第十九話 必然の別れ
阿比留公園のアヒルの上で、俺は白い息を吐く。
左手を伸ばした先には冷たく見下ろす、青い空。
こんなに青いのに、心は晴れない。
―――あれから、一週間が過ぎた。
俺が目を覚ましたのは、キョーコ先生の小さな病室のベッドの上だった。
萌香や蜂谷の人たち、ママやハカセをあやすのに時間がかかった。
それから、キョーコ先生に怒られ、大体の事情を聞かされた。
あの後、すぐに病室に運ばたのだそうだ。
熱も出ていて、丸二日くらい寝たきりだったらしい。
軽く死にかけていたとかなんとか。
ただ寝ていた本人としては、以前と体調は何も変わらない。
この、右腕のギプス以外は。
腕の骨にひびが入っていたのだそうだ。
でも、正確には顔の腫れや左手の件なんかもあり、ここ一週間はずっと病室で強制的に寝かされていた。
すごく動きづらいが、これも代償の一つだ。
そして、今日、俺はここに戻ってきた。
二月ももう終わるというのに、どうしてこんなにも寒いのだろう。
この寒さは、ただ虚しかった。
病室でイーグルさんに教えてもらった。
レッド・クリフが解散したこと。
そして、丸焦げになった倉庫から、一人の焼死体が発見されたこと。
胸の真ん中に、大きな穴が開いたような感覚に陥った。
その人の為に用意していた部屋が、必要なくなった空虚感。
俺が殺したようなものだ。
冷たいアヒルの背中が俺を、現実に連れ戻した。
俺はポケットに手を入れ、一枚の布切れを取り出す。
赤い布着れ。キリヤの赤いスカーフだ。
どうやら、あの倉庫から脱出するとき、咄嗟にキリヤの首からこれをもぎ取っていたらしい。
……アイツの置き土産。
「デウス。帰ってきてたのね」
「……ああ。ただいま、ママ」
俺はアヒルの上から、ママを見下ろした。
エプロン姿のママは優しく微笑みかける。
なんだか、久しぶりに会った気分だ。
「……デウス。ごめんね」
「え?」
「アタシあなたを助けるので手一杯で、お友達救えなかったから……」
「あ、いや……」
俺は口ごもってしまった。
なんで口ごもるんだ、俺。
これじゃあ、ママが悪いみたいじゃないか。
「ママは悪くないよ。全部、俺のせいなんだから……」
「でも……」
ママは、顔を下に向けてしまった。
しまった、逆効果か。
俺はアヒルから降り、話題を変えようと試みる。
「そ、それよりも、ザビエルたちは大丈夫なのか?」
「ホームレス狩りに遭った人たちね。……ええ。顔はボロボロだったけど、みんなスッキリしてたわよ」
「スッキリ?」
「自分たちの息子の痛みを全部受け止められた、って」
「……そうか」
アイツの正義で、救われた人もちゃんといたんだ。
これで、少しはアイツも救われたのかな。
俺は空を見上げた。
それから、ママに視線を戻す。
「……サヤエンドウは?」
「……今はまだ話しかけないほうが良いかもね」
「そうか……」
俺とママの間に、居心地の悪い空気が流れた。
俺はこの場から早く逃げ出したくなる。
「じゃあ、俺、ちょっとリハビリがてら、散歩行ってくるよ」
「え、あ……そうね。行ってらっしゃい」
優しい表情で、ママは手を振る。
俺は頷くと、そそくさと公園を後にした。
* * *
「それで、ここに逃げてきたわけか? 君の行動範囲の狭さは、ナマケモノをも超越しているね」
「うっ……」
どこにも行く場所がなかったので、街をさまよった挙句、とある雑居ビルの地下に来ていた。
情報屋ウロボロスのところに。
訪れたと同時に事情を説明したところ、なぜか動物と比較されて、俺の精神はボロボロだ。
ナマケモノって、木を上ったり降りたりを繰り返すんだっけ?
