第16話 縁切りランチ
翌年三月、羽崎の風はまだ冷たいままだったが、陽射しだけが先に柔らかくなっていた。寺町の石段の苔は冬の色を残しているのに、商店街の軒先には新しい張り紙が増え、川沿いの柳もごく薄い緑をにじませている。
郷土資料館の常設展示室の一角には、小さな新設コーナーができていた。
『安離庵と羽崎の生き直しの記憶』
修復を終えた瓦が一枚、低い台の上へ置かれている。割れ目は消されず、継いだ線だけが静かに残されていた。その横には、油紙の地図の複製と、安離庵の名が見つかった和紙断片、古道と旧河道を重ねた地図、そして戦後の食堂の説明。派手な展示ではない。けれど足を止めた人が、思ったより長くそこにいる。
入口近くには、公開会のあと集まった聞き書きから抜き出した短い言葉がいくつも並んでいた。
『帰る家がない日に、温かい皿があった』
『怖い話だと思っていたが、違った』
『娘に歩かせたい道だと思った』
『切ったあとに、また食べられる町であってほしい』
千加子は、このコーナーの前へ立つたびに、展示は完成ではなく更新だと誰かへ言う。新しい証言が見つかれば、紙はまた差し替わる。町の記憶は、ようやく固定されるのではなく、動いたまま残される形になりつつあった。
資料館から商店街へ向かう道には、小さな真鍮色の路面標示がいくつか埋め込まれた。矢印ではなく、瓦の輪郭を模した印。その向きに沿って歩けば、坂道の角も、旧河道の曲がりも、れんげ亭までの導線も自然にたどれる。陸矢は生徒を連れてその道を歩きながら、地形図は平らに見えるけど、足で歩くと町はちゃんと起伏しているんだぞ、と楽しそうに話していた。
章光はというと、駅前再開発と保存の折り合いをつける細かい打ち合わせに相変わらず追われていたが、顔つきだけは前より少し明るい。数字が敵ではなく味方になる場面が、ようやくいくつか作れたからだろう。香音は寺町の会合で以前より遠慮なく発言するようになり、あの旧家の男は最近、妙に腰が低くなったらしい。
そして、れんげ亭の昼の黒板には、新しい定食の名が白い字で書かれていた。
『縁切りランチ』
最初に見た客の何人かは、顔をしかめ、それから説明書きを読んで笑う。縁起が悪いのか、いいのか、判断に迷う名前だ。けれど一度食べた人は、妙に元気が出るとか、話の種になるとか言って、また連れてくる。
皿の中身は、公開会で出した復刻皿を普段使い向けに整えたものだった。小ぶりのオムライス、海老フライ、季節の温野菜、少なめのナポリタン、小さな甘味。旗は、毎日ではなく、希望した人の皿だけに立てる。けれど常連の中には、何も言わずとも今日は旗が欲しい顔をして入ってくる人がいて、未羽はそういうとき迷わず一本立てた。
洸太は昼休みにその店へ寄り、カウンター席でそれを眺めるのが好きになっていた。漫談はやめていない。ただし、商店街の催しで話すときも、無理に笑いへ逃げなくなった。話の途中でちゃんと資料を見せ、どこが面白くて、どこが大事なのかを自分の言葉で分けて言う。以前より笑いの量は減ったのに、最後まで聞く人は増えた。
その日も、昼の混雑がひと段落したころ、未羽がカウンター越しに水を足しに来た。
「今日は旗、いらないの?」
「仕事中なので」
「仕事中の人ほど、要る日あるけど」
「じゃあ、今日はまだ大丈夫です」
未羽は口元だけで笑い、グラスを置く。左手の薬指に指輪はまだない。代わりに、紙ナプキンの裏へ地図を描く癖だけが少し残っていて、会計の横には二人で直している回遊案のメモが挟まれていた。
公開会のあとから、洸太と未羽は本当に『続きの地図』を描き続けていた。資料館と商店街をつなぐ小さな案内、子ども向けの地図歩き、祖母のノートから拾った料理と言葉の展示、れんげ亭の壁に貼る短い解説。大げさなことではない。けれど日常の手ざわりのある形で、町の記憶を残していくやり方だった。
午後の少し遅い時間、千加子が資料館帰りに店へ寄り、縁切りランチを頼んだ。章光も打ち合わせ帰りに滑り込み、香音は忙しい合間にプリンだけ食べに来る。陸矢は生徒へ配る地図の試し刷りを抱えて現れ、店のテーブルが半分会議みたいになることもある。
その日の終わりも、そんなふうに自然に人が集まって、自然に散っていった。
日が傾き、店の窓へ春先のやわらかい光が斜めに入る。洸太と未羽は、閉店前の少し空いた時間に、資料館まで歩くことにした。修復瓦の展示を、未羽がまだ落ち着いて見られていなかったからだ。
二人で商店街を抜け、路面の瓦印をたどって歩く。冬を越えた空気は澄んでいて、遠くの川の光までよく見えた。
展示室の前で、未羽はしばらく何も言わなかった。割れたまま継がれた瓦を見上げ、その横に置かれた地図へ視線を移し、また瓦へ戻す。
「きれいに直しすぎてないの、いいね」
ようやく出た言葉がそれだった。
洸太は頷く。
「割れたことまで消すと、見つかった意味も薄くなるので」
「うん」
未羽は、展示の説明書きを読み終えると、小さく息をついた。
「祖母が残したものって、料理だけじゃなかったんだね」
「はい」
「でも、料理で残ったの、祖母らしいかも」
笑いながら言う横顔は、夏よりも迷いが少なかった。全部が決まったわけではないだろう。それでも、自分で選び直しながら立っている人の顔になっている。
展示室を出ると、午後の陽射しが二人の肩へそのまま落ちた。階段を降りる前に、洸太は資料館の壁へ寄りかかるようにして立ち止まる。
「幸せって」
自分でも不意に出た言葉だった。
未羽が振り向く。
「なに」
「派手に始まらなくても、いいんだなって」
夏の夜店のすべった舞台でもなく、告白の瞬間の息苦しさでもなく、こうして展示を見て、帰り道を一緒に歩いて、今日の晩ごはんをどうするか考えるみたいな時間の中に、もうかなりの部分があるのだと、洸太はようやく分かっていた。
未羽は数秒だけ考える顔をして、それからにやっと笑った。
「うん。でも、お子様ランチの旗くらいは立てようよ」
洸太も笑う。
「それは必要ですね」
「でしょ」
二人は、春になりかけの坂を並んで下りた。町の全部が変わったわけではない。消えたものは戻らないし、これからも揉めることはある。それでも、切るべきものを少しずつ切り、残したいものを選び直した先に、昨日より歩きやすい道ができている。
その道の先で、れんげ亭の看板が夕方の光を受けていた。暖簾の向こうには、今日も誰かのための一皿が待っている。




