透明な子供 2
Invisible children 2
落ち着いてくつろぐリオを見るうちに、母マリカの動揺も落ち着いてくる。
ミルクティーを飲み終える頃には、依頼の内容を語り始めるようになった。
マリカはタイ・チェンマイ出身。
リオの父親は、永住ビザを持っている日系人ということだった。
「リオくんのお父さんの名前は、ジョン・俊介・スギタさん……と」
マリカが持参した書類を確認しながら、イオが分厚いノートにメモを取っていく。
シンプルだけど、見るからにアメリカっぽい感じのリングノートだ。
ボールペンが立てるザリザリという音と、イオの声の組み合わせがとても心地いいと、蒼はいつも思う。
「お父さんのジョンさんが、タイに迎えに来て、マリカさんとリオくんは二週間前に日本に来た……と」
「ハイ、タイの日本大使館で、リオのビザ取りました。九十日です」
あれ? ビザって。
リオくんのだけでいいんだ?
マリカさんは要らないの? 日本に滞在するのに。
っていうか話の流れ的に、リオくんのお父さん、ひょっとしてマリカさんと結婚してないのか――
ふたりの話を聞くにつれ、蒼の頭の中に疑問がわき出す。
「リオ、このままだと三か月で日本から出ないといけない、困ります。ジョン、にほんで働いてるから、このまま三人で住みたい。タイの日本大使館のひとがおしえてくれました。日本に着いたらリオのビザ、『定住者ビザ』にきりかえると、リオもずっといられるって」
「ジョンさんが永住ビザを持っていますから……永住権者の配偶者や子どもは、たしかに定住者ビザを申請できますね」
イオの語り口はごく穏やかだった。
けれども蒼は、なぜだかそこに、いつものイオと違う「何か」を感じ取ってしまう。
「ジョンがいろいろ、みんなにきいて、『イオせんせいの事務所』がいいって」
おお……なんかイオさんのクチコミって、半端なくいいな。
「つまりは、リオくんの定住者ビザの申請事務を、僕に頼みたいと」
イオが話をまとめる。
すると、リオが落ち着かなげに足をばたつかせ始めた。
「かぁしゃん、かぁしゃん」と、母親の腕にまとわりつく。
ああ、退屈してきたんだな……と蒼は察した。
まだ三つとか四つとか、そんな歳だし、無理もないよ。
依頼の話は、まだまだ続きそうだった。
「なあ、オレと遊ぼうか」
蒼はリオに声をかける。
するとイオが立ち上がり、事務机から何やら取り出してきた。
「蒼くん、よかったら使って」
差し出されたのは、事務用品の色ペンやマーカー。そしてOA用紙の束。
「じゃあさ、オレと一緒に絵を描こうか?」
おそらく、日本語はまだよく分からないのだろう。
けれどもリオは、蒼の言葉にパッと笑顔を弾けさせると、ソファーから飛び降りた。
ふたりは、床に座ってお絵描きを始める。
「マリカさん、事実関係の確認をもう一度お願いします。リオくんのお父さんとは、チェンマイで知り合った。それは正しいですか?」
「ハイ、そうです」
「だから、リオくんは『タイで』生まれたんですね。そして出生届をタイで出した」
「はい。リオの出生証明書。そこにあります。お父さんはジョン。正しいです」
イオが書類を手に取る。たしかに、父親の欄は『ジョン=シュンスケ・スギタ』となっていた。
「ジョンさんはリオくんが生まれた後、日本に戻ったんですね」
「しかたない、タイには、ジョンのシゴトないです」
「そして三年後、マリカさんとリオくんを迎えに来てくれて、今に至ると……」
イオの言葉が、次第にひとり言めいてくる。
リオの絵を見て、質問したり誉めたりしながらも、蒼はマリカたちの会話を聴いていた。
そして、「イオさん、なんだか、何かに納得がいってなさそうだよな」と感じ取る。
でも――なんで?