小柄の少女は椅子をくるりと回して、肘を着いたまま、ため息を吐いた。
この前のうさぎではなく、カエルの着ぐるみパジャマを着ている。
相変わらず、時代が十年ほど未来に進んだんじゃないかと思うほどに、この部屋は機械に占拠されていた。
それに極寒。
「まあいい。それよりも、随分と痛々しい姿になったものだね。体調の方はもう優れているのか?」
俺の体のことか。
俺は、頬に張り付いているガーゼを指で掻く。
「あ、ああ。ていうか、知ってたんだな」
「無論だ。我は君の事ならなんでも知っているぞ」
彼女はそう言って、不敵に微笑む。
なんだ、その言い方。
一歩間違えたら、ストーカー発言だぞ。
いや、コイツはこういうことを平気な顔をして言うんだっけ。
ホント、同じ人間とは思えない。
「それで? そろそろ本当の目的を言いなよ。なにか聞きたいことがあって来たのだろう?」
俺は少し寒気がした。
人の心が読めるというのは、どうも良いことばかりじゃないんだな。
そう。俺は彼女に聞きに来たのだ。
どうしても引っかかっていることを。
俺の中の迷いを。
「……俺のやったことって、俺の正義って、間違ってたのかな?」
自分でも情けないことを聞いていることは、分かっていた。
間違っていた、と言って欲しいのかもしれない。
そうでも言われなきゃ、正気が保てない。
俺の貫いた正義の先に、大事な友の死が訪れてしまったのだから。
彼女は、黄緑色の眼鏡をとる。
それから、その大きな瞳で俺の目を真っ直ぐ見た。
「君は、いわゆる奇跡というものを信じるか?」
「え? ……き、せき?」
彼女は静かに首を縦に振る。
質問の意図がまったく見えなかった。
その質問と俺の聞いたことに、なんの繋がりがあるんだ。
「信じるのか? 信じないのか?」
彼女はその二択を提示した。
奇跡。
今までそんな考えたこともなかった。
でも、俺はその答えを目の前で見てきたのだ。
二度も。奇跡が起こらない様を。
「信じないよ」
「なぜだ?」
「奇跡を目の前で見たことがないから」
彼女は、鼻で笑うと、足を組んだ。
俺は彼女のその知ったような態度に、少し腹が立つ。
だから、同じ質問を返してやった。
「じゃあ、お前は、ウロボロスは奇跡を信じてるのか?」
「無論だとも」
彼女ははっきりと即答した。
答えの早さと予想と違った回答に少々驚く。
「君は奇跡というものを、根本的に勘違いしている」
「勘違い?」
「うむ」
彼女は、体の大きさに見合わないオフィスチェアを回転させた。
「奇跡というのはね、大小数多く存在する。しかし、常に望んだ形で起きるわけではない。つまり、奇跡というのは無慈悲に無感動に誰にでも訪れる、大小様々な『運命のいたずら』とでも言うべきものなのだよ。さら言うならば、奇跡はこの世界に溢れかえっている」
奇跡が、溢れかえっている?
「君は、バタフライ効果という現象を知っているか?」
バタフライ効果?
聞いたことのない単語が、彼女の口から飛び出た。
なんだろう。バンジージャンプの飛び方かなにか?
「先に言っておくが、君の想像しているものとは違うよ」
「……なら、なんだよ」
彼女はくすくすと笑い、カエルのフードを下ろし、長くて黒い後ろ髪をかき上げる。
目の前に、電子機器の光で煌く黒い川が流れた。
それから、吸い込まれそうな黒い瞳が俺を凝視する。
「バタフライ効果とはね、カオス理論、すなわち規則にとらわれない事実上予測不可能な現象を扱う理論の比喩の一つなんだ。通常であれば無視していい極微な事柄が、次第に無視できない甚大で避けられない事柄になるという現象のことだよ」
うむ……分からん。
何一つ理解することができなかった。
彼女は俺の顔を見て、呆れた感情の篭った視線を送り、小さく首を振る。
悪かったな、頭悪くて。
「つまり、簡潔に説明するならば、小さなことだと思って見逃していたことが、後から大きくどうしようもないことになるというだ」
「な、なんとなく分かった。要するに、何が起こるか分からないということか?」
「……まあ、誤りではない。道路の自然渋滞も気象の急な変化も、この現象の一つの例として考えられる」
