第十八話 紅と白の正義
俺たちの間には、荒々しい声が流れ、リング外での戦闘が激化しているのが分かる。
キリヤの目に視線を戻す。
天井のライトで、キリヤの目がやけに生き生きとしているように見える。
いつかキリヤは言っていた。紅狼と戦いたいと。
俺との戦いを望んでいたのだ。
……運命の皮肉を感じてならない。
戦闘態勢を整えて、睨み合う俺たち。
どちらが先に仕掛けるのか。それが今の重要な問題。
先手必勝は集団との対戦には向いているが、一対一の場合少し違ってくる。
先に仕掛けることは、カウンターを受ける確立が増えるのだ。
一対一の場合、下手を打てば一瞬で勝負が決まってしまう。
……そうは分かっていても、今の高ぶる俺の気持ちは抑えようもなかった。
カウンターを食らおうが、そんなことはどうでもいい。
早くこの拳を、コイツにぶつけたい。
その思いが、握りつぶした拳をさらに固めさせる。
そのとき、ゴング高い音が聞こえた。
多分入り乱れた戦闘で、ゴングが地面に落ちたのだろう。
体は考えるよりも先に動いていた。俺は真っ直ぐに、右の拳を突き出していたのだ。
そして次の瞬間、拳に衝撃が奔る。
石のように硬いキリヤの拳と、俺の拳がぶつかり合う。
互いに体重を乗せた拳。
譲れない互いの思いのように、動くことのない拳。
歯軋りの音が脳に響く。
じりじりとねじりあう拳は、俺とキリヤの拳をすれ違わせた。
互いの目から視線を離すことなく、すれ違う俺たちの体。
俺は過ぎ去った体をひねり、左拳をフック気味に振りまわす。
肘裏の関節が絞まった。
キリヤの右腕が、俺の左腕に交差して絡まっている。
俺たちは次に、互いの空いていた拳をぶつかり合わせ、最後に頭突き合う。
電極を間違えたように、俺たちは弾かれ、距離がとられる。
頭の芯を振るわせた。痛みはない。
不思議なことに俺たち二人は、まったく同じ行動を取ったのだ。
なぜか、俺の胸の奥はざわめいていた。
―――なんだこれ。
正気を戻したとき、すでに顔の真横にキリヤの脚があった。
俺は危機一髪で右腕を立てて、ガードに成功する。
脚を押しやるが、息つく間もなく、キリヤの右拳が俺の顔に向いていた。
左手の甲でガードして、がら空きになったキリヤの左頬に俺は右拳を叩き込もうとする。
そのとき、口から赤い液体を吐くキリヤの姿が思い浮かんだ。
速度を落とした拳はキリヤに掴まれ、横に投げ捨てられる。
やばいっ。顔が、がら空きだ。
案の定、キリヤの左拳が俺の右頬に近づく。
俺は前に出していた左足の親指に力を入れ、真後ろに後退した。
キリヤの左拳は空を切るが、その反動を利用して後ろ回し蹴りを繰り出す。
俺はその脚をくぐるように、しゃがみこんで避ける。
キリヤはその回した脚を途中で無理やり止め、再びしゃがみこんだ俺の左頬を右脚が襲う。
今度は左手を立てて、防御に成功する。
俺はそのまま右脚を両手で掴み、前に押しやる。
ここでようやく、キリヤの攻撃は止んだ。
俺は立てた片膝に手を置き、少し荒くなった息を抑える。
キリヤは戦闘態勢を崩さないまま、息を整えると口を開いた。
「……どうして、手ぇ出さねぇんだ」
「……」
「まさか、オレの体に気ぃつかってるわけじゃねえだろうな」
キリヤの体に気を使った?
