第141話 迷宮的な小学校に、一番乗りの魔王
――そろそろ客が増えても良い時間帯のはずだが、銭湯〈天の湯〉は意外に空いていた。
まあ、この天気では、さすがにな……。
私は、駐車場から移動してくる間に付いたスーツの水滴を払いながら、嵐のように雨風が吹き荒ぶ外を振り返る。
それは、傘を差していたにもかかわらず、これだけ濡れたのもさもありなん……といった具合だ。
「……それにしても、ヒドい荒れようになりましたね、西浦さん」
いつもの調子で穏和に言う赤宮さんに、私は小さく頭を下げた。
「何だかすいません、こんなときにお邪魔してしまって」
「いえいえ、お客さんは大歓迎ですよ。
……というか、むしろこの客足だと、お越しいただけて助かったってところです」
赤宮さんはにこやかに屈託無く笑う。
――そう。
彼の息子、赤宮裕真がクローリヒトなのかどうか――。
その調査のためにも彼とは、地域振興課の仕事を通じて親しくしているわけだが……。
今日はその流れで、赤宮家が経営する銭湯、ここ〈天の湯〉に仕事帰りにお邪魔することになったのだった。
まあしかし、それとは別に、久しぶりに銭湯でゆっくり汗を流したい――と思ったのも正直なところだ。
……さておき、他の役所の同僚などから、先んじてここ〈天の湯〉の評判は聞いていたが……。
なるほど、歴史は感じるが、きちんと手入れも行き届いていて……飾り付けやレイアウトには客への気遣いとともに、子供たちが積極的に仕事を手伝っているというのもあるだろう、感性の若さというか、瑞々しさも同時に感じるほどだ。
そもそも銭湯というのは、ただ風呂に入るだけでなく、心身ともにリラックスするための場所だと私は思うわけだが……。
その点、この〈天の湯〉はまさに完璧というか……雰囲気からして、実に居心地が良さそうだ。
「……まあ、台風が来てるってわけでもないんですし……しばらくすればマシにもなりますよ、きっと。
それまでゆっくりしていって下さい」
「そうですね……ええ。
気を揉んでいて天気が良くなるわけでもありませんし、ここは一つ割り切って、お言葉に甘えてのんびりさせてもらいましょうか」
――ちなみにだが、〈天の湯〉の番台は、主に赤宮家の女性陣が担当するそうで……。
ときには、小学生のお嬢さんがたが座っているときもあるらしいが、今日、この時間にそこにいたのは――〈天の湯〉の責任者でもあるという、赤宮さんの奥さんだった。
「あら、アキくん、お帰りなさい」
「ただいま、マリさん。お客さんを連れてきたよ」
……なんら恥ずかしがる様子も無く、名前で呼び合う赤宮夫妻。
2人とも、見た目が実年齢より若いこともあって、事情を知っていてなお、はっきり言って新婚の若夫婦にしか見えない。
役所の同僚たちが、〈天の湯〉の評判について語ってくれたとき、やれやれ、と言わんばかりの苦笑混じりの表情だったのは、こういうわけか……。
「……どうも奥さん、初めまして。西浦と申します。
ご主人には、いつも本当にお世話になっています」
「――あ! 西浦さん……ですか!
とんでもない、こちらこそいつもお世話になって……。
――実は、お話は以前から伺ってたんですよ。
この人、のんびり屋だから、西浦さんみたいなテキパキ仕事出来る人が手伝ってくれて、本当に助かってる……って」
「……それは何とも、恐縮です。
でもそれも、そもそものご主人の丁寧な仕事と、お人柄があればこそ、ですよ」
――自己紹介とともに、赤宮夫妻といくらか言葉を交わす。
そうして、何気なく世間話に興じていると……赤宮さんが、小さく首を傾げた。
「……あれ、そう言えば、今日はまた練習を兼ねて、アガシーが番台をやるって言ってなかった?」
「――それが、亜里奈と一緒に先生のお手伝いをしてたら、天気がこうなっちゃって……学校から帰るに帰れなくなったみたいなのよ。
先生に車で送ってもらう、ってメッセージが来てたわ」
ポケットから出したスマホを見せつつ、答える奥さん。
「そうか。先生にはご迷惑をお掛けするけど、それならある意味安心だね。
……それで、裕真たちの方は?」
赤宮さんが続けて、子供たちのことを問うと……。
奥さんは、「それが――」と、呆れ顔で大きなタメ息をついた。
「あの子たちの方は、本格的に降り出す前に帰ってきたんだけど……。
何か慌てた様子で、すぐまた出て行ったみたいなのよ。
こんな天気なのに、まったく何やってるんだか……」
「まあ、ちょっと前までは嵐ってほどでもなかったしね。
友達と遊ぶ約束でもあったんじゃないかな」
「ええ、それこそ高校生にもなったんだし、ハイリアくんも一緒だし、なにかあれば連絡の一つもしてくると思うんだけどね」
夫婦の会話を聞きながら……。
私は、また一つ、赤宮裕真への疑念を深めていた。
――確かに、高校生ともなれば、友達と会うのを優先に、天気が荒れそうでも外出することもあるだろう。
それこそ、ファミレスやらカラオケやら……天気が改善するまで、最悪、夜通しになっても過ごせるような場所の知識と、それを利用するだけの最低限の財力もあるだろうしな。
まあ、親には叱られるだろうが……友達と一緒なら、それもまた楽しい思い出というわけだ。
そういう可能性ももちろんある。
もちろんあるが……。
「……あ、ごめんなさい西浦さん、お客さんを案内もしないで!