「それで? そのバタフライ効果ってのがこれまでの話に、どう関係しているんだ?」
そう聞くと、彼女はヘッドホンを首にかけた。
額が長い前髪で隠れる。
「我は、このバタフライ効果に、奇跡も当てはまると考えているのだよ」
「奇跡が?」
「うむ、一人の行動選択によって誰かに奇跡が起こり、その奇跡がまた異なる場所にいる異なる人間の奇跡を巻き起こす。数珠繋がりで拡大されていく奇跡が、新たな奇跡を起こすのだ。まさに、軌跡にして奇跡ということだよ」
彼女は手を広げながら、熱弁した。
軌跡にして奇跡。
誰かの起こす行動で奇跡が起こり、その奇跡がまた誰かに行動を取らせ、違うどこかの誰かの奇跡に繋がる。
だから、この世界に奇跡が溢れかえっている。
間違いではないような気がした。
「人と人との出会いもまた、奇跡の産物だ。君は、奇跡を目の当たりにしていたのだよ」
彼女の目が、告げていた。
「……キリヤのことか?」
彼女はオフィスチェアを背中で押して、手足を伸ばす。
それから、俺に向き直る。
「人と人の巡り合わせは、とても残酷だと思わないか? 出会いは、別れへの出発地点なのにね。出会いは偶然でも、別れは必然だ」
俺は唇を噛み締めた。
やっと、彼女の伝えたいことが分かった。
左手を握りつぶす。
「……受け入れろってのか?」
「出会ってしまったのが、全ての始まりだ」
「じゃあ、なんで、なんで出会っちまうんだよっ!」
「運命だからだよ」
震える瞳を通して、彼女の意思が俺に映し出される。
息が詰まる。
また、運命か。
運命だから受け入れろってのかよ。
こんな結末が、こんな残酷な終着点が、最初から決まってたってのかよ。
そんなの納得なんてできるわけがねえ。
「それでも、君はよく頑張ってるよ」
「……え?」
「冷酷な結末に君はまだ、完全に押しつぶされてないだろう?」
彼女はそう言って、柔らかく微笑んだ。
冷酷な結末に押しつぶされいない?
違う。俺はもう完全に押しつぶされている。
キリヤの残像に俺はまだ囚われて、踏み出すこともできていない。
信じて貫いた先にまだ、手を伸ばし続けている。
「それこそが、君が我に聞いたことの答えだ」
心臓が一回だけ、大きく脈打つ。
これが、答え。
なんて曖昧で無慈悲なんだ。
まだ、お前は間違っているって言ってもらえた方が、気が晴れたのに。
しんしんと冷え込む部屋の中で、俺はただ握った左手をゆっくり開放した。
冷気が鼻を通り、膨らんでいた感情を沈めていく。
「……そういえば、俺、お前と契約してたんだよな。全部、終わったんだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「ふっ、その件か。契約はまだ延長だよ」
「延長?」
彼女はパソコンに向き直った。
それからキーボードの打鍵音が連なる。
パソコンの画面に次々と、ウインドウが現れた。
「このカルテによると、キリヤという男は、どうやら病を抱えていたようだね」
彼女の言葉に、俺の体は反応した。
カルテ? またハッキングしたのか。
ていうか、キリヤが病気に?
記憶に刻まれた吐血する姿、炎の中で嗅いだ、むせ返るような鉄の臭い。
腹の中から這い上がってくるものを、押さえ込むことで必死だった。
「どうやら、肺がんを患っていたらしい。入院を勧めたものの、彼は強引に病院を逃げ出した」
「……なんで?」
「さあ、そこまでは分からない。だが、その時期から、彼はある薬を処方し始めた」
「病院の薬か?」
彼女は黙ったまま、キーボードを叩く。
画面に一つの写真が現れた。
俺は思わず、彼女のオフィスチェアに近づいて、画面を覗き込んだ。
「これは……」
画面の写真には、赤い粒が何個か写っていた。
これは、キリヤの飲んでいた薬。
この雑居ビルの前に落として行って、俺がキリヤに渡すように彼女に頼んでおいた薬。
「メチレンジオキシメタンフェタミン。またの名をMDMA。通称、エクスタシー。……麻薬だよ」
麻薬?
この薬が、麻薬?
そんなものに、アイツは手を出していたのか?
