閑話3 ナンテーヌ視点 舞踏会の夜――。
舞踏会の夜――。
煌びやかなシャンデリアの光が天井から降り注ぎ、会場は宝石箱をひっくり返したかのような眩さに包まれていた。
音楽隊が軽やかな序曲を奏で、貴族たちが談笑し、グラスの中の赤いワインが揺れる。ナンテーヌは豪奢なドレスを身に纏い、誰よりも美しい笑顔を浮かべていた。
「ふふ……今夜こそ」
彼女の胸は期待で高鳴っていた。今日の舞踏会には、ついにマルセイユ公爵家の御曹司――ランスロットが参加する、と噂が流れていたからだ。カンヌは不参加。つまり、ライバル不在の絶好の機会。今夜の舞踏会は、彼女にとって人生の一大転機となるはずだった。
「ナンテーヌ嬢、本当にお美しい」
社交界の若い貴族たちが声を掛けてくる。だが、彼女の耳には入らない。目に映るのはただ一人――扉から入場してくるはずの、ランスロットの姿だけだった。彼と踊るために、わざわざ仕立てさせたドレス。胸元のリボンも、耳に揺れる真珠のイヤリングも、全ては彼に視線を奪われるためのもの。
しかし――。
「皆さまに残念なお知らせがございます」
会場に入ってきたのは、公爵家に仕える執事だった。低く響く声が、場の空気を一瞬で張り詰めさせる。
「本日、若君ランスロット様は体調不良により、ご出席が叶わぬとのことでございます」
「……な、なに?」
ナンテーヌは愕然とした。笑顔が凍りつき、持っていた扇が指から滑り落ちそうになる。周囲がざわめき始める中、彼女だけが立ち尽くしていた。
「そんな、嘘でしょう……! どうして今夜に限って……」
心臓がずしりと重く沈む。これまでの準備、努力、期待。すべてが水泡に帰すかのような衝撃だった。彼に近づき、公爵夫人への道を歩み出すはずだった夜。それが突然奪われるなんて――。
「ナンテーヌ嬢? どうかされましたか?」
心配そうに声をかけてきた青年貴族に、ナンテーヌは必死に笑顔を取り繕った。だが、指先は震え、胸の奥からは悔しさと怒りが込み上げてくる。
(どうして……どうしてあの方は来ないの。私がどれほど待ち望んでいたと思っているの……!)
その瞬間、ナンテーヌの中で「なぜじゃー!」という叫びが弾けた。誰にも聞こえない心の声は、舞踏会の煌めきとは対照的に、鋭く乾いたものだった。
やがて音楽が再び流れ、舞踏会は何事もなかったかのように進んでいく。貴族たちはそれぞれ踊り、笑い合い、社交を楽しんでいた。だが、ナンテーヌにとってその光景は霞んで見えた。彼女の視線は空虚に宙を彷徨い、耳には誰の声も届かない。
(今夜は……無駄になった。でも、終わりじゃない。必ず次の機会を作ってみせる。公爵夫人の座は、絶対に私が手に入れる!)
扇を握りしめ、ナンテーヌは密かに誓った。その笑みは周囲から見れば優雅で可憐。だが、その奥には燃えるような執念が渦巻いていた。
舞踏会は華やかに続いていた。煌びやかなドレスの裾が床を滑り、楽団の奏でる旋律に合わせて幾組もの貴族が踊りを楽しんでいる。その中心に自分が立つはずだった――その事実を噛み締めながらも、ナンテーヌは扇で口元を隠し、静かに周囲を観察し始めた。
(……ランスロット様は欠席。ならば、今夜の収穫は全くないというわけではないわ)
そう自分に言い聞かせ、視線を巡らせる。舞踏会は情報戦の場でもある。彼女のように将来を賭けた一手を狙う令嬢にとって、次善策を探るのは当然のことだった。
(ふむ……あの黒髪の青年、確か東部の伯爵家の跡取り。悪くはないけれど、領地が寒冷地では繁栄は難しいわね)
一方、金髪を後ろで束ねた侯爵家の二男が笑顔で談笑しているのが目に入った。背筋もすらりと伸び、顔立ちも整っている。だが、ナンテーヌの鋭い目はその背後に群がる数人の令嬢たちを捉える。
(競争率が高すぎる。しかも、あの軽薄な笑み……女癖が悪そうね。長い将来を預けるには不安があるわ)
彼女は扇を軽く打ち合わせながら、さらに周囲を探る。舞台脇に控えている、まだ若い侯爵家の三男が視線をこちらに送ってきたのに気づき、ナンテーヌはかすかに微笑んでみせた。だが、すぐに彼が視線を逸らすのを見て、内心で肩をすくめる。
(弱気すぎる。あれでは家を背負う器ではないわね)
そうして観察を続けるうちに、ナンテーヌの結論ははっきりしていった。――やはり、ランスロット以上の相手はいない。彼こそが公爵家の御曹司、未来の栄光を約束された存在。ここに集う誰もが一歩も及ばない。
(そう……やっぱり、私が狙うべきはあの方しかいない。今夜は運命がすれ違っただけ。次の舞台では必ず)
扇の影に隠した口元が、ほんの少し歪んだ笑みを浮かべる。華やかな舞踏会の灯りの中で、ナンテーヌの瞳は静かに燃えていた。