……頭によぎったキリヤの姿。
そうだ。俺はコイツの体を心配したんだ。
俺が殴ることでまた、コイツが目の前で吐血するんじゃないかと。
「もしそうだとしたら、お前にはがっかりだぜ。……オレにヒーローの意味を教えるんじゃなかったのか?」
俺は息を呑む。
「おい、デウス。ヒーローの第一条件って、知ってるか?」
ヒーローの第一条件。
似たような問いを昔、されたことがある。
その問いの答えを一つだけ、俺は知っている。
「いいか。第一条件は、絶対に勝つことだ」
俺の知っていた答えとは、違っていた。
ヒーローは最後に必ず勝つ、というヤツか。
「そんなことも分からねえお前に、オレを倒せるわけがねえ。ヒーローの意味を教えるなんてできるわけねえんだよっ!」
黒く鋭いものが、胸の奥を突き刺した。
肺が熱い。喉が焼けそうだ。
それでもその痛みが、俺を目覚めさしてくれた。
俺は何を迷っていたんだ。
決めたんじゃねえか。この道を進むって。
キリヤに俺の思いを、願いを、勇気を、この拳で伝えるって。
なら、もう立ち止まる必要なんてない。
「キリヤ、一つだけ質問していいか」
「なんだ」
「お前のやったことは、正義なのか?」
「……ああ、当たり前だ」
キリヤの答えを聞いて、俺は立ち上がる。
それから、戦闘態勢を再び整えた。
これでもう立ち止まる必要なんてない。
キリヤは自分のやったことを正義だと思っている。
ならば、それが間違っていると教えなきゃいけない。
そうしなければ、俺のヒーローの条件にコイツも当てはまってしまう。
復讐を正義とするヒーローが、居てたまるか。
なぜなら、ヒーローの第一条件は―――正義を貫く勇気だからだ。
「てめえに、本当の正義を教えてやるっ!」
「……ふっ、いい目になったじゃねえか。それだよ。オレは知ってるぜ? お前の中に、戦いを好む獣が住み着いていることをな」
俺の中に住む、戦いを好む獣。
そんなことありえない。
でも、そうだとしたら、この胸のざわめきやたぎる熱いものの説明はできる。
認めざるを得ないのかもしれない。
奥歯を血が出るんじゃないかと思うくらいに、強く噛んだ。
「……行くぜ。キリヤっ!」
「来いっ! デウスっ!」
俺の体は真っ直ぐにキリヤのほうへ走り出す。
キリヤも俺の方へ走り出した。
握り締めた右拳をキリヤの顔めがけて、突き出す。
拳にキリヤの頬骨の感触が伝わった瞬間、左目の視界が縦に弧を描き歪んだ。
それと一緒に、頬の内側から鉄の味がする。
俺の拳がキリヤの頬に、キリヤの拳が俺の頬に。
相打ちになったことが分かる。
まとまってくる痛みに意識が跳びそうになる。
だが、キリヤの目を見て意識をすんでのところで連れ戻す。
背筋を凍らせるような狼の鋭い眼が、俺のことをロックしていた。
なんでこうもタフなんだろう。
キリヤの姿は視界の下に消え、俺はそれを目で追う。
宙に跳び、キリヤの脚払いを避ける。
着地した時アキレス腱のあたりを強引に押され、俺の視界は倉庫の天井を映していた。
しまったっ! 二連続の脚払いかっ!
俺は腕を頭の後ろに組み、後頭部を打つ衝撃を軽減しようとする。
だが、俺と平行で宙に浮いているキリヤの体が視界に入り、俺のこの対処が間違えであることに気づく。
「ヴっ―――」
背中が地面に着くと同時に、がら空きの腹部に、石が勢いよく押し当てられたような痛みが襲う。
重力と腕力を兼ね備えた、ボディブロー。
息ができない。腹の中をえぐられた様な気分だ。
再び来る、痛みによる意識の薄れ。
―――まだだっ!
俺は息を止め、歯を強く食いしばる。歯茎から鉄の臭いがした。
痛みで薄れゆく意識を、痛みで繋ぎとめる。
腹に突き刺されたキリヤの右腕を俺は両手で掴み、両足でキリヤの腹を同時に蹴り上げた。
キリヤの目が喉が一瞬動きを止めたが、すぐに右腕を捻り俺の体の真横に着地すると、右足を上げた。
下から見える靴の裏が、俺の顔面めがけて降りてくる。
俺は危機を感知して、キリヤの右腕を離し、鉛筆のように転がる。
リングのマットに地響きが鳴った。
体を起こすと、キリヤの右足が先ほどまで俺の顔面があった場所で、マットを踏みしめていた。
危なかった。あのままあそこに居たら、顔面を踏み潰されていた。
俺は腹部を押さえながら、立ち上がる。
するとキリヤは俺へ向け、人差し指を自分の方へ二回倒し、挑発的な態度をとる。
……上等だ。とことんやってやるっ!
