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イオとアオ―横浜ソアラ綜合事務所の謎ファイル  作者: 水城


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透明な子供 1

Invisible children 1



 飛び込んだまま、先輩は戻ってこなかった。

 透明な水の中に沈んで、浮かび上がらなかった。

 

 種目は自由形(フリー)の五十メートル。

 一瞬で勝負が決まる競技。

 

 飛び込みが抜群に上手い先輩だった。

 

 「位置について(Take your)用意( marks)」――

 飛び込み台の上で選手が静止。

 一瞬の静寂。

 「ピン」と、スターター音が弾けた。

 

 先輩の飛び込みは、その日も完璧だった。

 真っすぐに伸びた身体が、すうっと水の中を進んで――でも。

 ひと掻きもしないまま、ワンビートも打たないまま、先輩の身体が止まる。

 他のコースでは、もうゴール間近の選手もいた。


 その時、オレたちは気づいたんだ。キラキラ光る水面の下、先輩は。

 ――もう。

 

 心筋梗塞。誰にも予想できなかったし、防げなかった――それが最終見解。

 その日以来、オレは飛び込み台に立てなくなった。


 台に指先を掛けた瞬間。

 光を反射する水面を見た瞬間。

 身体が痺れて動かなくなる。心臓が締め上げられるように苦しくなった。

 カウンセリングに通ったり、練習を工夫したり、蒼もコーチも監督も努力はした。でも、完治の見通しは全く立たなかった。


「飛び込めない」のは、競泳選手として、まさに致命傷だ。

 そのうち、水泳部にいること自体、蒼にとっては耐えがたくなっていく。

 どこかで決断するしかなかった。


 退部の意思を伝えたとき、皆が安堵したのが分かった。

 コーチも監督も、そして部員も――





 目の前に、子どもがいた。

 冷たい風に晒されて、濡れた服が体に張りついている。


 半ズボンからしたたり落ちる雫。足元には水たまり。

 声は出さない。

 泣くでもなく、叫ぶでもない。

 灰色の街の中、そこに立ち尽くしている。


 泳げなくなった頃のオレは――

 少しずつ何かが溜まっていった結果、表面張力の限界に達していたのかもしれなかった。

 でもそれを、どう口にしていいか分からなかった。

 声に出せなかった。


 きっと、この子もそうだ。

 誰かに気づいてほしい。でも、言えないんだ。


「どうしたの?」

 思うより先に、くちびるが動いた。


「傘、ないの? 寒くない?」

 たったそれだけのことを口にできただけで、蒼の心の中に、温かい波紋が広がっていく。


「ひとり? お父さんやお母さんは」


 子どもは、ほんの少しだけ顔を上げる。

 瞳の奥には、怯えと迷いと、ごく小さな希望が見えた。


「風邪ひいちゃう。うち、すぐそこだから」


 言葉にしてみたら、思ったよりも簡単だった。

 誰かを「助けたい」と思っていた。

 それは難しいことだと、ずっと思っていた。


 オレはあの時、海に飛び込めなかった。

 イオさんが、あの人と犬を助けた。

 そして、あれからオレは、イオさんが誰かを助ける姿を見てきた。

 

 いまもまだ、オレは飛び込むことができない。

 けど、そっと誰かに差し出すことのできる手はまだあるって、そう思える。


 「蒼くんのおかげだよ」

 そう、イオさんが言ってくれたから――

 

 ずぶ濡れの子どもが、蒼の手をゆっくりと握り返した。

 少し冷たい、小さな手。

 

 蒼は、自分こそが救われたような気持ちがして。

 自分でも驚くほどに穏やかに、子どもに話しかける。


「もうすぐ着く。このマンションの三階だよ」


 なんだか、ちょっとイオさんみたいな声だ、と。

 そんな風に思いながら――


 エレベーターを降り、廊下を歩いていくと、一番奥、イオの部屋のドアが開いた。

 女性が、取り乱した様子で出てくる。


「かぁ、しゃ…ん」

 蒼の手を握りめていた、二、三歳の子どもが、初めて口を開いた。


「リオ!」

 叫びながら、女性が駆け寄ってくる。そして、蒼から奪い取るようにして子どもを抱き上げた。


 よかった。お母さん見つかって。

 蒼の口もとが、小さくほころぶ。


 目線の先にイオがいた。

 軽く首をかしげ、腕組みをして。

 カジュアルな黒タートルのジャージシャツ。袖口からはタトゥーの線が少しだけ。


 明らかに日本語ではない言葉で早口にまくしたてながら、母親は子どもを抱きしめる。

 ふたりを事務所の中へ入れながら、イオが、


「ほら、蒼くんもよかったら入って。温かい飲み物でも作るから」

 と、穏やかにやさしい色で微笑んだ。 


 それは永遠に続くかと思われた酷暑の夏が、本当に突然、終わった日のコトだった。





 ソアラ綜合事務所は、イオの住居も兼ねている。

 熱いシャワーを浴び終え、ほこほこと湯気を上げるリオが、ソファーにちょこんと座った。

 濡れた服を乾かす間にと貸し出されたイオの巨大なTシャツは、リオにはブカブカ過ぎて、ハロウィンのオバケの仮装みたいだった。


 イオが温かくて甘いミルクティーを運んでくる。

 事務机の横の、ちいさな丸椅子に座る蒼へとカップを手渡しながら、イオが、

「蒼くん、そんなところにいないで、ソファーに座りなよ」と声を掛けてくれた。

 けれど蒼は「大丈夫です」と首を横に振る。


 そしてイオは、親子とソファーで向かい合って座った。

 リオが、おいしそうにミルクティーに口をつけるのを見て、イオが小さく微笑む。


「マリカさん、ここに来る途中でリオくんとはぐれちゃったんだって」

 蒼へと視線を向けながら、ゆっくりとイオが語り出す。


「ちょうど、にわか雨も降り出したし……あちこち探しても見つからなくて、マリカさん、必死の形相で事務所に駆け込んできてね」


 ああ、そっか。イオさんのお客さんだったんだ――

 蒼は腑に落ちる。

 よかった、この子をオレの家に連れてこようって思って。


「ありがとう。蒼くん」

 イオの言葉と、甘い甘いミルクティーが、ジワリ、蒼の身体に沁みとおった。

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