38.ペンシルニアの寂しい執務室
ライアスが帰国して、5日が経った。
ペンシルニア邸には、葬式のような重苦しい空気が漂っている。誰もが重く口を閉ざし、先行きを固唾を飲んで見守っている。
中でも最も陰鬱とした空気に包まれているのが、ライアスの執務室である。
ペンシルニア騎士団長、ベンは扉の前でノックする手を握りしめた。
薄氷の上を歩くような、または張りつめた糸が今にも切れそうな。そんな危うさを感じる。
ライアスに、だ。
何か八つ当たりをされるわけでもないし、通常通りの業務や訓練を行っている。しかし明らかに憔悴し途方に暮れた様子のライアスに、誰もが掛ける言葉を失っていた。
ベンは扉の前で深呼吸を繰り返す。
時折思わぬ質問が来るから、心して入らなくてはいけない。
昨日は、人は何日光を浴びないと死んでしまうのか、と聞かれた。何かの比喩だろうか。朝から晩まで訓練に明け暮れてきたベンには、抒情的なことはよくわからなかった。
「入らないんですか」
背後から声を掛けられる。
ライアスの有能な副官、ルーバンである。彼はこの重苦しい執務室に毎日出入りしている。
ペンシルニアの副官は、騎士以上に強靭な精神を持たねばならないのだろうか。
「ではお先に」
今はあのルーバンの無頓着がありがたい。特に物怖じすることなく、ルーバンはいつも通りにドアをノックし、執務室に入った。
ベンはその後ろに便乗して続いた。
「公爵様、ご報告です」
ルーバンはライアスの返事を待たずに報告を始めた。いつもそんな感じなのだろうか。
報告が終わり、少し沈黙が流れる。ルーバンが眉を寄せた。
「——公爵様、聞いてますか?」
「ああ」
「では、ご指示を」
「ああ……」
はあ、と重い溜息。
今日はこのパターンか、とベンは思った。
悶々と考え込み、返事もままならない。
ルーバンがやれやれというように言った。
「困りましたね。奥様がいないだけで、こんなにも呆けてしまわれるとは」
——お前。主人に対して何て言い方だ。
ベンは目を丸める。
「せめてエイダン様がいてくれたら進むのに」
子供達もいなくて、この屋敷にはライアスだけ。まるで結婚直前の頃のようだ、とベンは思った。
あの頃も、戦後の事後処理に追われながら、皆が歯を食いしばってなんとか耐えていた。屋敷の様子は凄惨たるものだった。
「公爵様、城には行ったんですか」
直球である。早く行って連れ戻して来いとでも言うように。
そばで聞いているベンがひやひやする。
「門前払い……」
ぽつりとライアスが呟く。
——今のは本当に公爵様の声か?
驚くベンをよそに、ルーバンが首を傾げた。
「この度の軍を動かした件ですよね。しかし……奥さまがお怒りになるのは筋違いなのでは?ペンシルニア騎士団は公爵様のものです。公爵様のご判断で動かすと決めたものを、奥さまに口を挟む権利はありません」
「お、お、お前……何て事を」
「ルーバン。また影に戻されたいのか」
ベンは胃を抑えた。——痛い。
ライアスに影に戻すと脅されて初めて、ルーバンは自分の失言を悟ったらしい。しばらく考えていた。
「……まあ、法を無視して出兵を決め、それにより家門が没落したら奥さまも被害を被るので——そういう意味で、共同体としてご意見をお伺いすると言うのも分からなくはありませんね」
もういいから黙ってろ、とベンは心の中で叫んだ。
「——そうではない」
はあ、とライアスが長い息を吐く。
「この家のすべてはシンシアの為にある。草一本まで全てだ。私は預かっているだけだ」
「確かに、公爵様が死んだ場合の相続は、そのように整えていますね」
「——そうか」
聞こえるか聞こえないかの声でライアスがぶつぶつと言っている。
「私がいない方がことはうまくいくのでは。このペンシルニアの一切を名実ともにシンシアの手の中に——」
「こ、公爵様!奥様は対話をお望みなのでは」
「え?でも会ってくれないんですよね」
「ルーバン、お前はちょっと外に出てろ!」
ベンはつい語気荒くルーバンに言ってしまうが、当のルーバンは不思議そうにしている。
だめだ。やはりルーバンに関われるのは、ゲオルグくらいなものだ。
無視するしかない。
「公爵様。奥様は門を閉ざしながらも、その向こうで待っておられるのでは」
ベンはルーバンを押しやって、ライアスの前に進み出た。
「奥様は対話をとても大切にされていた方です。どんな時にも、我々の話に耳を傾けてくださいました。門前払いであっても、公爵様の話をしたいという気持ちを無下にはなさらないはずです。お優しい方ではありませんか」
「その優しいシンシアを、私は失望させたから……」
「失望されても嫌われても、そこから修復を試みるのが夫婦なのではないのですか」
これはルーバンの台詞だ。
ベンは内心、お前が言うなと思った。ルーバンは独身である。
——いや、この際味方になるならそれもいい。
「そうです、公爵様。日に何度でも、奥さまの元へ通ってください。何にお怒りで、何にがっかりされたのか、話さなくては分かりませんよね。——奥様は公爵様と別れたいわけではないんですよ。頭を冷やしたくて行かれただけなんです。夫婦なのですから!」
「ベン卿はなにを根拠として、そんなに確信が——」
「公爵様!」
ルーバンの台詞を体ごと封じ込む。
「俺にはわかります。奥様は待ってらっしゃいます。こんなことでは揺るがないという信頼の元、一時的に離れているだけです」
「揺らがない……」
——私達、こんなことではもう、揺らがないでしょう?
ライアスの中で、ずいぶん昔にシンシアに言われた台詞が蘇る。
シンシアに掛けられた言葉は一言一句、いつどこで何と言われたか覚えている。
そうだ。
ライアスは覚えていたのに、その言葉だけで、その意味をきちんと理解していただろうか。
「情けない……」
ライアスは立ち上がった。
逆境でこそ強くなれるよう、幼い頃から鍛えてきた人間である。
一筋でも光が見えれば、そこからの立ち直りは早い。
「登城してくる」
さっさと書類を片付け、歩き出した。
「え、公爵様、この書類終わってからにしませんか」
「空気読めルーバン」
「何言ってるんですか、空気は吸うも——」
ベンがルーバンの口を塞いだ。
ライアスは身支度もそこそこに部屋を駆け出して行った。
苦労人ベン、結構好き。
でもルーバンも好きなんです。
この二人におつかい頼んでみたいくらい(笑)