俺とキリヤの攻防は続く。
痛みを感じさせない、素早い狼の牙。
俺がこれまで出会った中で、これほど痛みを受けた人間は他にいない。
頬を噛み千切る牙が、体を切り裂く爪が、鋭利な白い毛先が、突き刺さる瞳が、俺の体と心を蝕んだ。
多分、俺も同じことをしていたのだろう。
心地の良い痛み。自分と対等に戦える奴と出会えた喜びを、俺たちは分かち合う。
だが、人間の体には常に疲労というものがある。
どんなにあがいても、まとわり着いてくるのだ。
キリヤの顔にも疲労が見えてきた。当然、俺にも。
やけにキツそうなのに、キリヤの目は光を失っていない。
キリヤの攻撃を受けて、俺はいつの間にか、リングのコーナーに追いやられていた。
背中に当たる冷たいコーナーマットの感触が、危機感を募らせる。
しまったっ、誘われていたのかっ!
キリヤはこの機会を逃さなかった。
キリヤの赤いスカーフが翻った。
回し蹴りっ!
俺はしゃがみこんで避けるために、膝を曲げようとした。
その時だった。膝にガクンと鈍い音が鳴動する。
膝が動きを止めたのだ。
くそっ! 動けっ!
動かそうとするが、ピクリともしない。
そして、キリヤの脚が一閃。
―――右腕の骨が、いやな音をたてた。
瞬きする間もなく、咄嗟に俺は右腕を立てていたのだ。
力を無くした右腕がキリヤの脚の勢いに負け、俺の体を歪ませながら横になぎ倒される。
俺は転がりながら、キリヤとの距離をとった。
リングの真ん中まで行くと、片膝を立てて体を起こす。
右腕はうな垂れた。
腕に力が入らない。感覚がない。
折れたか?
でも、指の方はなんとか動く。
「随分良い音したじゃねえか。これで、勝負ありだな」
「なに言ってやがる。こんなのてめえへのハンデに決まってるだろ」
キリヤは鼻で笑うと、コーナーを向いていた体をこちらに向けた。
強がったはいいが、これからどうする。
もう右腕は使えない。
避けてたけど、左手を使うしかないのか。
俺は疲労で動きのぎこちない膝を何とか動かし、立ち上がった。
膝が震えて、うまく立てているのかも分からない。
体の節々が痛い。皮膚が熱い。
気のせいか、視界もぼやけている。
それにしても、アイツの回し蹴りは厄介だ。
ホームレス村でもアレに随分手こずったし、やられそうにもなった。
こんなに回し蹴りを連発するなんて、尋常じゃないバランスだ。
……ん? バランス?
俺はキリヤの脚を見た。
……そうか。バランスか。
バランスが良いんだったら、崩してやればいいのか。
俺は左手をキリヤへ向け、人差し指を自分の方へ二回倒した。
さっきのお返しだ。
「へっ。強がりやがって。上等だっ!」
キリヤは走り出す。
頼むぜ、俺の膝と脚。もってくれよっ。
俺は目を見開きこれまでにないくらい、感覚を研ぎ澄ませた。
キリヤは拳を二回突き出し、俺はそれを左手で受け流す。
腹部へ向け、キリヤの蹴りが突き出される。
―――ここで誘い込んでみるか。
俺は左手でキリヤの左脚を真下に叩き落とす。
キリヤはその叩き落された左脚を、そのまま前に踏み込んだ。
キリヤの体は周りの空気を巻き込み始める。
―――ここだっ!
俺は膝を曲げ、体を反時計回りに捻りこみ、左脚を伸ばす。
頭上を通り過ぎる牙に合わせて、キリヤの踏みしめた左足のかかとの部分を、払う。
脚払いだ。キリヤはいつも回し蹴りをするとき、片足を踏みしめていた。
片足でバランスをとるのは難しいが、それをずらしてやることは容易にできる。
俺は脚払いの回転を利用して、空気を巻き上げ、宙に舞う。
脚を払われたキリヤの体は、ゆっくりと背中から地面に落ちる。
キリヤの顔面に向け、俺の握り締めた左拳が、伸びていく。
このまま突き進めば、地面に着くと同時に、俺の左拳がキリヤの鼻に直撃する。
これで、トドメだ。
迷う必要なんて、ない。
―――拳は空気の壁で、行き止る。
「……なんでだ。なんで、やらないんだ」
俺の伸びたきった左腕の先に、キリヤの顔がある。
その切なそうで悲しそうな、複雑な表情が。
俺はキリヤに、トドメを刺すことができなかった。
「……そんなもん、決まってるだろ……」
俺は、焼けそうな喉からやっと搾り出すことができた。
左拳が振るえている。
この世でもっとも、自分に一番近くて遠い存在。
そんな存在の名前を、お前に教えてもらったんだ。
俺はその存在を護りたかった。
この繋がりを護るために、ここに来たんだ。
その繋がりを壊してでもお前を止めに、ここに来たんだ。
でも、やっぱり壊したくなんてない。
だって―――。
「―――お前は、俺の友達だからだ」
俺の世界は潤いだす。
キリヤの顔も歪んで見えずらい。
俺の視界のせいかもしれないが、キリヤの瞳も潤んでるように見えた。
しかし時間というのは、待ってはくれない。
キリヤは体をくの字に曲げ、激しく咳込む。
マットに広がる紅くて黒い液体。
鼻を刺す、鉄の臭い。
俺は左手を伸ばして、キリヤの体を掴もうとする。
「触るなっ!」
キリヤは俺の手を振り払った。
俺はキリヤの体から離れる。
「なんでだ、どうしてっ―――」
「うるせえっ! もう時間がねえんだっ!」
そうキリヤは叫んだ。
時間が、ない? どういうことだ?