「しかし、これは少し特殊でね。この一粒で複数の効果を発揮する。もちろん合法だ。視覚の鋭敏化、幻覚、幻聴、感覚麻痺。それに服用者は、目が充血するらしいよ。これらの症状を彼に診なかったか?」
はっとした。
思い当たるふしがある。
月夜の戦闘で暗くて見えにくいはずなのに、やけに反応が早かったこと。
それに確実に見えているような反応をしていたこと。
それから、まるで痛みを感じてないように何度も何度も立ち上がってきたこと。
そして、赤くたぎった目。
「なにか思い当たることがあるようだね。……麻薬というのは、人の心の隙間に入り込む悪魔のようなものさ。少しの怒り、少しの後悔、その全ての負の感情を何倍にも膨れ上がらせる。異常な行動を取らせる。気分がいいのは初めだけ。彼はきっとこの薬で、痛みを和らげていたんだね」
怒りを、後悔を、何倍にも膨らませる。
異常な行動を取らせる。
それから、異常なまでの執念。
体の痛みも心も痛みも全部、これで和らげていた。
「なぜ、彼がわざわざ我の元へ君を連れてきたのか、ようやく分かったよ」
その言葉に反応して、俺は彼女の横顔を見た。
喜怒哀楽。そのどれにも該当しない、彼女の表情があった。
「……彼は終わらせたかったんだね。いや、終わらせて欲しかったんだ。自分の父親への憎しみも自分の正義への疑問も全部、負の連鎖を断ち切って欲しかったんだよ。大事な友である。君に」
「大事な……友?」
「違うのか?」
彼女の細く柔軟な声が、俺の中で解けていく。
俺は首を何回も横に振った。
視界がぼやけだす。
炎で全て枯れたと思っていたものが、また目の表面に滲み出る。
キリヤは、俺を信じていたんだ。
何もできない俺を。
全てを知ってでも、来てくれると。
自分を正しに来てくれると。
それでも俺は、護れなかった。
「これこそが、事実の先にある真実」
「……真実?」
彼女はゆっくり温かい笑みで頷く。
「真実とは、事実の先にある『真の事実』ということではない。その事柄を受け入れる者だけに授かれる『真に実るもの』なのだよ。だから、真実とは常に一つとは限らない。受け入れた全ての者が同じものを授かるわけがないのだから」
彼女の言葉は妙に説得力があった。
同じことを知っても、受け入れるものが違う。
人それぞれ、受け入れ方が違うのだ。
だから、常に真実は一つということではない。
彼女は先ほどとは打って変わり、笑みを消し、目を鋭くさせて口を開く。
「だが、光が影を作るように、事実と真実は因果関係にある。真実が分かれば、また、新しい事実が見えてくる。この街の、闇がね」
彼女の目には青白い光が反射していた。
青白いせいかもしれないが、冷たい目に見えた。
この街の闇。つまり、この麻薬を回してる人間のこと。
「というわけだ。この件はまだ全部終わったわけじゃない。良かったね。余命が延びて」
彼女はすぐに不敵な笑みを浮かべた。
表情がころころ変わる奴だ。
余命が延びた……か。
「……ああ」
「なんだ、その腑抜けた返事は。もう少し喜びなよ。それとも、今すぐに我に君の命を渡すとでも言うつもりか?」
俺は黙って彼女の目を逸らし、オフィスチェアから離れた。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
俺は彼女に自分の命を渡しに、ここに来たのかもしれない。
罪滅ぼしとして。
「言っておくが、我は依頼を完遂するまで報酬は受け取らないぞ。また、依頼が完遂するまで依頼人が死することも許さない」
彼女の眉間に小さくしわが寄るのが見えた。
俺は、どうすればいいんだ。
いつまでこんな遣る瀬無い思いを、抱えればいいんだ。
彼女は呆れたようなため息を吐く。
「前にも言っただろ。知ることは罰だと。それが君への罰だ。君の思いも迷いも痛みもその全てのものが、君の背負う罰。君が支払った、代償だ」
非常で無情な言葉の響きに、少し折れそうになる。
これが俺の代償。
周りのもの全てが色を無くして、透明になっていく。
俺は、これからどうすればいいんだ。
「生きなよ」
彼女の言の葉が、透明になっていく世界の進行を止めた。
生きる。
また、この言葉か。
この言葉に何度救われるんだ。
この言葉で何度始まるんだ。
「幸せな信者が不幸な殉教者を救えないのは、自分も殉教者になろうとするからさ。君は信者でもなければ殉教者でもない。ただの脆くて優しい人間だ。残された者には、生きる義務がある。託された思いがあるなら、なおさらね」
彼女の言った、前半の言葉は理解できなかった。でも、後半の言葉ならはっきり分かる。
残された者の生きる義務。
それだけは、今まで生きてきた中で、一番俺が思い知ったこと。
そうして、俺は左手の小指を見つめた。
託された思い……か。
「……ありがとうな。元気付けてくれて」
「むむ、何を言っているんだ。君を元気付けるようなことを言った覚えはないぞ。それに、このまま自殺でもされたのでは、目覚めが悪いだけだ」
彼女はそう言って、パソコンの画面を向いた。
俺は小さく頷くと、玄関の方へ歩き出す。
それから、ドアノブを掴んだ。
「待ちなよ」
ウロボロスに呼び止められ、俺は振り向く。
「なに?」
「用事ができたら、また呼ぶから準備をしておきなよ」
「用事?」
「依頼の延長の場合、延滞料金を取るようにしてるんだ。君はどうも稼ぎが良くないようだから、体で払ってもらおうと思うのだが、いいよね?」
「あ、ああ。別に良いけど。便利屋だし」
「うむ。なら、もう帰路に着きなよ」
そう言葉を投げ捨てると、彼女は再びパソコンに向き直った。
ホント、依頼に関しては抜け目ないんだな。
俺はドアノブを掴み、ドアを開こうとする。
「待ちなよ」
「……まだなにか?」
俺は振り返り、パソコンに向いたままのオフィスチェアを見た。
まだ、お金の問題があるのか?
