8.古き筆と硯
柊会に所属することになってから、数日が経った。
とはいえ、私の日常が大きく変わったわけではない。
朝になれば学校へ行き、授業を受ける。放課後になれば柊雑貨店へ向かい、付喪神について教えてもらう。
そんな毎日を過ごしていた。
「付喪神とは、長きに渡る時を経た物や場所に宿る自我……」
柊雑貨店の奥にある机で、私は小梅から借りた資料をノートにまとめていた。
「物に宿る自我……か」
言葉の意味は分かる。
実際、私の腕には桔梗がいる。
けれど、まだ実感が湧かない。
私が知っている付喪神は、桔梗だけなのだから。
「難しく考えすぎなくてもいいと思いますよ」
向かいで帳簿を整理していた小梅が、私のノートを覗き込む。
「付喪神といっても、特別な存在ばかりではありません。人間の暮らしのすぐそばにいる子たちも多いですから」
「人間の暮らしの、すぐそば……」
その言葉を聞いた時だった。
「おーい!」
店の入口から椿の声が響いた。
「小梅、ちょっと来てくれ!」
「どうしました?」
私も席を立ち、二人のところへ向かう。
店先には、見覚えのある男性が立っていた。
昨日、付喪神について相談に来た商店街の店主だ。
「あの……昨日お話しした件なんですが」
男性は困ったような顔をしている。
「やっぱり、もう一度相談してもいいでしょうか」
「もちろんです。何か変化がありましたか?」
「はい。昨夜も聞こえたんです」
男性は声を潜めた。
「店の奥から……誰かの声が」
「どんな声でした?」
「……『捨てないで』と」
その言葉に、私は自分の腕へ目を向けた。
桔梗の宿るブレスレット。
もし、この声も付喪神のものなら――。
「付喪神の可能性が高そうですね」
小梅が言う。
「だったら、行ってみようぜ」
椿がすぐに答えた。
「椿、まだ付喪神と決まったわけではありませんよ」
「違ったら違ったでいいだろ」
そう言って、椿は私を見る。
「桜、お前も来るか?」
「私も?」
「ああ。昨日、柊会に入ったばっかだろ。実際の仕事を見た方が勉強になる」
「……行きたいです」
私は頷いた。
「もっと付喪神のことを知りたいから」
「よし、決まりだな!」
「ただし」
小梅が椿を見る。
「危険がある場合は、桜さんを最優先で退避させます」
「分かってるって」
椿は笑いながら答えた。
男性に案内されてやってきたのは、商店街の一角にある古い文具店だった。
店内にはノートや筆記具、絵の具などが並んでいる。
けれど、店の奥へ進むにつれて、置かれているものは少しずつ古くなっていった。
木製の棚。
年季の入った机。
そして、書道道具の並んだ一角。
「声がしたのは、この辺りです」
男性が店の奥を指差す。
「実は近いうちに、店を少し改装する予定でして」
「それで、古いものを?」
小梅が尋ねる。
「ええ。棚や机、それから使っていない道具も処分しようと思っています」
私は辺りを見回した。
すると――。
「……捨てないで」
「え?」
声がした。
私は振り返る。
誰もいない。
椿も小梅も、何も言っていない。
もう一度、声が聞こえた。
「……まだ、使える」
私は声のする方へ歩いていく。
棚の上。
そこに一本の古い筆と、一つの硯が置かれていた。
「これ……?」
男性が近づいてくる。
「ああ、それですか」
男性は少し懐かしそうな顔をした。
「親父が昔使っていた筆と硯です」
「お父さんの?」
「ええ。私も子供の頃、これを使って字を習ったんですよ」
男性は筆を手に取った。
「でも、もう何年も使っていません。今じゃ新しい道具がありますからね」
筆を棚へ戻す。
「だから、これも処分しようと思っていたんです」
「……嫌だ」
今度は、はっきり聞こえた。
私は筆と硯を見つめる。
不思議と怖くはなかった。
むしろ、悲しそうだった。
「小梅」
「はい」
「この二つ……付喪神なんですよね?」
「おそらく」
小梅が頷く。
「少し話してみましょうか」
私は二つの道具の前にしゃがみ込んだ。