キリヤは咳き込みながら立ち上がり、ジーパンのポケットに手を突っ込む。
次に手をポケットから出したとき、銀色の何か持っていた。
その銀色のものから火花が散る。
火の点いたライター。
「おいっ、なにす―――」
俺が止めようと手を伸ばした瞬間、キリヤはそのライターを放り投げた。
赤い火の灯ったライターは、弧を描き、リングのロープに火が移る。
その炎はリングの外にも広まっていき、リングを紅蓮の炎が包み込む。
火が広がるのが、早すぎる。
俺はロープを掴んだときのことを思い出す。
確かあの時、手が湿った。
油か何かを振りまいていたのか。
キリヤは顔を上げる。
「……で、デウス。続きだ。第二ラウンドだ」
「ふざけんなっ! なに考えてんだっ! これじゃあ、お前も出られねえんだぞっ!」
「あ、ああ、そうだ。ここからは、俺とお前、最後まで立っていた奴が……出られる」
俺は、もう一度ふざけるなと叫びそうになったが、口をつむった。
赤く染まるキリヤの目で、本気だということが分かったからだ。
俺はこれほどまでに、覚悟を決めた目を見るのは初めてだった。
息が詰まって、どうしようもなく息苦しい。
炎の熱が俺の視界を歪ませ、顔に汗が滲み出てくる。
「デウスっ!」
リング外の炎を隔て、赤いドレスのママの姿があった。
後ろには、ザビエルなどの誘拐されていたホームレスが居る。
どうやら、救出に成功したようだな。
この騒ぎに応じて、ホームレスの人たちを救出するように頼んでいたのだ。
でも、このままママを放っておけば、この炎の波の中に突っ込んで、ここまで来てしまうかもしれない。
「ママっ! 先にみんなを連れて、外に出ていてくれっ! もちろん、若い奴らもなっ!」
「で、でも、デウスがっ!」
「俺なら大丈夫だっ! 全部終わらせたら、すぐに行くからっ!」
ママは、三秒くらい俺の方を見た後に頷いて、みんなを誘導し始める。
ありがとう。ママ。いつも心配かけてごめん。
俺はキリヤに向き直る。
ボロボロなのに、どうしてこんなにも気迫のある目ができるんだ。
キリヤの口元には、血の後がある。
俺はよろよろの体で、キリヤに近づく。
まあ、ボロボロなのは俺も同じか。
「なあ、キリヤ。もういいじゃねえか。なんで、ここまでする必要がある。確かにサヤエンドウは、絶対にしたらいけないことをした。でも、その理由も聞かないで一方的に誘拐して殴るなんて、意味わかんねえだろ」
「……たよ」
「え?」
「聞いたんだよっ!」
キリヤはそう叫びながら、俺の頬を拳で貫く。
俺は吹き飛びそうになる体をなんとか引きとめ、キリヤの目を見た。
「理由なんて最初に聞いたっ! でも、アイツは答えなかったっ!」
「じゃあ、どうして誘拐なんてしたんだよっ!」
今度は俺がキリヤの頬を殴った。
左手の風穴が、拳が痛んだ。
「うるせえっ!」
再びキリヤは俺の頬をえぐる。
「なんでだっ!」
そうして、俺も殴り返す。
二人で叫びながら、互いに殴りあい続けた。
一体どれほどの時間が流れたのだろう。
時間が、とてもゆっくり流れているように感じた。
もう何時間も殴り合い続けているのか、それともまだほんの数十秒も経ってないのか。
左手の包帯は血で滲む。
俺の血か、キリヤの血かも分からない。
ただ、手にくっついた錘を振り回しているような感覚。
痛みはすでに、痛みとしての役割を果たしてはいなかった。
軋む関節が、弛緩する筋肉が、腫れる頬が、歪む視界が、キリヤから受ける全ての痛みが俺の中に入ってくる。
今までの苦痛も迷いも叫びも全部、流れ込んでくる。
これが思いを伝えるということなのだろうか。
俺の思いもちゃんと伝わっているのだろうか。
初めて知った。人を殴ると自分も痛いということを。
そんな当たり前のことを、ようやく知ったのだ。
俺たちの手は止まり、互いに傷だらけの顔を睨み合っていた。