「……今日の夜から明日の昼にかけ、雪が降るらしいよ」
「う、うん。……それで?」
「むむむ、だから、温かくして寝ることを推奨している。依頼人の体調を気遣うのは、経営者としての常識だからな」
「……ああ。ありがとう」
俺はそう言い残し、ドアを閉めた。
外に出て、青い空を眺める。
なんだかんだ言って、優しい奴なんだな。
というか、こんなに青空なのに、雪なんて降るのか?
……さて、これからどうするかな。
まだ、公園には帰る気分じゃない。
いや、帰れる気分じゃないと言った方がいいか。
今は誰にも会いたくない気分なのだ。
行く当ては、ない。
* * *
結局この日は、ずっと、街を歩き回った。
この街は何も変わらない。
幾重もの人の波も、肩を切る風も、見下すようなビル郡も。
何も、何一つ変わらない。
人一人居なくなっても、変わらず回り続ける世界。
ホームレスになって、何度も感じてきた自分だけが取り残された感覚。
でも、今日はなんだか違う。
いつもよりすごく重苦しい。
それに、色がない。
白黒の世界を、ただ流れていくような感じ。
このまま、流されてどこか違う世界に行ってしまうような気がした。
いっそのこと、どこかに行けたら。
そんなことすら思った。
しかし、記憶に、体に、刻まれた習慣というものだろうか。
気が付けば俺は、公園に帰ってきてしまった。
空は真っ黒で、星一つ見えない。
公園の街灯だけが、やけに眩しく見えた。
今何時なのかも分からない。
ただ、いつもなら寒いと思う気温でさえ、今の俺には心地よかった。
このままハウスに帰っても、眠れないと思った俺は、公園に入ることなく通り過ぎた。
足を向けたのは、河川敷だった。
向こう岸の眠らないネオンの光と道を照らす街灯で、夜だというのに明るい。
河川敷へ下りる階段で、俺は腰を下ろす。
膝を抱えて、頭をうずめて丸くなる。別に寒かったわけじゃない。
こうでもしないと手も足も頭も全部、バラバラになりそうだった。
……なんでこんな思いしなきゃいけないんだ。
誰だ、誰がこんなことをした?
神様、お前か?
俺たちが何をした?
俺たちはただ、必死で生きていただけじゃないか。
俺たちはただ、仲良くやっていただけじゃないか。
どうせ今も、どっかで見てんだろ?
愚かだって、腹抱えて笑ってんだろ?