「こんにちは」
返事はない。
「あなたたちは、このお店にずっといるの?」
少し待つ。
すると、かすかな声が返ってきた。
「……いる」
「ずっと……一緒」
「一緒?」
「筆と……硯」
私は二つを見る。
「ずっと一緒だったんだね」
「うん」
「ずっと……字を書いてきた」
その声は、どこか嬉しそうだった。
「仲良しなんだね」
「……うん」
「ずっと一緒」
私は自然と笑っていた。
「じゃあ、どうして捨てられたくないの?」
少しの沈黙。
「……まだ、書ける」
「まだ……役に立てる」
その言葉に、胸が少しだけ痛くなった。
捨てられることが嫌なのではない。
自分たちが、もう必要ないと思われることが嫌なのだ。
「店主さん」
私は男性を見る。
「一度だけ、この筆と硯を使ってみませんか?」
「え?」
「それで、どうするか決めてもいいと思います」
男性は黙って二つの道具を見つめた。
しばらくして、静かに手を伸ばす。
「……そうですね」
男性は硯に水を入れ、墨をゆっくりと磨り始めた。
静かな音が店の奥に響く。
そして筆を手に取る。
紙の上を、筆先が滑っていく。
書かれたのは、この店の名前だった。
「……懐かしいな」
男性が笑った。
「親父にも、こうやって字を教えてもらったんです」
その瞬間。
筆と硯から、柔らかな気配が広がった。
「……うれしい」
「……また、書けた」
「ありがとう」
私は二つに笑いかける。
「よかったね」
二つの付喪神から、嬉しそうな気配が伝わってくる。
それを感じていると、私まで嬉しくなった。
店を出て、商店街を歩く。
「どうだった?」
椿が聞いてくる。
「……なんだか、すごく良かったです」
「何がだ?」
「付喪神って」
私は自分の腕を見る。
「ずっと人のそばにいるんですね」
小梅が微笑む。
「そういう付喪神も多いですよ」
「物なのに……」
私は少し考える。
「人が使ってくれたことを覚えていて、大切にしてもらったことを覚えていて」
今日出会った筆と硯を思い出す。
「なんだか、家族みたいでした」
「……家族、ねぇ」
椿が空を見上げる。
「まあ、そういうもんかもしれねぇな」
その言葉に、私は少し嬉しくなった。
柊会に入る前は、付喪神というものがもっと恐ろしい存在だと思っていた。
けれど、今日会った二人は違った。
誰かと一緒にいたい。
もう一度、自分たちを使ってほしい。
そんな、人間と変わらない気持ちを持っていた。
「……桔梗は?」
私は小さく呟く。
『なに?』
「桔梗も、誰かに使ってもらえて嬉しかったことってある?」
少しだけ間があった。
『……どうかしらね』
「そっか」
私はそれ以上聞かなかった。
けれど、桔梗の声がいつもより少しだけ静かだったことは、なんとなく分かった。
柊雑貨店へ戻ると、店の前に別の男性が立っていた。
「あの、柊会の方ですよね?」
「はい。どうされました?」
小梅が尋ねる。
「実はうちの店でも、ちょっと困ったことが……」
「どんなことですか?」
「古い時計なんですが……夜になると、勝手に動くんです!」
椿がニヤリと笑った。
「おっ、また仕事だな!」
「椿、まだ詳しい話を聞いただけですよ」
「いいじゃねぇか!」
二人のやり取りに、私は思わず笑ってしまう。
昨日まで、私は付喪神という存在を知らなかった。
でも今は違う。
この町のどこかには、今日出会った筆と硯のように、人間の暮らしの中で長い時間を過ごしている付喪神がいる。
誰かと笑ったり。
誰かに大切にされたり。
誰かの役に立ったり。
そんな時間を重ねながら、そこにいる。
私は自分の腕にあるブレスレットをそっと撫でた。
「……桔梗も、ずっと誰かのそばにいたのかな」
『……さあね』
返ってきた声は、いつものように曖昧だった。
けれど私は、少しだけ笑った。
「そっか」
そして私は、新しい相談者の話を聞くために、小梅たちの後を追った。
次は、どんな付喪神に出会えるのだろう。
そんなことを考えながら。




