透明な子供 1
Invisible children 1
飛び込んだまま、先輩は戻ってこなかった。
透明な水の中に沈んで、浮かび上がらなかった。
種目は自由形の五十メートル。
一瞬で勝負が決まる競技。
飛び込みが抜群に上手い先輩だった。
「位置について、用意」――
飛び込み台の上で選手が静止。
一瞬の静寂。
「ピン」と、スターター音が弾けた。
先輩の飛び込みは、その日も完璧だった。
真っすぐに伸びた身体が、すうっと水の中を進んで――でも。
ひと掻きもしないまま、ワンビートも打たないまま、先輩の身体が止まる。
他のコースでは、もうゴール間近の選手もいた。
その時、オレたちは気づいたんだ。キラキラ光る水面の下、先輩は。
――もう。
心筋梗塞。誰にも予想できなかったし、防げなかった――それが最終見解。
その日以来、オレは飛び込み台に立てなくなった。
台に指先を掛けた瞬間。
光を反射する水面を見た瞬間。
身体が痺れて動かなくなる。心臓が締め上げられるように苦しくなった。
カウンセリングに通ったり、練習を工夫したり、蒼もコーチも監督も努力はした。でも、完治の見通しは全く立たなかった。
「飛び込めない」のは、競泳選手として、まさに致命傷だ。
そのうち、水泳部にいること自体、蒼にとっては耐えがたくなっていく。
どこかで決断するしかなかった。
退部の意思を伝えたとき、皆が安堵したのが分かった。
コーチも監督も、そして部員も――
*
目の前に、子どもがいた。
冷たい風に晒されて、濡れた服が体に張りついている。
半ズボンからしたたり落ちる雫。足元には水たまり。
声は出さない。
泣くでもなく、叫ぶでもない。
灰色の街の中、そこに立ち尽くしている。
泳げなくなった頃のオレは――
少しずつ何かが溜まっていった結果、表面張力の限界に達していたのかもしれなかった。
でもそれを、どう口にしていいか分からなかった。
声に出せなかった。
きっと、この子もそうだ。
誰かに気づいてほしい。でも、言えないんだ。
「どうしたの?」
思うより先に、くちびるが動いた。
「傘、ないの? 寒くない?」
たったそれだけのことを口にできただけで、蒼の心の中に、温かい波紋が広がっていく。
「ひとり? お父さんやお母さんは」
子どもは、ほんの少しだけ顔を上げる。
瞳の奥には、怯えと迷いと、ごく小さな希望が見えた。
「風邪ひいちゃう。うち、すぐそこだから」
言葉にしてみたら、思ったよりも簡単だった。
誰かを「助けたい」と思っていた。
それは難しいことだと、ずっと思っていた。
オレはあの時、海に飛び込めなかった。
イオさんが、あの人と犬を助けた。
そして、あれからオレは、イオさんが誰かを助ける姿を見てきた。
いまもまだ、オレは飛び込むことができない。
けど、そっと誰かに差し出すことのできる手はまだあるって、そう思える。
「蒼くんのおかげだよ」
そう、イオさんが言ってくれたから――
ずぶ濡れの子どもが、蒼の手をゆっくりと握り返した。
少し冷たい、小さな手。
蒼は、自分こそが救われたような気持ちがして。
自分でも驚くほどに穏やかに、子どもに話しかける。
「もうすぐ着く。このマンションの三階だよ」
なんだか、ちょっとイオさんみたいな声だ、と。
そんな風に思いながら――
エレベーターを降り、廊下を歩いていくと、一番奥、イオの部屋のドアが開いた。
女性が、取り乱した様子で出てくる。
「かぁ、しゃ…ん」
蒼の手を握りめていた、二、三歳の子どもが、初めて口を開いた。
「リオ!」
叫びながら、女性が駆け寄ってくる。そして、蒼から奪い取るようにして子どもを抱き上げた。
よかった。お母さん見つかって。
蒼の口もとが、小さくほころぶ。
目線の先にイオがいた。
軽く首をかしげ、腕組みをして。
カジュアルな黒タートルのジャージシャツ。袖口からはタトゥーの線が少しだけ。
明らかに日本語ではない言葉で早口にまくしたてながら、母親は子どもを抱きしめる。
ふたりを事務所の中へ入れながら、イオが、
「ほら、蒼くんもよかったら入って。温かい飲み物でも作るから」
と、穏やかにやさしい色で微笑んだ。
それは永遠に続くかと思われた酷暑の夏が、本当に突然、終わった日のコトだった。
*
ソアラ綜合事務所は、イオの住居も兼ねている。
熱いシャワーを浴び終え、ほこほこと湯気を上げるリオが、ソファーにちょこんと座った。
濡れた服を乾かす間にと貸し出されたイオの巨大なTシャツは、リオにはブカブカ過ぎて、ハロウィンのオバケの仮装みたいだった。
イオが温かくて甘いミルクティーを運んでくる。
事務机の横の、ちいさな丸椅子に座る蒼へとカップを手渡しながら、イオが、
「蒼くん、そんなところにいないで、ソファーに座りなよ」と声を掛けてくれた。
けれど蒼は「大丈夫です」と首を横に振る。
そしてイオは、親子とソファーで向かい合って座った。
リオが、おいしそうにミルクティーに口をつけるのを見て、イオが小さく微笑む。
「マリカさん、ここに来る途中でリオくんとはぐれちゃったんだって」
蒼へと視線を向けながら、ゆっくりとイオが語り出す。
「ちょうど、にわか雨も降り出したし……あちこち探しても見つからなくて、マリカさん、必死の形相で事務所に駆け込んできてね」
ああ、そっか。イオさんのお客さんだったんだ――
蒼は腑に落ちる。
よかった、この子をオレの家に連れてこようって思って。
「ありがとう。蒼くん」
イオの言葉と、甘い甘いミルクティーが、ジワリ、蒼の身体に沁みとおった。