俺は、意味の分からないことを叫びそうになる。
歯軋りの音でさえ、鬱陶しい雑音に聞こえる。
『人と人との出会いは奇跡』『出会いは偶然で、別れは必然』
こんなときにウロボロスの言葉が巡る。
乱反射して、頭から出て行かない。
……なんで出会ってしまったんだ。
こんな思いをするくらいなら、初めから出会わない方が良かった。
こんな結末が待っていたなら、奇跡なんて起きないほうが良かった。
こんなに苦しいんだったら、正義なんて貫かなきゃ良かった。
俺がアイツに出会わなきゃ、アイツは死なずにすんだのに……。
ふと、頭に冷たいものが染みこんでくる。
俺は顔を上げ、頭上を見上げた。
有り余るほどの白い欠片が、緩やかに舞い降りている。
雪か……そういえば、ウロボロスが言っていたっけ。
いつから降り始めていたのだろう。
少し積もり始めている。
頭の上が少し冷たいのは、雪が乗っているせいだろう。
俺はまた顔を膝に沈め、目を閉じた。
このまま降り続けてくれれば、俺も行けるかな。
―――霧夜の元へ。
このまま、真っ白になりたかった。
意識が薄れていくにつれ、キリヤの顔が次々と思い浮かんだ。
笑った顔。怒った顔。そして、涙に濡れた顔。
その一つ一つが、光になって遠ざかる。
俺は、その光を追いかけて、必死に右手を伸ばす。
置いて行かれないように、走り続ける。
すると、伸ばした右腕が重くなり、落ちた。
俺は、今度は左手を伸ばす。
もう少しで届く。俺は叫び続ける。
だが、その左手は届くことがなかった。
突如として現れた燃え盛る赤い炎で、遮られたのだ。
俺は炎の隙間から、その光が遠くに消えていくのを、ただ眺めていた。
上も下も左も右も見えない暗く閉ざされ、立っているのかも分からない世界。
足元のバランスが崩れていく世界で、体が落ちていく。
白い小さな粒が俺の視界を埋め尽くしていく。
最後の一粒が落ちれば、俺の視界は真っ白になる。
これで、楽になれる。
そう思った瞬間だった。
その最後の一粒は目の前で、溶けて消えた。
―――重たい目蓋が開かれた。
……夢だったのか。
目を開けて、自分の視界の疑問に気づく。
降っている雪が、俺のところだけ降ってない。
固まった首を動かし、上を見た。
骨の折れたボロイ黒い傘が、雪を遮ってくれていた。
「こんなところに居たんですか。みんな心配してましたよ?」
サヤエンドウの声。その声の源をたどる。
俺の隣にサヤエンドウが立っていた。
その見覚えのある麦わら帽子には、少し雪が積もっている。
両頬には俺とお揃いのガーゼが張ってある。
その細身の体に似合わない大きな手が、俺の頭の雪を払い落とした。
「隣座ってもいいですか?」
雪を落とし終えて、サヤエンドウは優しく俺に聞く。
俺はぎこちなく首を動かす。
サヤエンドウは隣に腰を下ろした。
彼の体が風を遮断して、少し暖かくなる。
俺たちはただ、沈黙していた。
俺も不思議と、何も話す気に慣れなかった。
「……巻き込んでしまって、すみませんでした」
ポツリとサヤエンドウはそんなことを呟いた。
静寂した空気に乗せて、その声は俺の耳にしっかりと届く。
俺は返事をすることなく、向こう岸のネオンの光を見つめる。
巻き込んだんじゃない。俺が勝手に首を突っ込んだんだ。
首を横に振ることしかできなかった。
「……野菜というのは腐りやすい。それと農家も一緒なんです。安ければ安いほどそちらの方へ、買い手は向いてしまう。どんなに品質が良くても、結局は安い方ものを消費者は求めているんです。だから、野菜が売れなければ、農家は貧しくなる一方なんです……」
サヤエンドウは、そんなことを口にし始めた。
何かをサヤエンドウが伝えようとしているのが、分かった。
多分、大事なことだ。
一呼吸置いて、サヤエンドウはもう一度口を開く。
「……だから、僕はいろんなところからお金を借りた。家族の生活を護るために。でも、僕は逃げ出した。お金の返済からも、家族からも。僕が家を出て行けば、妻と息子だけは幸せに生活できると思ったんです」
サヤエンドウの横顔を見た。
遠くを見つめる目が、悲しみに満ちている。
いろんなところというと、やはり危ないところからも借りていたのだろう。
「でも、結局は正反対だったんですね。逆に家族を苦しめていてしまっていた。妻と息子だけには、幸せになって欲しかった……。この願いは、叶うことすらなく、叶うどころか、自分でその願いを打ち砕いていたんです」
サヤエンドウの痛みが、なぜか俺には手に取るように分かった。
冷たい指先に力が入る。
「許して欲しいとは思いません。僕がやったことは人間以前に、父親としてやってはいけないことですから。……デウス君、ありがとうございました」
俺は重い目蓋を持ち上げた。
ありがとう? なんでだ?
