第18話 侯爵令嬢の影 ― カンヌ視点
侯爵令嬢の影 ― カンヌ視点
その日、私は一人で街を歩いていた。
本の取材に使うための小物を探すつもりで、文具店に向かっていたのだ。
いつもならランス様が一緒に来てくださるのだけれど、今日は剣の稽古が入っていて、珍しく別行動になった。
ほんの少し寂しく思いながらも、彼の顔を思い出すと自然と足取りが軽くなる。
――その時だった。
「まあ、あなたがカンヌ=アヴィニヨン嬢ね? わたくしニース=グルノーブルですわ」
突然、背後から呼び止められた。振り返ると、豪奢なドレスに身を包んだ少女が立っていた。年は私と同じくらい。けれど、その仕草や立ち姿には、育ちの良さと自信に満ちあふれた空気があった。
淡い金髪を巻き上げ、宝石を散りばめた雪の結晶の家紋入りの扇子を手に持っている。
雪の結晶の家紋はグルノーブル侯爵家だ。侯爵令嬢だと一目でわかった。
「……はい、そうですが」
「やっぱり! あらあら、本当に伯爵家の方って質素なのね。街を一人で歩いているなんて、驚いてしまったわ。おほほほ」
高く笑う声が周囲に響き渡り、道ゆく人がちらちらと振り返る。
私は胸がきゅっと縮こまるのを感じた。
「……ご用件は何でしょうか」
できるだけ冷静に尋ねると、侯爵令嬢は顎を少し上げ、わざとらしく私を見下ろした。
「決まっているでしょう? ランスロット=マルセイユ様のことよ」
その名前を聞いた瞬間、胸が跳ねる。けれど、それを悟られまいと唇を引き結んだ。
「ランス様は、公爵家のご子息。そして王の甥。将来を嘱望された方ですわ。……そのお方に、伯爵家のあなたが近づくなんて――身の程知らずもいいところですわね」
冷たい言葉が、容赦なく突き刺さる。
「まあ、あなたもわかっているのでしょう? 婚約を破棄されたばかりの娘が、すぐに別の殿方と噂になるなんて。みっともないにも程がありますわ」
扇子を口元に当てて「おほほ」と笑う。
周囲の空気が重くなっていくように感じた。
――確かに。
彼女の言葉には、一理あるのかもしれない。
私は胸の奥がずきりと痛んだ。
ランス様に近づくことで、彼に迷惑をかけてしまうのではないか。
私の立場が、彼を傷つけてしまうのではないか。
侯爵令嬢は勝ち誇ったように続けた。
「ランス様には、わたくしこそがふさわしいのです。侯爵家の血筋、王家との繋がり、社交界での評判――すべてが完璧。あなたのような小さな伯爵家の娘では、到底比べものになりませんわ」
心臓が強く打つ。
頭では反論したいのに、言葉が出てこない。
――でも。
ランス様が笑ってくれた顔を思い出す。
カフェでタルトを食べて「君が楽しそうで僕まで嬉しくなった」と言ってくれたあの瞬間。
彼は私の身分や立場ではなく、私自身を見てくれていた。
その記憶が、勇気をくれた。
「……確かに、私は伯爵家の娘です」
私は静かに口を開いた。
「侯爵家の方と比べれば、身分では到底かないません」
侯爵令嬢の目が「そうでしょう」と言いたげに細められる。
けれど私は、胸に手を当てて言葉を続けた。
「それでも……ランス様と過ごした時間は、私にとってかけがえのないものです。甘いものを食べて笑い合ったこと、本を作るために一緒に努力したこと――その思い出は、身分の差では計れません」
侯爵令嬢は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷たい笑みを浮かべた。
「まあ……負け惜しみも可愛らしいものね。でも、現実は変わらなくてよ。ランス様が選ぶのは、わたくしですわ」
扇子をひらりと閉じ、ドレスを翻して去っていく。
残された私は、足が震えているのに気づいた。
***
その夜、ランス様と会ったとき、私は少し迷った。
彼の隣にいる資格が、本当に自分にあるのだろうか――。
「どうしたんだい? 元気がないね」
ランス様が心配そうに覗き込む。
私は一瞬言葉に詰まったけれど、彼の瞳を見て、思わず微笑んでしまった。
――だって、その瞳には、私だけが映っているように感じたから。
「……大丈夫です。少し考え事をしていただけで」
侯爵令嬢の言葉は、確かに胸に残っている。
けれど、私は決めている。
本が完成したそのとき――私は必ず、ランス様に自分の想いを伝えるのだ。




