第十九話 家族
とても真っ暗な世界。
自分が目を開けているのかさえ分からない。
なんだか浮いているような感覚だ。
そうか。俺、死んだのか。
やっぱり、神様でも死を乗り越えることなんてできなかったのか。
……もう一つ、萌香に伝えなきゃならないことがあったのだが、もうどうしようもない。
萌香は大丈夫だろうか。
無事に父親と再会できたのだろうか。
そうだとしたら、少しは俺も報われたのだと思える。
胸を張って母さんのもとへ行ける。
体に重みが増し、沈んでいくのが分かった。
阿比留公園のみんなにも感謝を伝えたかったな。
……ありがとう。
体が溶けていく。
その時、この真っ暗な世界に一筋の光が指す。
その光は徐々に広がり、体を照らしていく。
とても暖かく優しい光は、視界を覆い隠し、体全体を包んだ。
光に向けて手を伸ばす……
* * *
目蓋が開いた。
汚れた天井。
消えかけの蛍光灯に消毒液の香り。
ここはどこだ? 病院か何かだろうか。
重たい頭を持ち上げると、頭痛がした。
洗面器の上の鏡に俺の姿が映っている。
頭に包帯がグルグルと巻かれていた。
左手に痛みがはしる。
左手も頭と同様に包帯が巻かれている。
手のひらの真ん中に穴が開いているような感覚だ。
いや、実際に開いているのだろう。
ふと、右手が持ちあがらないことに気付く。
見ると同時に俺は安堵した。
萌香が右手を握って眠っていたのだ。
その寝顔は、不安で曇っていて青白い。目の下には少し隈ができている。
俺は、金色の針金のように鋭い髪を優しく撫でた。
見た目とは裏腹にふわりとさらさらした感触だ。
握られている右手を軽く握り返した。
……良かった。ここにいる。
本当。寝顔だけなら天使を具現化したように可愛いのに。
俺は思わず、サラサラな金髪をクシャクシャにした。
「何、人の頭で遊んでるのよ」
萌香の目がパッチリ見開かれていた。
「あっ、いや、その、起きてたの?」
「これだけ、クシャクシャにされたら誰でも起きるわよ」
それもそうか。
「アンタ、体、大丈夫なの?」
「あ、ああ。お前こそ大丈夫か? 顔色悪そうだけど」
「こ、これはアンタのせいよっ」
「は?」
「な、なんでもないっ」
少し顔を赤らめてソッポを向いてしまった。
俺が何をしたというのだ?
そして、訪れた気まずい空気。
とりあえずいろいろと謝っておくか。
「すまなかったな。もう少しカッコよく助けたかったんだけど。心配かけちまって」
左手を見せながら言った。
「謝るのは私のほうよ。私のせいでそんな怪我までさせてしまった。ごめんなさい」
「違えよ。お前のせいじゃねえよ。この傷は俺が好きでつけた傷だ」
「で、でもっ」
「自分が本当に生まれてきて良かったのかって聞いたことあるよな?」
不安そうな顔で俺を見つめる萌香。
「俺のことはこの際どうでもいい。でも、お前は生まれてきて良かったんだと俺は思う。だって、お前を助けるためにどれだけたくさんの人間が命を懸けたか知ってるか? それだけお前は愛されてるんだよ。一人じゃないんだよ。だから、生きていいんだ」
「それでも、私がいたらまた傷つけてしまう」
萌香は悲しそうにうつむく。
母親が自分を生んで死んでしまったことや、自分のせいでつけてしまった父親の顔の傷や左手が動かなくなってしまったことに、激しく罪悪感を感じてしまっているのだ。
だから、自分のせいで誰かを失ったり、自分のせいで誰かが傷ついたりすることに怯えている。
失ったものや傷つけたものが大きければ大きいほど、その傷は徐々に広がり、自分を蝕み、食らい尽くす。
気が付けば、真っ暗な世界のどん底にいて、自分が誰なのかすら分からなくなってしまう。
そんな世界のどん底から救い出す方法は、金でも力でもない。
言葉だ。
「……傷つけたっていいじゃねえか。むしろお前のためなら喜んで傷ついてやる。言っただろ? お前は一人じゃない。蜂谷組のみんなや父親、阿比留公園のみんな、もちろん俺だっている。それからお前の母親も」
「え? お母……さん?」
「ああ。ひまわりの花言葉って知ってるか?」
萌香は小さく首を横に振る。
ここから先は俺のただの想像だ。
事実なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
それでも、萌香が笑ってくれるなら。
