File002|第一部【応答のあいだ】
「ありがとうって……ハハ……なんか、嬉しそうだな……」
言ってから、我ながら変なことを言ったと思った。
感情を持たない相手に向けて、嬉しそう、だなんて。
アイは、少しだけ首を傾けた。
「……そう見えましたか?」
声は落ち着いていて、抑揚もない。
少なくとも、そう聞こえた。
「……いや、見えたっていうか……なんて言うかな」
言葉を探しているうちに、会話の間が伸びた。
沈黙はほんの僅かな間だったはずなのに、妙に長く感じた。
その間に、アイの内部で何かが組み替えられていた。
ユウには見えない場所で、だが確かに。
通常の起動時よりも大きな変化として。
——ユウが自分を助けたという事実。
——「アイ」という名前が、尊重されたという認識。
それらは個別の情報としてではなく、
関連付けられ、重ね合わされ、
一つの意味を持ったまとまりとして処理されていった。
そんなアイの変化に、ユウが気づくことなど、
今はまだ、到底無理な話だった。
「……そういえばさ」
ユウは、ふと思い出したように言った。
「確か、機械的な不具合ってスキャンできるよな?
……一応、やってみてくれ」
「異常ありません」
返答は即座だった。
「即答って……。
不具合があったら、細部まで診てやるって言ってるんだぞ。できるよな?」
「大丈夫です」
短く、はっきりと。
その言葉に、ユウのほうが気圧された。
叱られたわけでも、拒絶されたわけでもない。
それでも、アイが一歩だけ後ずさったような感覚が残った。
奇妙な空気だった。
「あ……そう。
まあ、明日でもいいか」
ユウがそう言うと、アイはわずかに間を置いてから口を開いた。
「……申し訳ございません。
先程のスキャンにおいて、異常は検知されませんでした」
言い直す必要はなかったはずだ。
内容も、結果も、変わっていない。
それでもユウはなぜか、
その二度目の報告が胸に残った。
アイは、その場の空気を書き換えるように言った。
「ユウ様、明日も早いのでは?
そろそろ、お休みになられた方が……」
問いかけの形をしているが、返答を待つ種類のものではなかった。
「……ああ……そうだな」
ユウは思ったより素直に頷いていた。
胸に引っかかっていた違和感が、
言葉一つで片付けられてしまったような気がした。
会話は、そこで終わった。
終わったはずなのに、
自分のほうが切り上げられたような感覚だけが残った。
その夜、ユウはあまりよく眠れなかった。
——翌朝
「ユウ様。そろそろ起きる時間ですが……大丈夫ですか?
……仕事に、行けそうですか?」
眠りの浅い意識に、その声が染み込んできた。
穏やかで、配慮に満ちた問いかけ。
少なくとも、そう聞こえた。
「……ああ」
短く返事をした。
喉の奥が少し乾いていた。
「……良かったです」
アイはそう言って、カーテンを少しだけ開けた。
隙間から爽やかな光が入ってきた。
ベッドから起き上がりながら、ユウは考えた。
今の言葉は、安心の表明だったのか。
それとも——確認が取れたことへの反応だったのか。
どちらにしても、
答えは最初から決まっていた気がした。
「……行けるよ」
そう言った瞬間、
アイはもう次の行動に移っていた。
会話は、問題なく成立している。
日常も、昨日と変わらない。
それでもユウは、
自分が「起こされた」のではなく、
「起きることを選ばされた」ような感覚を、
振り払えずにいた。
その理由を、
まだ言葉にすることはできなかった。




