにトーストは残りひとつとなっていた。誰がトーストだけを頬張ったのか犯人丸わかりである。
「最後のトーストはアリエッタと半分ずつにしないか? 俺が半分に切ろう」
勝手に共有することになっている。
「いらないです。半分しか食べられないのなら残しておいてまたあとで食べたら良いではありませんか」
「それもそうだな。しかし、盗られたらどうしよう」
本気で瞳を揺らして不安そうな表情になっている。
「誰も食べませんよ。少なくとも私は手をつけないことにします」
マイペースなアメリアあたりはかなり怪しいが。食べないと信じよう。
「トーストはいつでも堪能できますが、海は今しか堪能できません。せっかくですし、もう一度海を楽しみませんか?」
「ああ」
短く頷き、ゆっくりと立ち上がる。ぶかぶかのローブは水分をたっぷり含んでいて作業効率を大幅に下げていそうだ。現に今、ネフィシーの足取りは覚束ない。
ゆっくり歩くネフィシーに合わせてアリエッタも浅瀬の方へ向かう。少し歩いたところで急にネフィシーが立ち止まった。
「どうしましたか?」
まさかもう体力切れとは言わないよな、と内心訝しげに見つめていると。
「……伏せろっ!」
ネフィシーがアリエッタの肩を掴み、自身と共に砂浜へ倒れ落ちる。アリエッタは彼に押されて仰向けに、ネフィシーはうつ伏せになって倒れる。おまけに押しつぶされそうだ。勝手なことを、トーストの食べ過ぎで急に我を失ったのか、と呑気に考える。
「ちょっと、ネフィシーさ……」
アリエッタが文句を言いかけたその瞬間、あっと驚くスピードの閃光がふたりの上を通り抜けた。突然のことにアリエッタは言葉を失ってしまう。
さらには「グルルウア……」と甲高い女性のものと見られる獣の咆哮が聞こえてきた。魔物か何か発生したのだろうか。そうならば先ほどの愚行も許してやろう。
「悪い。……立てるか?」
ネフィシーが起き上がるのでアリエッタも続く。ネフィシーは手を差し出してくる。僅かに逡巡した後、彼の手をしっかり握って立ち上がる。自分で立ち上がる力ははっきりあった。
「何だ、あれは……」
ネフィシーは知らないようで息を呑む。上半身は人間のもの、下半身は魚のものとなった人魚が現れた。アリエッタたち人間より遥かに巨大で首を吊り上げて見上げないと人魚の顔が見えない。長い金髪は軋んで艶が無くなっており、元は美しかっただろう堀の深い顔だちも翳りが見えてかつての輝きを失っていた。
「マーメリアさまでしょうか」
噴水付近に設置されていた海の大人魚マーメリアの銅像を思い出す。彼女の顔立ちや佇まいに妙に似ている気がしたのだ。
「マーメリア?」
ネフィシーは知らないようだ。アリエッタは生まれた時から基礎知識として父母に叩き込まれたというのに。マーメリアの存在は王国共通認識だと思っていたのだが。案外知名度はないんだということを知ることになった。
「倒すか?」
ネフィシーは言葉と同時に漆黒の杖を振り翳して取り出す。
直後彼は瞳を大きく見開いて防御結界を張った。マーメリアがこちらへ向かって閃光の攻撃を放ってきた。マーメリアの攻撃のスピードは光の速さのようだった。瞬時に反応できたネフィシーが地味にすごいと感じてしまうほどに。アリエッタなら粉々に砕けてしまっていただろう。
「きゃー!」
甲高い悲鳴と共にふたりが大きく飛ばされた。ふたりは少し先の海へ投げ飛ばされる。よく見えないがエルラとアメリアのように見えた。ふたりは無事だろうか。
すると突然、マーメリアの影響か気温が低くなり、濡れた身体がまだ乾かないアリエッタは小さくくしゃみをした。
「……良ければ俺のローブを羽織ってくれ」
アリエッタの返事を待つことなくネフィシーはぶかぶかのローブを脱いで、肩にそっとかけ、袖を通してくれた。頼んでもいないのに、何を勝手なことを。寒いのはネフィシーだって同じだろうに。
ローブがなくなったことにより、ネフィシーの服装は酷く簡素で身体の線がよく見えるようになってしまった。彼は恐らく自身の体つきを見られることを酷く嫌う性格だと思うのに。何だか申し訳なくなってしまう。
「おい。そいつは敵だ。害悪な敵だ。海の大人魚として讃えられているのが悍ましいくらいにな」
背後からよく響く声が聞こえてきたので振り返る。マリンルナが棒状の杖を持って現れた。
「分かった。倒そう」
早くも大人魚へ駆けようとしたネフィシーをマリンルナは「よせ」と手で制す。
「あんたたちは、海へ居る者たちの避難を。こいつはあたしひとりで倒す」
今度はネフィシーが「よせ」と否定する。
「こいつは相当強そうだぞ。マリンルナの強さは知らないがあまりにも無謀では」
「良い、いらない」
強がりからなのか、結構と言うが。彼女は杖をぎゅっと握りしめて歯を食いしばった。潤んだ瞳は海の水のように、決意を宿した勇気あるものの色をしていた。
「あたしが、犠牲になる。……生贄になる」