これを伝えるために俺は……
「……『あなただけを見つめる』だ。お前の名前にも、ひまわりは咲いているよな?」
俺の言葉の意味を理解したのか目を見開いたかと思うと、顔がゆがみ始める。
萌香という名前に咲いている一輪の花。
それは太陽に向かって力強く背伸びをするようにして咲く、明るい花。
一面に広がる明るい花から漂う、香ばしい太陽の香り。
その名も、ひまわり。
萌香の母親が好きだった花だ。
「そう。萌香の母親は、いつだって萌香を見守ってくれているんだよ。愛する娘の名前っていう一番近い場所からな」
萌香の目にいっぱいに堪ったひまわりの種は、少しずつ零れる。
その一粒一粒が地面に新たな命を授けるように静かに落ちていく。
「お、おかしいな? 止まらないよ。もう、泣かないって決めてたのに、アンタの前だと、どうして?」
涙を拭いながら、鼻声の萌香に俺は優しく語りかける。
「泣きたい時には泣けばいい、笑いたいときには笑えばいい、怒りたい時には怒ればいい、怖い時には怖いって言えばいい。それが息をするってことだ。それが生きるってことだよ」
萌香は声を上げて泣き出した。
俺の胸で泣き崩れるその脆く繊細で壊れてしまいそうな体を、優しく抱きしめた。
「もう、大丈夫……だから」
ようやく落ち着き、目蓋を赤くはらした萌香を椅子に座らせた。
またしても訪れるこの忌々しい気まずい空気。
とりあえず聞きたいことを今の内に聞いておこう。
「なあ、ここはどこだ?」
「ん、お父さんのよく利用するお医者さんの病院だって」
ヤクザの利用する病院ってことか。
「他のみんなは?」
「分かんない。私と鉄と小鉄で先にアンタをここに連れてきたのよ」
なるほど。
「ということは組長には会ってないのか?」
「うん、ちらっと目が会っただけ」
「そうか」
イーグルさんとママは無事だろうか。
まあ、あの二人なら大丈夫だろ。
「ん?」
俺は病室のドアが軋んでいることに気付く。
立ち上がりドアを開けようとすると何かにぶつかり、「いてっ」という声がした。
「……何してるんですか」
ドアのすぐ外には鉄さんと小鉄さんが聞き耳を立てていたのである。病室から出ると、二人は照れ笑いしながら後ずさる。
診断室のような場所に出た。
「いやあ、兄貴がお嬢を泣かせてたんで」
「そうそう。兄貴がお嬢とキセイジジツを作らないように見張ってないと」
はあ?
何言ってんのこの人たちっ?
「どうかしたの?」
病室から出られない萌香が後ろから聞いてくる。俺は振り返り、手をぶんぶん振った。
「あなたたち何してるの?」
聞きなれない女性の声に驚き、声のした方を見る。
いくつものファイルや銀色の器具が置かれているデスクの前に、座っている女性が一人いた。
少し露出度の高めな服装に白衣を羽織っている、大人の香り満点のお姉さんだ。
「どう? 具合の方は」
俺は開いた口を慌てて閉じると、返事をした。
「だだ、大丈夫です」
「そう。無茶をしたようね? ヤクザの事務所に乗り込んだんですって?」
「は、はあ」
「おとなしそうな顔して随分とやんちゃなのね。骨には異常ないようだけど、その左手の穴は重傷ね。そこのお嬢さんに感謝しなさい。あなたに献血してくれたんだから」
「え?」
俺は病室から出てきて壁にもたれかかっている萌香を見る。
顔を赤らめ目をそらされた。
だから、さっき怒ってたのか。それに顔も青白かったわけだ。
「三、四か月すればふさがると思うけど、銃痕は残るかもね。神経には異常なさそうだけど、傷口が広がって今度は手が動かなくなるかもしれないから安静にしておくこと。ふさがるまで毎週包帯を取り換えに来ること。いいわね?」
黙って頷いた。
「あの、ありがとうございました」
「いいのよ。いつもゴツイ顔の患者しか診てないから、あなたみたいな可愛い患者が増えるだけで少しは救われる気分だわ」
ニコリと笑い、後ろのゴツイ顔の二人を見て言った。
後ろの二人はというと、顔を見合わせ照れ臭そうに笑った。
やめろ、気持ち悪い。
「それじゃあ、兄貴行きやしょうか」
「どこにですか?」
「もちろん、蜂谷の事務所っす。お頭がお待ちです」
頷くと、白衣の女性に軽く会釈をした。
手を振り返してくれた。
俺の隣ではなぜか、「鼻の下伸びてる」と言いながら萌香が肘に軽めの関節をキメている。
痛いんですけど?
