4:崩滅龍リンドヴルムの侵攻
ローマの空を覆う黒い影。
それは突如として現れた。予兆もなく唐突に、
気付いたときには、巨大な影が空を侵食していた。
まるで太陽を支配する皆既日食のように、この国を闇に閉ざした。
鐘がなる。
──いや、それは規則的な音ではなかった。
訓練時に聞く、打ち鳴らされる警鐘ではない。
──悲鳴だ。無数の人の声。恐怖に引き裂かれた叫びが、街中に響き渡っていた。
それは一瞬の出来事だった。
「本部隊と合流し、人々の避難誘導を優先しろ!」
カエサルの声が飛ぶ。それは思考ではない。
反射によるものだった。
カエサルは天を見上げて確信する。
──空に浮かんでいた曇天は、形を変えていた。
それは雲ではない、翼だ。海のように広がる黒鉄の翼。
空を埋め尽くすその巨躯はあまりにも長大で、一振りの尾が山脈を撫でれば、数多の国が灰燼に帰す。
そして暗闇の隙間から覗く黄金の瞳は、太陽よりも巨大で、その視線に射られた者は、自らの命をその手で引き裂く狂気へと誘われる。
「──龍だ……」
誰かが震える声で呟く。直後、轟音が世界を引き裂いた。雷鳴のような咆哮。
空気が震え、鼓膜が軋む。
その動悸は地鳴りとなって、大地を震わせる。
人々の理性が、本能的な畏怖に押し潰される。
そして、それは降り注いだ──灼熱。
白い石造りの建物が、紙のように焼け崩れる。
広場にいた人々は、悲鳴をあげる暇すらなく、影すら残さずに蒸発した。
「逃げろ!!走れ!!」
カエサルは叫ぶ。燃え盛る炎を掻い潜りながら、兵たちもまたそれに続き、決死の救援活動を行う。
だが目の前に広がる景色は、あまりにも非現実的だった。
凄惨な光景を前に立ち尽くす者。
腰を抜かしその場から動けなくなる者。
錯乱し意味のない踊りをする者。
混乱が混乱を呼び、地獄は瞬く間にローマを支配する。
「グオオォォォオオオオ!!」
天空を裂く咆哮。
その刹那、凄まじい衝撃波が押し寄せる。
空気の壁が街を薙ぎ払う。建物の窓ガラスが一斉に砕け散り、大地が大きく波打った直後──割れる。
地割れ──地面が大きく裂け、深く暗い亀裂。
底の見えない奈落に建物が、人が、命が。全てを呑み込まれていく。
それは災害ではなく戦争でもない。一方的な蹂躙。
咆哮とともに吐き出された、無の波動──その吐息が触れた場所からは、国という概念そのものが消滅し、その地がかつて栄えていたという歴史さえも、人々の記憶から消し去るものであった。
この龍──“リンドヴルム”が通り過ぎた後は、ただ混沌とした更地、無垢な大地だけが残される。法も人も罪も……塵も。何一つ存在しない。
「……終わりだ。なにもかも」
誰かが呟いたその一言は、炎に包まれた街の中で静かに、しかし確実に広がっていった。
崩れ落ちる建物の影で、逃げ惑っていた人々が次第に足を止めていく。
……なんのためか、人々は空を見上げ始める。
──そこにあるのは、抗いようのない“厄災”。
天空からの災禍、降り注ぐ神罰。その暴威を前に、やがて彼らは膝をつき、その“神”に平伏すように受け入れる。
祈る訳でもなく──この世界の終末を。
そして、カエサルの仲間の兵士ガイウスもまた……。
「……聞こえるか、カエサル?」
掠れた声。人々の救援の為に、行動を共にしていた仲間からの違和感のあるその声に、カエサルは立ち止まる。
振り向くと膝をつき、うなだれたままのガイウスがいた。その視線は地面に落ちている。
「オレたちが相手にして来たのは、ただのちっぽけな魔物だったんだな……」
その言葉に炎が揺らめく。その光が彼の影を歪める。
「戦わずともいずれ滅びていく……そんな弱々しい命と、必死になって戦っていた……」
「違う!」
カエサルが叫ぶ。
「ガイウス!俺たちには力があった!だから、ここまで生きてこれたんだ!」
それはガイウスの言葉を、力強く否定する声だった。
だが、
「……今日はどうだ?」
「ッ!……」
その一言でカエサルが止まる。言葉が詰まる彼に熱風が吹き付ける。
──遠くで誰かの悲鳴がする。
「ッ!諦めるな!」
カエサルは、ガイウスの肩を強く掴む。
その震えを、落ち着かせるために。
「まだ俺がいる!それに助けを待つ人々だって!俺たちは今ここで折れる訳にはいかない!そうだろ!?」
必死に言い聞かせるカエサル。だがガイウスは……顔を上げることはなかった。
そしてポツリと、呟いた。
「カエサル……オレの婚約者──お前の好きな子なんだ」
時間が一瞬、止まった気がした。
「な、なに言ってる……?」
聞き返したカエサルの声に動揺が滲む。
だが、ガイウスは続ける。
「今日で終わりなら、最期ぐらいお前に謝りたかった」
炎の中で焼かれるカエサルの影。
「すまない」その言葉だけが妙に澄んでおり、まるで神に許しを乞う、懺悔のように。
「……ッ、馬鹿が!」
カエサルは歯を食いしばる。
「帰ったら、その話しちゃんと聞かせてもらうからな!」
彼はガイウスの手を力強く引くと、無理にでも立ち上がらせる。
「……帰れたら、な」
「ッ!?」
気力の光がない、ガイウスの空虚な瞳。
その瞳に映っていた景色は、カエサルの視線を自然と空へ向かわせた。
──紅。
先ほどまで闇に覆われていた空が、赤く染まっていた。その中心には──巨大な光球。
この国を燃えるような深紅に染め上げていた悪夢。