両手はぶら下がり、膝はガクガクと震える。
重たい目蓋を上げ、俺はまだ死んでいないキリヤの目を見つめる。
おぼろな視界は、キリヤの白い髪と赤い炎で染まっていく。
炎はもう、この倉庫全体を覆ってしまっていた。
ロープは焼けちぎれ、あたりは一面焼け野原のようだ
喉も目も乾いてきている。
腕が重い、体が熱い。
すると、突然キリヤが大きな声で叫び始める。
俺もそれに伴って、叫びだす。
まるで、最後の一撃をぶつけ合う合図のように。
キリヤの拳が引かれる。俺も拳を思い切り引く。
握っているのかどうかも分からない拳を。
何度も交差させた拳を。
思いを砕くために、振り続けた拳を。
友を助けたいと思った、拳を。
俺たちは、互いの運命を交差させ、立ち上る陽炎をかき消して、現実を痛みで分かち合う。
最初に両目の視界が開けたのは、俺のほうだった。
崩れ行く友を、俺は見下ろしていた。
俺も膝から崩れ、キリヤのそばに寄る。
キリヤの頭を俺は、膝の上に置いた。
彼は、笑った。
「で、デウス……行け。お前の、勝ち、だ……」
「ふざけんじゃ、ねえ。お前も連れて、行くんだよ」
俺は膝を持ち上げようとする。
しかし、上がらない。
酷使しすぎたようだ。
「わりぃ、無理っぽい」
「あきらめんじゃ、ねえ、よ。ヒーローは、あきらめちゃ……いけねえんだぜ?」
俺たちは互いに笑いあった。
からからの声で。
この最悪な危機だというのに、なぜか心は晴れ晴れとしていた。
「……オレさ、また元通りに、なるんじゃねえかって、どっかで思ってたんだ……」
「元通り?」
「笑えるだろ? もう、母ちゃんはいないのに、さ……」
息が苦しくなる。
目頭が熱くなる。
気道が詰まって、息もできない。
「昔はさ、親父とケンカしたら、いつも……殴り合ってたんだ。そして、仲直りして、家族三人で……野菜パーティーしてたんだ。オレ馬鹿だからさ。親父と殴り合えば、仲直りできると思ったんだよ……」
だから、誘拐したのか。
「じゃあ、ウロボロスに頼んでいた依頼は?」
「……オレの友達にさ、まだ自分の親父に未練のある奴らが、いたんだ。丁度そのときに、オレも……親父のことをこの街で見かけた。だから、依頼して、居場所を教えてもらったんだ。みんなも、自分の親父と殴り合えば、仲直り……できるんじゃねえかって、思ったんだ……」
理由はどうあれ、離れ離れになった親子同士を再会させて殴り合わせれば、仲直りできると思ったのか。
飛躍しすぎているが、これがキリヤの思いやりだったのだ。
正義だったのだ。
でも、世界はそんなには甘くなかった。
「……でも、結局全部、ぶっ壊しちまった。オレの正義なんて、ちっぽけなもんだったんだ。親父を見た瞬間、怒りでなんにも考えられなかったん……だからな。それに大事なもんも、ぶっ壊しちまった……」
キリヤの優しい瞳が、俺の目を見つめる。
俺はキリヤの手をしっかりと掴んだ。
「ホント、馬鹿だよ、お前。まだ、ぶっ壊れてなんか、ねえよ。俺は、ここにいるじゃねえか」
「あ、ありがとうな……デウス。……そうだ、オレさ、実は一つ夢があったんだよ……」
俺はこの炎の中なのに、冷たいキリヤの手を力の限り握る。
感覚は薄れていくのに、どうしてこんなにも体温は分かってしまうんだ。
キリヤの咳き込む振動が伝わる。
少しずつ光と熱を失っていく、命の灯火。
「……困った人を助ける、ヒーローに……なりたかったんだ……」
俺は、唇を噛み締める。
「なに、言ってんだよ。これからなれるじゃねえか」
「でも、この夢は、お前に託すよ……」
「ふ、ふざんけなよっ! お前が叶えろよっ! お前の夢なんだろっ?」
「わりぃ、デウス。もう、オレには、時間が……なくて、な……」
俺は唇を強く強く、噛み千切れるんじゃないかと思うくらいに噛む。