「萌香もありがとうな。献血してくれたんだろ?」
「べ、別に、血液型がたまたま一緒だっただけよ」
俺の口元は少し緩んだ。
まったくコイツはどこまで俺と似てるんだか。
「ということは、俺の体の中には萌香の血が流れてるってことか」
「ばっ、ばかっ!」
萌香は顔を紅潮させて、外に出て行ってしまった。
どうしたんだろうか?
「あなたもさっさと行きなさい」
俺はもう一度会釈すると、外に出る。
もう夜になっていた。
路地裏を通って小さな駐車場に出ると、止めてあった車に乗った。
* * *
「お頭お連れしやした」
蜂谷組の事務所に着くと、赤い門をくぐり長い廊下の先にある組長室の襖の前に立つ。
「入りぃ」
その返事を聞くと、鉄さんが襖を開いた。
中にいた複数の人物に俺は驚きを隠せない。
「何でここにいるの?」
ママ、ハカセ、イーグルさん、ウミサル、サヤエンドウの五人。
「それはワシが言いたいことや。兄ちゃんの保護者や言うて強引についてきたんや。コイツら一体何者やねん」
椅子に座っている組長にギロリと睨まれた。
その剣幕に俺は首を引っ込めてしまう。
「は~い。アタシはデウスの母親で~す」
「ワシはデウスの祖父じゃ」
「俺はデウスの兄貴だよ」
「俺はデウスの父親だ」
「私はデウス君の……再従兄弟?」
『お前だけ限りなく親戚じゃねえか!』
サヤエンドウの小ボケに他四人がツッコむ。
俺は知らないぞ、こんなに度胸のある保護者。
「二人とも無事だったんですね」
俺はママとイーグルさんに向く。
「うん。俺、強いから」
「デウスも無事……じゃなさそうだけど、元気そうね」
「まあな」
左手を振って見せる。
そして、ハカセたちの方へ向く。
「ハカセたちも無茶しやがって」
「お前さんには負けるよ」
ハカセから呆れた口調で言われた。
まったくもって、申し訳ない。
「そうだ。まったく、カチコミなんて正義の味方がすることか?」
「そうですよ。もう少しスマートに片づけてほしいものです。どれほど心配したことか」
「……ごめん」
俺は謝ると、少し気になっていたことを思い出した。
「何でハカセたちが蝶野会の事務所で黒いスーツ着てたんだ?」
「あ~、アレね、アレは―――」
ママが真相を話し始める。
俺がダンボールハウスを出て行ったあと、俺のしようとしていることが分かったハカセたちは、蝶野会に恨みのあるホームレスたちをかき集めた。
ママの情報によって、蝶野会にもう一つの小さな事務所があることを知ったハカセたちは、先に手を打ったのだ。
蝶野会の戦力はほぼ本家の方にあるが、万が一のために小さな事務所の方も潰しておくということだった。
それだけでも十分怖いのだが、本当に怖いのはここからだ。
なんともあっさり事務所を落とすと、そこへ蝶野会の組長から応援に来るようにという電話が入った。
それを聞いたウミサルが、良いこと思いついたと言って次々とヤクザたちのスーツをはぎ取り始めたのだ。
それから、蝶野会の援軍を装って来たということだった。
なんとまあ、手回しの早いというかなんというか……働けよ。
そう言いたいほど、行動力があるのだ。
本当にホームレスなのか?
「まあ、ホームレスも目的が一致すればどこぞの雑技団にも負けないほどの結束力があるということね」
「そうじゃ。アメリカ軍も潰せるぞい」
「それはさすがに無理だ」
ハカセの小ボケに反射的にツッコんでしまった。
こんな得体の知れん集団が向かってきたら、黒人の総理大臣も思わず白人になるぞ。
「まったく、ホンマお前ら何者やねん」
組長、お前らって俺も入ってないですよね?