「イオせんせい、ほかにいるものは?」
「お父さんの――ジョンさんのパスポートはありますか?」
マリカが「ハイ」と差し出す。
それは、つい数か月前に発行された、ごく新しいものだった。
「前の……古いパスポートはありませんか?」
「ごめんなさい、ない」
マリカがすぐに謝った。
「ジョン、ダラしない。タイに迎えに来る前、パスポート無くしたって、大変だった」
「……そうですか」
「在留カードはコピーしました」
マリカがゴソゴソとカバンを探す。
手帳がこぼれて床に落ちた。挟み込んであった写真が散らばる。
タイの実家だろうか――
マリカの祖母と思しき女性が、赤ん坊のリオを抱いている。
最近横浜で撮影したのだろう、港を背景にした親子三人の写真。
明らかに日本ではなさそうな場所で、リオを抱くマリカ。
そのほかは、ジョンがひとりで、ホテルニューグランドを背に「決めポーズ」を取っているポートレートがあった。
そんな写真を床から拾い集めて、蒼がマリカに手渡した。
「ありがとう」
マリカがふわり、笑う。
ああ、「微笑みの国」とかっていうよな、タイって――
蒼は、そんなコトを思い浮かべた。
するとリオが、「あお! あお!」と声を上げる。
「おう、今度はなに描いた?」
蒼はリオの絵をのぞき込んだ。
「マリカさん、あなたのパスポートと在留カードはありますか」とイオ。
「……はい」
ほんの少しだけ、マリカの歯切れが悪くなる。
「あ、パスポートは、持ってきてません……在留カードあります」
言ってマリカが、財布から取り出したカードをイオに手渡した。
「……マリカさん。あなたも永住ビザをお持ちなんですね」
イオが低く言う。
え、どういうこと?
蒼の頭が混乱する。
やっぱり、リオのお父さんとマリカさんは、ちゃんと結婚してるってこと?
「マリカさん、あなたはジョンさんとは結婚していない。タイでも、日本でも」
「……ハイ」
「でも、あなたも永住ビザを持っている」
「はい」
そこまで確認しながらも、イオはマリカに、なぜ永住ビザを取れたのか――「その理由」を尋ねなかった。そしてふと、話を転じる。
「もし……『日本で』産んでいたなら、リオくんも問題なく永住者になれましたね」
「……そう、ですか。でも」
「ああ、そうでしたね。おふたりは『タイで』知り合ったんでしたっけ」
「そうです、それにチェンマイで産んだら、わたしのお母さんもいるから。安心だったです、だから」
すると乾燥機の終了音が、浴室から響いた。
「リオ、着替えようか」と、蒼が立ち上がる。
マリカも慌てて立ち上がろうとした。けれど蒼は、それをおしとどめる。
「オレが手伝いますから。マリカさんとイオさんは、話の続き、どうぞ」
「ありがとう、蒼くん」
それまでずっと、そこはかとなく硬い表情だったイオが、ふと口もとをゆるめた。
「あーお、あーお」と、リオはすっかり蒼に懐いて、足元にじゃれつきながら浴室へと歩く。
リオを着替えさせ、ふたたびソファーへ戻ってくると、意外なことに、マリカはもう帰り支度を始めていた。
各種書類のコピーを取り終えたイオが、きちんと揃えた原本をマリカに返す。
マリカはそれを、そそくさとカバンにしまった。
撤収の気配を察したリオが、母親に向かっていく。そして、差し出されたマリカの指先をギュッと握った。
マリカ親子が玄関へと歩き出す。
「マリカさん……この件ですが、もう少し書類を確認させてください」
イオの口調は、いつものとおり、やわらかい。
けれどもそれが、依頼の「保留」であることは、蒼にもハッキリと分かった。
なんで、イオさん――
どうして「引き受けるって」言わないの?
このままじゃ、リオが可哀想だろ。
なんで今、助けてあげるって言わないんだよ。
蒼は呆然とイオの横顔を見上げる。
「あお!」
元気よく呼ばれて、蒼は反射的に振り返った。
「あお、ばいばい」
ちいさな掌をひらひらと振って、リオが笑う。
「うん、バイバイ。リオ」
体を屈めて目線を合わせ、蒼も微笑む。
そして「またな」と。
すこしだけ声を強めて付け足した。
TIPS
■定住者ビザ その外国人の個々の判断して与えられるビザ。就労などにも制限がない。リオの場合は、「永住者が扶養している実の子供(ただし未成年で未婚の場合のみ)」という理由で認められるはずです(普通なら)。
■永住権者の子供は、日本で生まれた場合は「出生による永住許可」が与えられるので、何の心配もなく日本に住めます。
■外国で生まれた永住権者の子供は、「出生による永住許可」は得られません。その代わりに定住者ビザというものが与えられる可能性があります。この話のリオはこのケースです。
このお話はフィクションです。各種制度については、正確さの保証はされていません。
実際の外国人滞在関係手続はしばしば制度改正が行われます。現状を必ずしも反映はしていません。