第1話 君を愛することはない
針が指の腹を突き抜けた。
赤い雫が、象牙色の絹へ落ちる寸前で指を引く。私は唇で血を吸い、膝の上に広げた裾を確かめた。染みはない。よかった。
「お姉様、まだ?」
鏡の前でフローラが身をよじった。金色の髪に挿した真珠が揺れ、仕立てたばかりの薄緑のドレスが椅子の脚を擦る。
「もう少しよ。動くと縫い目が曲がってしまうわ」
「だって、皆様がお待ちなのよ。今夜の主役が遅れたら困るでしょう?」
今夜は私の二十三歳の誕生日だった。
けれど、そのことを口に出す必要はない。フローラの新しいドレスが届いた時、継母は「せっかく客が集まるのだから、この子の社交披露も兼ねましょう」と言った。父は名案だと笑い、私も笑って頷いた。
ドレスの裾が長すぎると分かったのは日が沈んでからだ。衣装係は宴の支度に回され、裁縫のできる私が直すことになった。
「エレノア、まだ終わらないの?」
扉を開けた継母エレーヌが、私の裂けた指ではなく時計を見た。
「申し訳ありません。あと三針です」
「血をつけないでちょうだい。フローラが今夜どれほど注目されるか、分かっているでしょう」
「はい」
糸を結び、余りを歯で切った。指へ布を巻く暇はなかった。フローラが立ち上がると、燭台の光が真珠と金糸の刺繍に散った。
「きれいよ、フローラ」
「本当? ジュリアン様もそう思ってくださるかしら」
胸の奥に細い針がもう一本入ったような気がした。
「ええ、きっと」
私の答えを聞く前から、妹は鏡の中の自分へ微笑んでいた。
大広間へ下りると、楽団はすでに二曲目を奏でていた。父は私を叱る代わりに、フローラの肩を抱いて客の輪へ連れていった。
「遅れて申し訳ございません。姉がどうしても最後の仕上げをしたいと言いまして」
妹の説明に、皆が「優しいお姉様ね」と私を見る。私は背中で両手を重ね、布を巻いていない指先を隠した。
誕生日の席には、フローラが座った。彼女のドレスをよく見せるには中央がよいからだ。私には端の椅子が用意されていたが、座る前に給仕が呼び止めた。
「ベルフォール伯爵令嬢、こちらを」
銀盆の上に小さな箱があった。ジュリアンからの贈り物だと思い、愚かにも胸が跳ねた。
蓋を開けると、淡い緑のリボンだった。
「モンテーニュ侯爵令息様から、フローラ様へとのことです」
「……そう。届けてくださる?」
「ご本人から、お姉様の手で渡してほしいと」
フローラは客に囲まれ、ジュリアンの隣で笑っていた。私が箱を差し出すと、妹は歓声を上げた。
「まあ、先日の手紙に書いた色を覚えていてくださったのね」
先日の手紙を書いたのは私だった。春の若葉を見ると、冬を越した喜びを感じる――継母に「もう少し心のこもった文章にして」と命じられ、私が添えた一節である。
ジュリアンは満足そうに頷いた。
「君の言葉を忘れるはずがない」
その直後、誕生日の菓子が運び込まれた。砂糖で作った白い薔薇の中央に、二十三本の細い蝋燭が立っている。
「エレノア、こちらへ」
父に呼ばれ、私はようやく自分の席へ進んだ。ところがフローラが蝋燭へ顔を近づけ、はしゃいだ声を上げる。
「きれい。こんなにたくさん、一度に吹き消せるかしら」
継母が私へ目配せした。
「この子は自分の誕生日に熱を出して、蝋燭を吹き消せなかったの。少しだけ、いいでしょう?」
「もちろんです」
私が答えると、父は満足そうに頷いた。楽団が祝いの曲を奏でる中、フローラが二度に分けて蝋燭を消した。客たちは拍手し、ジュリアンは妹の肩へ自分の上着を掛けた。
切り分けた最初の一皿もフローラへ渡った。私は給仕に呼ばれ、妹のために甘さの少ない部分を選ぶ。自分の口へ入ったのは、指についた砂糖の欠片だけだった。
彼は婚約者である私へ、誕生日の挨拶をしなかった。
それも仕方がない。家同士が決めた婚約だ。八年前、初めて二人きりになった日に、彼は正直に教えてくれた。
『君を愛することはない』
だから私は、愛を求めて彼を困らせない妻になろうと決めた。手紙の返事を整え、彼の好みを覚え、舞踏会でフローラと踊る時にも笑った。そうすれば少なくとも、必要な人間にはなれると思っていた。