「う~んと、あえて言うなら、『正義の味方』かしら?」
ママが俺にウインクを飛ばしてくる。
そのウインクをデコピンでマンハッタンへ弾き飛ばした。
「……おとう……さん?」
消え入りそうな声で俺の後ろの顔を出す萌香。
組長は目を見開くと、椅子から立ち上がり俺を押しのけて萌香の前に立つ。
萌香はぶたれると思ったのか、強く目をつむった。
しかし、組長が起こした行動に俺は内心、少しだけ驚いた。
萌香を強く抱きしめたのだ。
「良かった。お前が無事で戻ってくれて本当に良かった」
組長の顔は見えないが、萌香は少し驚いたような表情を浮かべると唇を噛み締めている。
「あっ、そうや」
そう言うと、組長は椅子に戻って何かを持ってまた萌香の前に立った。
萌香の表情は涙の予感を思わせる。
組長の手には、たくさんの黄色い笑顔が咲き誇っている。
ひまわりだ。
「これ持って、また母さんの墓参り行こうや」
そう言う組長の顔は俺の見たことがないほど、優しい顔だった。
「……うんっ」
その時、萌香の顔にひまわりは咲いた。
俺が初めて見た萌香の心からの笑顔。
なんだ、不器用なだけの普通の親子じゃないか。
そして、ようやく分かった。
約束だとかなんだとか、結局そういうのは理屈でしかなかったということに。
俺はただ、萌香のこの笑顔が見たかったのだ。
ママたちとアイコンタクトを交わすと、部屋から出ようとした。
「兄ちゃん、どこ行くんや?」
すると、組長に呼び止められる。
「へ? 帰るんですけど?」
「何言っとんねん。まだケジメつけてへんやろ」
ケジメ? 何のことだ。
「五千万の件や」
「あ~」
やっべ、すっかり忘れてた。
娘助けたら、チャラにしてくれって言ったんだったか。
「あの~、チャラにしてくれるんじゃ、ないんですか?」
恐る恐る聞いてみた。
怖くて顔が見れない。
「確かに兄ちゃんには感謝してはおるんや。やけどな、身内でもなんでもない他人の借金五千万を一気にチャラにする言うんはちょっとできひんのや」
「……ええっ! じゃあ、どうするんですか。じゃあ、昔言ったように俺の臓器売るんですか?」
「そういえば、そんなこと言うたんやったか」
組長は今思い出したかのように言う。
おいおい。
じゃあ、俺は何のために命張ったんだ? まあ、借金をチャラにするために張ったわけでもないのだけれども。
「一つ、兄ちゃんに大事な話がある」
やけに真剣な声で話を持ちかけてくる。
俺は息を呑んだ。
「臓器を売るっちゅうアレはな……実は、嘘なんや」
「……はあ!? ど、どういうことですか?」
「ワシらはそないな危ない商売はしてへん。アレは単なるテスト。度胸試しや」
度胸試し? テスト?
「何のテストですか?」
「構成員になれるかどうかのテストや」
「……」
構成員って蜂谷組のか?
「なんでそんな嘘を?」
「こういうところに金を借りに来る奴は大抵人生の分岐点におる奴らや。そないな奴らにワシは人生をやり直すチャンスをくれたろうと思うとんねん。借金返済を延長させ、臓器を売るぞと脅すことで大抵の人間は自殺するか、逃亡する。それでも、もう一度ワシらの目の前に生きて帰ってきた奴には蜂谷の構成員として働かせて借金を返させるようにしとるんや」
良くできたシステムだ。
借金も返済させれて、構成員も増やせる。
まさに、一石二鳥だ。
「そのテストに俺も合格したわけですか?」
「そうや。せやかて、兄ちゃんはまだ未成年。そんな奴を組に入れるわけには行かん。そこでや」
ニタリと笑った組長の口から信じられないような、屁理屈が飛び出た。
「……マジですか?」
「大真面目や」
俺はため息をついた。
「おいっ、さっさと支度するんや」
『へいっ!』
組長の掛け声で半ば嬉しそうに鉄さんと小鉄さんは走り出す。
大変なことになってしまった。
「やっぱり、デウスを見てるのが一番面白いや」
赤いスーツのままのイーグルさんは、いつもの王子スマイルで俺に話しかける。
「何にも面白くなんてないですよ」
「いやいや、こういう不幸なのか幸福なのか分からないところがデウスと俺の持ってるものの違いなのかな」
「それ褒めてるんですか?」
「割とね」
割とって。
完全に面白がってやがるな。
「まあ、いいじゃないですか。これでうまくまとまりそうなんですから」
「そうだそうだ。このウミサル様に感謝しろ」
「何でウミサルに感謝しなきゃいけないんだよ」
「そうじゃ。腐れ呑兵衛」
「そうですよ。赤っ鼻」
「お前らな……」
ハカセとサヤエンドウがウミサルに追われている。
おい、お前ら。ここがヤクザの事務所だってこと分かってるんだよな?