「……なんで、礼を言うんだよ。俺は、アイツを救えなかった」
サヤエンドウはゆっくり、首を横に振る。
「そんなことありません」
「なんでっ―――」
俺は傘を振り払い、サヤエンドウに向き直る。
彼は俺に微笑み、両手で何かを差し出していた。
俺はそれを見て、固まっていた体が一気に熱くなる。
ユウキとリベンジの二人が、力強く手を取り合う絵の描かれた、分厚く赤い缶。
俺はこの赤い缶に見覚えがあった。
キリヤが映画館で買っていた、飴の入った缶。
どうしてこれを、サヤエンドウが持っているんだ?
「イーグル君に渡されたんです。あの子が働いていた仕事場のロッカーに置いてあったそうです」
リバーシにある、キリヤのロッカーから?
そういえば、雑居ビルの前で別れていた時、やり残したことがあると言っていた。
俺は、その缶を受け取る。
温度の低い缶に俺の体温が滲み出す。
それから、その缶を膝の上に置き、硬いふたを片手で開ける。
その中にあったものを、気づけば俺は広げていた。
ノートを破り捨てたような紙に、へたくそな字で綴られた、俺へ向けての手紙。
『よう。元気か? お前がこの手紙呼んでくれているころには、オレはすでに死んでるかもしれないな。って、一度書いてみたかったんだ。こういうの。でも多分、ほんとにそうなっていると思う。オレの体はもう限界なんだ。この手紙を書いているのも正直しんどい。入院もススメられたけど、逃げ出しちまった。まあ、実際もう体のことなんてどうでも良かったんだ。最後の最後までオレの好きなことやって死にたいと思ったんだ。でも、最後に、これだけはお前に伝えなくちゃと思ってな。変な役回りさせちまって、ごめんな。でも、お前じゃなきゃダメだったんだ。オレとお前は意味分かんねえくらい似ている。多分、オレがお前だったら同じことすると思った。友達を助けに来てくれるって。お前との出会いはまあ、運命の出会いってヤツなのかな? お前と過ごした時間は短かったけど、オレの人生の中で一番楽しかった。いろいろ伝えたいことあるけど、この紙にそんなに入りそうもないから、最後にこれだけ伝えたくておく。もしかしたらお前は、自分に出会わなければ、オレは幸せだったんじゃないかとか、気持ちの悪いことを思ってるんじゃないかと思う。だが、そいつはでかい間違いだ。少なくともオレは、お前に会うことができてほんとに良かったと思ってる。だから自分のことあまり責めんじゃねえぞ? オレはお前に救われたんだ。お前に会えたことがオレの人生の最後の幸せだった。あ、後一つ伝えたいことがあるんだ。映画の受け折みたいでなんかカッコわりぃんだけど。大神、お前はオレの、友達だ』
なんだよ、この出だし。
なんだよ、このグダグダの手紙。
字のバランス考えろよ。
頭に浮かんだことをそのまま書くんじゃねえよ。
喉の奥が目の奥が熱い。
息が苦しい。心臓が破裂しそうだ。
俺は手紙の裏を見返す。
裏の下の方にも、小さく文字が綴られていた。
『追伸、そういや、裏もあったんだった。まあいいか。大体は伝えられたし。それよりも、一つだけ余ったからやるよ。お前の大好きな味だ』
俺はもう一度、缶の中を除き見る。
白い塊が一つあった。
俺はその塊を、口の中に放り込む。
口の中の傷に染みる。
そのせいで、前が見えない。
手紙の文字も、何個かダメにしてしまった。
また、ハッカ味かよ。俺、そんなに好きじゃないのにさ。
それにしても、今日の雪は少し水が多くないか。
顔が、雪のせいでびしょ濡れだ。
気が付くと、俺は声にならない声を叫んでいた。
俺の臆病さに呆れるくらい、涙が止まらない。
何が出会わなければ良かっただ。
嘘つくんじゃねえよっ! 強がるんじゃねえよっ!