前に繋いだはずの暖かい手は、なぜか冷たくて寒い。
キリヤの咳は、乾き始める。
もう、血すら出なくなってきた。
灯火は小さくなっていく。
「なんで、だろうな、神様。オレ、なんか悪いことしたのかな? まだ、行きたくねえな……」
キリヤの泣きボクロが、雫で埋もれる。
胸が苦しくなった。
体全体が鎖で縛られるような、あるいは体の内側を焼かれてしまいそうな感覚。
「行くってどこにだよっ! 俺たちは、これからじゃねえかっ! 一緒に映画見て、一緒に飯食べて、一緒に遊んで、一緒にケンカもしたじゃねえかっ! 俺たちもケンカして、やっと、これからだってのに……やっとできた友達なのに……。なあ、また飯食いに行こう、映画見に行こう……だから、だからっ―――」
俺が目を開くと、キリヤは少年のような笑顔を俺に向けていた。
その笑顔に見とれて、自分の目から涙が流れていることにも気づかなかった。
「でも、一応、礼は言っておくよ。最後に、最高の友達に……出会わせてくれたから、な……」
溢れ出すもので、前が見えなくなった。
焦がれる喉。焼かれる肺。
その中で、頬に流れるものだけが唯一、潤っていた。
全てが乾いていく世界で、俺の目に映るものだけが潤っていたのだ。
「お前だけじゃ行かせねえ。俺も……」
「お前は、ダメだ……」
「なんでだ?」
「お前には、待っていてくれる奴が居るんだろ?」
全ての人の顔が次々と映し出される。
ママ、ハカセ、ウミサル、イーグルさん、サヤエンドウ。
組長、蜂谷組の人たち、萌香。
その光の粒は、記憶の中を駆け巡る。
なんでだ。なんでこんなに……。
「ほら、お迎えが来たようだぜ?」
「……え?」
耳を澄ますと、地面を轟かせるような音が聞こえた。
やけに、心臓に響くエンジン音。
―――イーグルさんだっ!
俺は音のする方を探す。
……居たっ!
業火を掻き分ける、フルフェイスの反射する光。
赤いボディ。炎の大海原を颯爽と駆け抜ける、真紅のバイク。
後ろにはどうやら、ママも乗っているみたいだ。
「おーいっ!」
枯れかけている声を張り、俺は上がらない左手を必死に上げて振る。
良かったこれで、助かる。
「キリヤ、まだ助かるぞ」
「いや、オレはもうダメだ……」
「あきらめんなっ―――」
「もう、オレにも、迎えが来ちまった……みたいだ……」
「―――っ!」
キリヤの目は、もう光を失っていた。
握った手は氷のように冷たい。
ダメだ。ダメだっ。ダメだっ!
「ダメだっ! 絶対に見捨てねえっ! 俺はもう誰も目の前で大事な人を失うわけにはいかねえんだっ! 第一、俺はまだお前の本当の名前もも聞いてねえしっ!」
「デウス。知ってるか? オレとお前は、似た者同士なんだ……ぜ?」
「……え?」
「それに、オレで……最後にすれば、いいだろ? これからは……オレの代わりに、目の前の大事な人を、助けてやって、くれ。……約束だ……」
差し出された小指に気がつけば俺は、小指を重ねていた。
なぜ、俺はこのとき小指を結んでしまったのだろう。
結んでしまえば、また約束してしまうことになるのに。
結ばなければ、楽になれたかもしれないのに。
「……大神。おま、えは、オレ……の―――」
口は動きを止め、小指は、力なく落ちる。
あのときの、病室と同じことを繰り返していた。
俺の中で、透明だったものが叩き割られ、崩れ落ちていく。
修復のできないガラスのように。
俺の体は、友の血で染め上げられていた。
そうして、視界は動き出す。
友の体を、炎の中に置き去りにして。
崩れ行く天井を、鉄骨を、ライトが落ちる様を、倉庫を、ただ見つめている。
唯一、首にあったはずの、赤いスカーフがないことが引っかかっていた。
漆黒に包まれていく世界を、俺はただ、眺めていた。
感想やアドバイス、誤字・脱字などの指摘お願いします。