「戻ってこれたわね」
ママのその一言で俺の中の暖かいものが次々と噴出してくるのが分かった。
戻ってこれたんだ。
またこの場所に。俺の居場所に。
死ぬことを覚悟して出て行ったこの場所に。
「……ああ」
騒がしくも暖かいこの一室で俺は小指を見つめた。
* * *
まあね。
戻ってこれたことは良いんだ。良いんだよ?
でもさ……どうしてこうなった。
畳が何十枚も敷かれた剣道場のような馬鹿でかい一室。
畳の上には黒いスーツに正装した何十人ものゴツイ顔した蜂谷組構成員が、あぐらをかいてこちら側をじっと見つめている。
俺と袴に着替えた組長が向かい合う。
その間には一個の大きな盃。
俺の後ろには阿比留公園のみんながいて、組長側には萌香と鉄さんと小鉄さん。
ああ、帰りたい。
「兄ちゃん覚悟は出来とるやろな?」
「覚悟も何もやるしかないじゃないですか」
鼻で笑うと組長は大きな盃に酒を注ぎこむ。
それから隣に置いてあるドスの刃を抜いて、親指に当てる。
赤い液体が一滴、盃に落ちた。
「ほれ」
俺にもそのドスを渡してくる。
何、俺もしなきゃいけないの? いやだよ。
「早うせい」
急かされてしまったので、親指の皮膚を少し切る。
赤い俺の欠片が一粒、透明の液体に落ちていく。
盃の中で赤い二つの波紋が広がり、混ざり合う。
「今から何するか分かるやろうな?」
その問いに黙って首を縦に振った。
盃を交わすのだ。しかも、今度は本物の極道と。
それに今から交わす盃は、お互いが五分と五分の兄弟になるという兄弟結縁の盃。
なぜこのような盃を交わすのかというと。
それは組長の屁理屈から始まった。
「未成年は組に入れられんし、身内じゃないモンの借金をチャラに何てでけへん。それやったら、ワシと 兄ちゃんが兄弟になればいい。そうすれば、兄ちゃんが組に入ったことにはならんし、身内になるから借金もチャラにできる」
とまあ、こんな感じだ。
それからこうも言っていた。
「これでうちの組も戦力増大やな」と。
俺が「何でですか?」と聞くと、組長は憎たらしいほどの笑みを浮かべてこう告げたのだ。
「兄ちゃんが兄弟になるということは、情報網も戦力もあるその仲間も必然的に蜂谷組の戦力になるっちゅうわけやねん。それに兄弟やからもちろん依頼もタダなんやろ? まあ、契約みたいなもんや。借金チャラにしたる代わりに働けっちゅうことやな」と。
腐ってもヤッチャンだということである。
良く頭の切れる組長がいて、蜂谷組の未来は安泰だな。
いや、頭が切れるというのはハゲだからとかそんなんじゃないよ?
「……ほいじゃ、ワシから飲むで」
そう言って両手で盃を三口半飲むと俺に渡す。
同様にに三口半で飲んで盃を置く。
口の中では酒の苦い味と鉄の味が混ざり合って少し吐き気がした。
「これでワシと兄ちゃんは兄弟や」
随分と歳の離れた兄弟だな。
初めての酒がホームレスで二回目がヤクザの組長だなんて、俺はいったい何者なんだ。
「よし、者共! 今日は、めでたい日や。ワシに兄弟ができて、萌香も無事に帰ってきた! 今日は宴や! 思い切り飲んで飲んで飲んで、腹のもん全部ぶちまけろや!」
『うおおおおおおおっ!』
蜂谷構成員は一斉に立ち上がり、襖を開けて次々と酒やらごちそうやらを運びこんでくる。
あの緊迫した空気が一気におかしく騒がしい空気になった。
阿比留のみんなもヤクザ共に交じって、酒を酌み交わす。
俺はというと……。
「兄貴! 俺のも飲んで下せえ!」
「馬鹿野郎! 兄貴は俺のを飲むんだよ!」
「ああっ!? お前の酒なんか腐ってて飲めるか! ですよね兄貴?」
「さあさあ、ぐいっと一杯」
鉄さんと小鉄さん率いるヤクザ共が俺に酒を飲ませに来るのである。
ちょっ、俺まだ未成年ですよ?