巨大な龍の喉元に集束する灼熱の塊は、カエサルのその不屈の闘志までをも焼きかねんとするほどの熱波を放つ。
放たれればそれだけで世界が終わる。
そう確信させるだけの圧倒的質量と熱。
空気が焼け呼吸すら困難になるそれは──絶望への未来を想像させるには、容易いモノだった。
「……ッ!」
カエサルの拳が震える。だがその瞳は、まだ強い意志を宿していた。
「俺は、まだ……」
歯を食いしばる。恐怖に全身を軋ませながら、それでも彼は立つ。
「死ぬ訳にはいかない!!」
その叫びが天へと届く。
深紅に燃える双眸。
その視線が地上をなぞる。
死を拒絶するように、行くべき道を指し示す。
《ilastic Brute String》
──空が、裂けた。
次の瞬間、大地を貫くように無数の”線“が伸び上がる。それは樹木のようでありながら、明らかに違う──鮮紅色の光。
世界を覆う闇を串刺しにするように、天へと突き放たれた。
「グルアアァァァァアアア!!!」
直後に耳を劈く、けたたましく鳴り響く悲痛な絶叫。
「……図体が大きければ声も煩いですね」
対照的に柔らかな声が戦場へと落ちる。
「すぐにでも息の根を止めてもいいのですが……」
「リンドヴルムを持ち帰って調査機関に売れば、約三兆の借金は完済ですね」
殺戮場と化した戦地に、一人の女が静かに立っていた。
──ゲビル・クニャージ。
空に浮かぶリンドヴルムを、翡翠の輝石のような瞳で捉える。炎の揺らめきの中、腰まで届くプラチナの長髪が、炎光を受けて紅く輝く。
その姿は、少女にも見えるほど華奢である。
──だが、彼女の足元には赤い血溜まりが広がっており、そこから無数に伸び上がる鮮紅色の触手が、その異質さを物語る。
「ッ!ヤツは……!」
その姿を見た兵たちは、槍を構えて立ちはだかる。
「忌まわしき魔女!このドラゴンを誘引させた黒幕め!!」
その敵意を真正面に受け止めた彼女は、檻に収監されたときとは違う。
──一瞥しただけで相手を屈服させる、強者の覇気を放っていた。
「ッ……!」
敵意を向けたはずの兵たちが戦く。
そのオーラを前に一様に肩を震わせて怯えていたのだ。
魔物特有の敵意や殺意──それらが可愛く感じるほどに、彼女ゲビルの剥き出しの感情は、真の支配者のモノそのものであった。
「殺るときに言葉は不要」
静かに呟く。
「手が遅いのは覚悟が足りないから」
《血縛》
次の瞬間、彼女の背後から鮮血が噴き上がる。
それは触手状となり、彼女に向けられた槍を絡め取り、兵たちの腕ごと動きを封じる。
「ッ……!バケモノ……!!」
「私の国では、そう教わりました。
──対象を殺すときは一瞬でケリをつけなさいと」
無数にうねる血の束。伸びる触手は、シルエットだけを見ればもはや人のそれではない。
そんな状況を前に、ただ一人。カエサルだけが、冷静に口を開いた。
「──魔女。あのドラゴンはお前が呼んだモノか?」
真っ直ぐ彼女に向けられた視線。
その問いに、ゲビルの翡翠色の瞳が、鋭く細められる。
「……動かれると邪魔です」
《血の静脈》
そう言い、目の前のカエサルを手で払い除ける仕草をしたゲビル。直後に絡みつく。
指示を受けた触手により拘束されるカエサル。
「ッ!く……答えろ!」
だが、その言葉を無視するように、ゲビルは空を見上げた。
「奇妙ですね……」
彼女は目の前の景色に「うーん」と首を傾げる。
「ここまで巨大なら、肌を圧触してくる気配ですぐに対処出来たのですけど」
思考するように、顎に手を添える。
「……隠密性に優れている種。リンドヴルムではなく、死霊か地縛霊の可能性もありますね」
そして少し考えた後、ポンと手を打つ。
「ならここは、三則戦術ではなく聖霊戦術にしておきますか」
彼女は小さく息を整え──構える。指先が天を指す。無数の触手により串刺しにされた龍へと。
《私の操作術──煉赫旋風》
戦場に散らばっていた火種が、一斉に巻き上がる。
局地的に発生している炎を従えたゲビルは、それを天へと昇らせた。
それは次第に赫灼の竜巻となり、天を焼き尽くす業火の渦へと変わる。
その光景を前に、兵も、そしてカエサルさえもが……皆言葉を失っていた。
「これが……魔女の力──」
天空を燃やす業火。それを見ていたゲビルが、わずかに眉をひそめた。
「……んっ」
炎の中、一点を凝視する。
「──反応が消えた?」
その呟きの直後、ゲビルは口元の端をキュッと絞める。と、それまでの炎が途端に鎮火する。
炎が晴れた空は、焼き払われたように分厚い曇天をも溶かし、焦げた匂いをそよがせる蒼穹へと変わっていた。
─────
「……さて」
ゲビルは踵を返す。拘束していた触手を解き、兵たちを解放する。
そのまま立ち去ろうとしたそのとき、
「待て!魔女ッ!」
カエサルの声が響く。
ローマに現れた龍の侵攻を退けたゲビル。彼女は振り返らない。
「……やかましい人ですね」
「……なぜ助けた?」
カエサルは訝しげな表情でその背中を見つめる。足を止めたゲビルは、淡々とそれに応じる。
「私はただの旅人。この騒動には無関係です」
再び歩き出そうとする彼女。
「哀れみか?」
カエサルの問い。
「……ご自由に受け取ってください」
──と、そのやり取りを聞いていた一人の兵が前へ出た。
「ふざけるな!!」
カエサルの隣にいた兵士ガイウスが声を荒らげる。
「あの魔物を手引きしたのはお前だろう?!
