閑話5 ナンテーヌ視点 侯爵令嬢の影 ― 計画の兆し
侯爵令嬢の影 ― 計画の兆し
ナンテーヌとニースがひそやかに交わした計画は、静かに、しかし確実に芽を出し始めていた。
それはまるで社交界の空気そのものを汚染していく毒のように、じわじわと広がっていったのだ。
最初のきっかけは、ちょっとした噂話だった。
「ねえ、聞いた? マルセイユ公爵家のランスロット様、どうやら近いうちに正式なお見合いがあるらしいわ」
「まあ! 本当? どこと?」
「詳しくは知らないけれど、侯爵家のどこかのお嬢様だって。やっぱり将来の王家に近い方を選ぶのよねえ」
その声は舞踏会の翌週から少しずつ広がり、やがて街の商人の間にも流れ込み、令嬢たちの集まりで囁かれるようになった。
火のないところに煙は立たない。そう思わせる巧妙な流し方だった。
そして次に、さらに悪意ある尾ひれがついた。
「でも、聞いたわよ。伯爵令嬢のカンヌ様が、どうやらその縁談を邪魔しているらしいの」
「まあ、なんてこと! 身の程知らずにも程があるわ」
「ええ。以前からランス様に妙に親しげにしていたでしょう? まるで恋人のように。あれを見ていて、私たちだって恥ずかしかったのよ」
カンヌの耳に、その噂が届くまでにそう時間はかからなかった。
***
その日、私は書店の奥で、新しく刷り上がった紙の匂いに包まれていた。
次に使う小説の資料を探していたけれど、背後からのひそひそ声に、心臓が跳ねる。
「……あの子よ、アヴィニヨン伯爵令嬢」
「本当に? じゃあ噂は本当なんだわ。ランスロット様の縁談を妨害してるって」
「だって見たでしょう? あの二人、街で一緒に歩いてる姿を」
私は本を手にしたまま、凍りついた。
喉がひどく渇き、指先が震える。
言い返したい。
けれど、その場にいた誰もが私を一瞥してすぐ目を逸らす。
その沈黙が、言葉よりも残酷に思えた。
……違う。そんなこと、考えたこともない。
ただ、一緒に過ごす時間が嬉しかっただけ。
彼と本を作りたいと思っただけなのに。
けれど、人の噂というものは恐ろしい。
否定すればするほど「必死に取り繕っている」と受け取られる。
伯爵令嬢という立場は、社交界での防波堤にはならなかった。
***
「カンヌ、大丈夫か?」
その夜、執務室にいた父が、帰宅した私の顔色を見て声をかけてくれた。
けれど、噂のことはどうしても言えなかった。
父に迷惑をかけたくなかったのだ。
「ええ……大丈夫です」
笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつる。
胸の奥で渦巻く不安は消えない。
ランス様に迷惑がかかるかもしれない。
彼の名誉を傷つけてしまうかもしれない。
そう思うと、足がすくみそうになる。
でも――
私は机に広げられた原稿用紙を見つめた。
ランス様と一緒に作り始めた本。
まだ未完成のままの物語。
彼と交わした「完成させよう」という約束。
それを思うと、不思議と力が湧いてきた。
「……私は、やめない」
小さく、けれどはっきりと声に出した。
噂がどうであれ、私が信じるのはランス様の笑顔と、彼がくれた言葉。
誰が何と言おうと、それは揺るがない。
***
一方その頃、ナンテーヌとニースは貴族街の奥まったサロンに集い、葡萄酒を傾けながら笑っていた。
「いい調子ですわね。お見合いの噂は、もうほとんどの令嬢が信じているでしょう」
「ええ。あとはカンヌが社交の場で肩身の狭い思いをすれば、自然とランス様の前から消えるわ。あの子は強いようでいて、心は脆いもの」
二人の扇子が重なるように、ぱちんと閉じられる。
その音は、獲物を追い詰める合図のように響いた。