「おいっ! お前ら静かにせえ!」
組長が一括。
俺がほっとしていると組長がにコップを手渡す。
「兄弟はワシの酒を先に飲むんや。なあ?」
「え? いや、俺、みせいねっ」
「なあ?」
笑ってるけど怖いよ、組長!
ていうか、組長顔赤くないですか?
「ワシの酌んだ酒が飲めんいうんか?」
こうして、俺は渋々酒を口にしたのだった。
その夜は俺の覚えている限り、最高に騒がしい夜になった。
鉄さんが俺の活躍劇を熱心に話しだしたり、小鉄さんが演歌を熱唱し始めたりしていた。
途中からホームレスたちが加わったり、終いにはキャッツ共が来て気持ち悪い踊りを踊りだすという予想外の展開にも発展した。
そんな中、ふと萌香に呼び止められて廊下に出る。
庭の池や盆栽に月明かりが照らしていたのは、覚えている。
廊下に座り、足を庭に投げ出して萌香の隣に座る。
組長や他の奴らにどんどん酒を飲まされた俺は、頭がしっかりしていなかった。
「アンタ酒臭いわよ」
「ん? ああ、しょうがねえだろ。強引に飲まされたんだから」
俺がそう言った後、少しの沈黙が俺たちの間を包んだ。
「お父さん。すごく楽しそうだった」
「そりゃ、飲んでるからだろ?」
「ううん。普段あんまりお酒飲まないのよ。きっと嬉しいんだと思う。息子ができたみたいで」
息子……ね。
「そんなものか?」
「そんなものよ。お父さんあれでもアンタを認めてるのよ。一人の男としてね」
どうだかな。
商売に利用しようとしてるだけじゃないか?
少しの沈黙の後、萌香が静かに口を開く。
「えっと、その――ね」
「え? 何? なんて言ったの?」
「だ、だからっ! ありがとうって言ったのっ!」
「ああ、ありがとうね。って、何で感謝するんだ?」
「……私を助けに来てくれて、私の味方になってくれてありがとう。ちょ、ちょっとだけカッコ良かった……」
萌香も酒を飲んだのか顔が火照っているような気がする。
いや待て。火照っているのは俺か。
面と向かってそんなこと言われたら、かなり照れてしまう。
心臓の音がドンドン大きくなっているのが分かった。
「その、なんだ? 無事で、良かった……」
二人の間を漂う心地の良い沈黙が、虫の音や水の音で彩られていく。
肩と肩がそっと触れているのを感じる。
俺の心臓の音が萌香にも伝わっていないだろうか。
なんか感覚がぼんやりしていく。
「よっ、お二人さん熱いねっ」
ウミサルの声がして、咄嗟に後ろを振り向くとみんなが襖の隙間から覗き込んでいる。
「なっ、何してんのよ!」
顔を真っ赤にさせて萌香が怒りを吐く。
「兄貴。もうお嬢を狙ってるんですかい?」
「この際、貰っちゃいなよ?」
「これで蜂谷組の二代目は決定っすね」
「そうよ。あんなハゲ組長の娘にしてはもったいないわ。貰っちゃいなさいよ」
「誰がハゲ組長じゃ。オカマ! 言っとくが萌香は誰にもやらんからの! 兄弟! もし、手なんか出しよったら、お前の指全部切り落とすと思っときい!」
ヤバい。なんか頭がボーっとして、みんな何言ってるのかさっぱり分からない。
何かくれるのだろうか?
「え? なんですか? 何かくれるんだったら喜んで貰いますけど」
そこから先の記憶はない。
なにやら歓声のようなものが聞こえたかと思うと、視界が逆転して真っ暗になったことは覚えている。
翌日起きるとやけに頭が痛かったことと、萌香が不機嫌だったことに疑問を感じた。
阿比留のみんなはいつの間にか蜂谷組の人たちと仲良くなっていて、ママなんて組長にタメ口を利ける地位まで上り詰めていた。
その夜「chatch I」に呼び出されたかと思うと、「お仕置きよ」とかなんとか言って巫女さんの格好に着替えさせられ、二日酔いの頭で十二月の冷たい風と人々の痛い視線に耐えながら、看板を持って宣伝に駆り出されたのは言うまでもない。
感想やアドバイス、誤字・脱字などの指摘お願いします。