俺はキリヤに会えて、良かったんじゃねえか。
このほとばしるものこそが、その証拠じゃねえか。
確かにあいつと過ごした時間は短かったのかもしれない。
それでも、アイツと過ごせた時間は、俺の過ごしてきた時間の中で一番幸せだったじゃねえか。
どうして、こんなに俺たちは似てるんだ。
どうして、分かったときにはもう遅いんだ。
どうして、知ってしまってから気づくんだ。
どうして、もうアイツは、居ないんだ。
俺は口の中の苦味としょっぱさを、記憶の中に刻み込む。
この味を生涯、二度と忘れることはないだろう。
遠くの方で、二匹の狼の慟哭と、哀しみの咆哮が聞こえた。
しばらくして、俺は落ち着いた。
それから、付き添っていてくれたサヤエンドウの体をそっと離れる。
まだ目頭が熱い。
喉もカラカラだ。
俺はここでようやく、雪が止んでいることに気づいた。
「……落ち着きましたか?」
「……うん」
俺は頬の、哀しみの残りを拭う。
それから、サヤエンドウの方を見た。
キリヤの残した遺言を伝えるために。
「……アイツ、サヤエンドウに悪かった、って伝えてくれって言ってた。それと―――」
俺はポケットに手を入れ、赤いスカーフを取り出す。
それをサヤエンドウに渡した。
「これは?」
「サヤエンドウの形見だ。首に巻いていただろ?」
「ええ、でもこれはデウス君が持っているべきですよ」
俺は小さく首を横に振る。
ここから先は俺の勘違いかもしれないし、本当のことかもしれない。
今となっては、ただの戯言なのだろう。
それでも、家族の記憶が少しでも息づいているのなら、言わなくちゃいけない。
「サヤエンドウは、農家していたとき、いつも首にタオル巻いていたんだよな?」
「え? は、はい、そう……ですね」
「その巻いてたタオルって、赤いヤツだよな」
「……」
サヤエンドウは気づいたようだ。
俺の言いたいことに。
礼の写真を思い返してみると、答えはすぐに出てくる。
写真にも写っていた。サヤエンドウの首に巻かれた赤いタオルが。
その隣には、笑いかける少年のキリヤ。
「きっと、アイツは……憧れていたんだよ……汗水たらして働く、自分のたくましい親父の姿に……」
サヤエンドウは大きく目を見開くと、その赤いスカーフを大事そうに抱えた。
これで少しは、繋がったのかな。
「……サヤエンドウは、これから……どうするんだ?」
そう聞くと、サヤエンドウは麦わら帽子を取り、雪を払う。
帽子の内側に手を伸ばし、くしゃくしゃの紙切れを取り出した。
今ではただ一つの、家族の記憶を。
「……生きますよ。全部背負って、生き続ける限り、生き続けます」
彼の目に俺は、一筋の覚悟を見た。
そうだ。生きなければいけない。
行き続ける限り。
残された者には、生きる義務があるのだから。
さあ、別れを告げよう。
「だったら、俺にも背負わせてくれ。一人より、二人の方が軽くなるだろ?」
「ありがとう……息子の死に目に付き添ってくれて。これからも、あの子の友達で居てくれますか?」
俺は返事の代わりに、サヤエンドウの手を力強く握った。
人が握手をする理由。それは、心を一番伝えやすいからだ。
「そういうことなら、アタシたちにも背負わせなさいよね」
突然聞こえた声に驚き、後ろを振り返る。
ママ、ハカセ、イーグルさん、ウミサルが居た。
「二人よりも六人の方が良いんじゃないかな?」
「まあ、お前らがそこまで言うんなら、俺も背負ってやっても良いぜ?」
「お前は背負うというより、抱えるの間違えじゃろ? 文字通り、腹でじゃ」
「何をっ!」
「なんじゃ、この赤鼻っ!」
「まあまあ、落ち着きなよ、二人とも」
俺はなぜか自然と笑えた。
そうか。俺は一人じゃないんだな。
人は一人じゃ生きていけない。
そんな当たり前のことを、俺は改めて刻んだ。
「それじゃあ、帰って、久しぶりにみんなで鍋しましょうか?」
「おっ、いいね、ママ。じゃあ、俺はとりあえず、酒瓶持ってくらあ」
「じゃあ、俺も酒瓶運ぶの付き合うよ」
「おっ、イーグルなかなか気が利くじゃねえか」
「ワシも、ウミサルの散歩に付き合おうかの」
「ハカセ、おめえは、ホントにひでえ奴だよな」
俺とサヤエンドウは、くすくすと笑った。
帰ってきたんだ。ここに。
俺の居場所に。
「ほら見て、夜明けよ」
ママの声に導かれ、川の向こうを見やる。
今日の昼まで続くと聞いていた雪は、いつの間にか止んでいた。
ビルの谷間から温かい光が、水面に映し出されていく。
生命の泉から立ち昇る、陽炎。
白い欠片が、空気に溶ける。
陽の光は、七人の影を重ねるように、伸ばしていく。
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