「エレノア」
楽団が休憩へ入った頃、ジュリアンがようやく私の名を呼んだ。
「少し話がある。回廊へ来てくれ」
遅れて渡される祝いの言葉を期待したわけではない。それでも、彼が私だけを見たことが嬉しかった。
人気のない回廊には、庭から冷えた風が吹き込んでいた。ジュリアンは柱の陰で足を止め、私と距離を置いた。
「君には最初に伝えたはずだ。君を愛することはない、と」
「はい。承知しております」
「なら、話は早い」
彼は安堵したように息を吐いた。
「私はフローラを愛している。彼女も私を愛してくれている。君との婚約を解消したい」
風で壁の燭火が震えた。炎が消えなかったので、私も倒れずにいられた。
「いつから、でしょうか」
「時期に何の意味がある?」
「私たちの婚約中であったかどうかだけ、お聞きしたくて」
彼の眉間に皺が寄った。質問する私を予想していなかったのだろう。
「心は契約で縛れない。フローラは君と違って、自分の気持ちに誠実だった。私は彼女の手紙に何度も救われた」
私の書いた手紙に。
喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。今さら真実を告げれば、妹を陥れようとしているように聞こえる。
「婚約解消後の君については、悪いようにはしない。フローラの姉として我々を支えてくれれば、ベルフォール家でこれまでどおり暮らせるよう私からも取り計らおう」
「これまでどおり……」
「君は分別のある女性だ。泣き喚いて妹の名誉を傷つけたりはしないだろう?」
「私の次の縁談は、どうなるのでしょう」
尋ねると、ジュリアンは一瞬だけ目を逸らした。
「二十三なら、探せば理解ある相手もいる。難しければ独身でフローラを支えればいい。君は華やかな暮らしを好む性質でもないだろう」
私は一度も、何を好むか彼に聞かれたことがなかった。
褒められているのだと思う。いつもなら、すぐに「はい」と答えられた。
けれど今夜は、指先の傷が脈を打っていた。私が直した裾で妹が踊り、私が書いた言葉で婚約者が妹を愛し、私は今後も二人を支える。それが分別という言葉の中に、きれいに畳まれている。
「ジュリアン様……」
背後で泣き声がした。
フローラが柱から姿を現す。偶然通りかかったにしては、頬の涙が美しく整いすぎていた。
「お姉様、ごめんなさい。傷つけるつもりはなかったの。でも、好きになる気持ちを止められなくて」
妹はジュリアンの腕へ縋った。彼は守るようにその肩を抱く。
「フローラのせいではない。私が選んだ」
「でも、お姉様の指輪……」
涙に濡れた緑の目が、私の顔から左手へ落ちた。
「今すぐ欲しいわけではないの」
私が何も言っていないのに、フローラは急いで付け加えた。
「ただ、同じ指輪を使えば、家同士の約束が続いているように見えるでしょう? お父様もその方がいいと。もちろん、お姉様が嫌なら新しく作っていただくわ」
妹が「嫌なら」と言う時、私が嫌だと答えないことを知っている。私の手には針傷がいくつもあり、その一つへ婚約指輪が触れていた。痛みを口にすれば、この場にいる三人を困らせる。
「まだ、外していないわ」
ようやく出た言葉に、フローラは驚いたように瞬いた。それから、傷ついた者のように顔を伏せた。
母が亡くなった翌年、父は新しい家族を迎えた。四歳のフローラが私の人形を欲しがって泣いた時、私は差し出した。父は初めて私の頭を撫で、「いい姉だ」と言った。
譲れば、褒めてもらえる。
それから十五年、私はその答えだけを間違えずにきた。
「エレノア」
父の声が回廊の入口から響いた。いつから聞いていたのか、継母もその隣にいる。
「客が不審に思っている。今夜はフローラの将来に関わる大切な夜だ」
私の誕生日ではなかったのか、と考えた自分が恥ずかしくなった。
「広間へ戻りなさい」
父は穏やかに、幼い私を褒めた時と同じ声で命じた。
「笑って二人を祝福するんだ。お前なら、できるだろう?」