どうぞ、ごゆっくり汗を流していって下さいね」
「――ええ、ありがとうございます。
銭湯なんて久しぶりですから、本当に楽しみにしていたんですよ」
奥さんから、いかにも肌触りの良いタオルを渡され、男湯の方へ案内された私は。
実際、正直な思いでもある、銭湯への期待をにこやかに語りながらも。
……あとで〈常春〉に連絡を入れて、今日クローリヒトが現れるようなことがなかったか、確かめる必要があるか――。
――と、そんなことを頭の片隅で考えていた。
* * *
「これは……」
――ようやく辿り着いた小学校を前に、余は顔をしかめずにはいられなかった。
強力な結界が張られている――というのは、分かりきっていたことだ。
しかし、これは……。
学校の周辺は、色濃い〈闇のチカラ〉に幾重にも覆われていて……それはもはや、結界などという生易しいものではない。
それこそ、『異空間』『異界』……そんな表現の方が適切であろう。
無論、なんのチカラも持たない一般人にすら分かるような、明確な違いがあるわけではなく……見ただけでは、何ら変わりのない風景なのだが……。
それでも、無意識のうちに、見ていて『イヤな気分』になったりしてもおかしくはない。
それぐらいのチカラが渦巻いているのが、外からでも分かる。
これでは……結界を解く、というのは難しいだろうな。
たとえ余が本来のチカラを振るえたとしても、一筋縄ではいくまい。
むしろ、そんなことに時間を費やすぐらいなら、これを構築した張本人――恐らくは一足早くここへやって来ているだろう、魔剣グライファン――。
ヤツ自身を無力化した方が、よほど早く、かつ確実だ。
……そして当面の問題は、まず内部に侵入出来るかどうかだが……。
「……む……?」
いざとなれば、魔力で裂け目を作って無理矢理押し入ってやろうと思っていたものの……。
意外にもあっさりと、学校の敷地内――結界の内側に足を踏み入れることが出来た。
ただし――。
正門をくぐって校庭に進んだはずが……出てきた場所は、校舎内の廊下だったが。
「……空間をねじ曲げている、か。まさに異界だな。
仕掛けた輩の底意地の悪さが分かろうというものだ」
この調子では、今、前後に伸びている廊下も、どこに繋がっているか知れたものではないな。
聖霊の話では、亜里奈がいるのは、東校舎の第2応接室のハズ――だが、真っ直ぐそちらを目指して、素直に辿り着くのは難しいだろう……。
「まったく、あの『クソヤロー』めが。面倒な真似をしてくれる……!」
――ともあれ、ひとまずは動いてみるしかあるまい。
この特殊な結界も、グライファンが何らかの方法で学んだものだろうが……それでもヤツ自身がそもそも、純粋な魔術師ではないのだ。
……であれば、空間をねじ曲げると言っても、完全に無作為とまではいかぬはず。
恐らく、何らかの法則があるだろう。
それを一刻も早く見抜くしかない。
一応、力尽くの強行手段も取れなくはないが、それでチカラを使い果たしては本末転倒だ――。
ともすれば逸る心を抑え込み、いざ進もうとしたところで……余は、すぐ側の教室に人の気配を感じ取った。
「……む」
扉を開けて確かめればそこには、ぐったりと床に倒れ込む、数人の生徒の姿がある。
――小学校を包み込むこの結界、内側に渦巻く濃い闇のチカラは、もはや瘴気とでも表現した方が正しいようなものだ。
すぐに身体に深刻な悪影響が出るほどの濃度ではないが……さすがに一般人にとっては一種の毒。
全身の倦怠感で身動きが出来なくなるのも当然だろう。
……まして、抵抗力の弱い、幼い子供ともなればな。
「……ふむ――」
今、余がすべきことは、一刻も早く亜里奈の下へ向かうことだ。
しかし――。
「かと言って、それで目の前で苦しむ無辜の子を見過ごすようであれば――〈魔王〉の品格にかかわる。
亜里奈にも、合わせる顔がないというものよ――」
余は、弱い〈聖〉の力を放ち、教室内に充満する瘴気を相殺する。
そして続けて、それが保持されるよう、結界を張った。
その上で……睡眠魔法で、改めて全員眠ってもらう。
今、彼らをこの教室から出すわけにはいかんからな。
なにせ――。
余は振り返ると同時に、生み出した炎で周囲を薙ぎ払う。
――背後から近付いていた〈呪疫〉どもが、猛炎に巻かれて消滅した。
「……あの『クソヤロー』も含めた本格的な消毒は、これからだからな」