魔女は敵だ!我が国にとって貴様は不幸を呼ぶ”厄災“そのものだ!!」
ダンッ!と地面を踏みしめてさらに一歩、彼女へと近付いた。
その言葉を黙って聞くゲビル。
「このまま黙って生かせる訳にはいかない──ここでオレが殺す!!」
その言葉はヒートアップしていき、腰に装備していたポケットナイフを手に取ると、
「おい!ガイウスやめろ!!」
ゲビルに振り下ろされた銀製のナイフ。
だが……その刃が届くことはなかった。
「……殺すのではなかったのですか?」
彼女に触れる寸前、ナイフに生じた違和感。
それは途端に、刃を変質させる。
銀が錆色に変わり崩れる。
ボロボロと砂のように形象を崩壊させていく。
「……やめろ。ガイウス」
カエサルが制する。彼の持っていたナイフは跡形もなく崩れ去り、ガイウスの戦意も消失していたからだ。
「言ったはずです」
静かに振り返った彼女は、口にする。
「助けようと思ったから助けただけです。そこに裏はありません」
「ッ!……信じられるか!」
ガイウスが叫ぶ。戦意を失った彼だが、その牙は抜かれていなかった。
「貴様が来てからこの惨状だ!一体何人が、死んだと思っている!!」
その一声に辺りは静寂に包まれる。
そして──
その中でゲビルは、ゆっくりと手を差し出した。
そこにあったのは──
「……顔も名前も知らない人達でしたけど、肌身につけている物は、きっと大切なモノのはずです」
その言葉の前で差し出される複数の小物。いくつかの小さな持ち物は、焼け残った個人の遺品だった。
「どうするかはお任せします」
ゲビルは手に持っていたそれらをそっと地面に置き、彼らに背を向けた。
「……なぜだ?」
その背にカエサルは問う。それに対して彼女は、短くこう答えた。
「素敵なお部屋でしたよ」
それだけを伝えて、彼女は歩き出す。
「…………待ってくれ」
振り返らない。
「待ってくれ!……頼む!!」
声が追いすがる。
──止まらない。それでもゲビルは、歩みを止めなかった。
カエサルの必死の呼び止めに、ゲビルは背中で聞くだけだった。
「この国を──救ってくれ!!」
その叫びは、半ばヤケクソのように焼け焦げた大地に叩きつけられた。
「俺たちに力を貸してほしい!!頼む!!」
カエサルは、もはや体裁も誇りもかなぐり捨てていた。その声は掠れ、喉は焼け付くように痛む。それでも叫ばずにはいられなかった。
「カエサル!?何を言って……!」
ガイウスが目を見開く。だがその制止の声すら彼の耳には届いていない。
「頼む!」
一歩踏み出す。
「俺に出来ることはなんでもする!!」
その言葉に──ゲビルの足が止まった。
風が二人の間を通り抜ける。
焦げた匂いとまだ残る熱が、空気に重く沈んでいた。
「これ以上、犠牲者を増やしたくない。だから……」
カエサルの声は震えていた。怒りでも恐怖でもない。人々を救えなかった悔しさと後悔、そして己の無力さが、その声に滲んでいた。
そして──絞り出す懇願。
「その力で、この国を助けてくれ!!」
その場にいた誰もが言葉を失った。
ただ、彼の背中を見つめることしか出来なかった。
──沈黙が流れる。短いはずの時間は長く感じられた。
……やがて、ゲビルはゆっくりと息を吐いた。振り返らないまま、わずかに、その口元を歪めて──
「私の魔術、無料じゃないですよ?」
その言葉は、相変わらず静かで。
どこか……乾いていた。




