第16話 秘密の時間 ― カンヌ視点
秘密の時間 ― カンヌ視点
夜の帳がゆっくりと街を覆い、ランプの明かりが石畳をやわらかく照らしていた。
カフェを出てからしばらく、私たちは並んで歩き続けていたけれど、言葉は少なかった。胸の奥にいろんな感情が渦巻いていて、簡単に言葉にできるものではなかったからだ。
――婚約破棄。
それは私にとって、ひとつの終わりであり、同時に始まりでもあった。けれど人々は噂を好む。理由を正しく知ろうとするより、面白おかしく囁くほうを選ぶ。だから、サンオリ様との破談が「ランス様との親しさのせい」だなんて誤解されたら……。
「……少し寄り道をしないか?」
ランスがふいに声をかけてきた。
顔を上げると、彼は人通りの少ない細道を指していた。街灯の明かりがかすかに届く程度で、昼間の喧騒とは無縁の静けさが広がっている。
「こんなところに……何が?」
「小さな公園があるんだ。昔、父とよく散歩した場所でね。人目も少ないから、君も少し落ち着けるんじゃないかと思って」
その気遣いに、胸がじんと熱くなる。
私は頷き、彼のあとについて道を曲がった。
そこには本当に、小さな公園があった。丸い噴水の周りにベンチがあり、花壇には月明かりを受けた白い花が咲いている。人影はなく、静けさが支配していた。
「どうかな。少しは落ち着ける?」
「……はい。とても、静かで……」
私はベンチに腰を下ろし、そっと深呼吸した。ランスも隣に座る。距離は少しあったのに、不思議と近くに感じる。
沈黙が訪れる。夜風が髪を揺らし、噴水の水音だけが響いていた。
「君が気にしていること、わかっているよ」
唐突に、ランスが低い声で言った。
「サンオリ殿とのこと……婚約破棄の原因が、僕にあると人に思われたくないんだろう?」
図星だった。
私は思わず息を呑み、彼を見つめた。ランスの横顔は真剣で、どこか切なげだった。
「僕だって同じさ」彼は続ける。「君に余計な噂がかかるのは、絶対に避けたい。だから……今は、この気持ちを大きな声で言うべきじゃないとわかっている」
――気持ち。
その言葉に、胸が跳ねる。
でも、彼はそれ以上言葉を進めず、ただ私を見つめてきた。
私は視線を落とした。
正直に言えば、私だって彼に惹かれている。彼の優しさも、まっすぐな眼差しも、私の心を何度も救ってくれた。だけど……。
「私……怖いんです」小さく声が震えた。
「人にどう思われるかとか、これからどうなるのかとか……。ランス様の優しさに甘えすぎたら、私、また誰かを傷つけてしまう気がして……」
言葉が詰まる。
けれど、ランスは静かに首を振った。
「怖がる必要はない。君は何も悪くない。君を傷つけようとしたのはサンオリ殿だ。僕はただ……君の隣で、君の笑顔を守りたい」
そのまっすぐな声が、私の心を揺さぶる。
気づけば涙が滲んでいた。
ランスは慌てたようにハンカチを差し出す。
「ご、ごめん! 泣かせるつもりはなかったんだ」
「……違います」私は首を振った。
「泣きたかったのかもしれません。誰かに、こんなふうに言ってもらえることを……」
彼の手からハンカチを受け取り、そっと涙を拭う。
ふと気づけば、二人の距離はずいぶん近づいていた。指先が少し触れただけで、心臓が跳ねそうになる。
――これは秘密の時間。
誰にも言えない、誰にも見せられない。
でも確かに、私たちの心はつながっている。
「ランス様」
小さな声で呼ぶと、彼は「ん?」と優しく返してくれる。
その響きが嬉しくて、胸が温かくなる。
「今はまだ……はっきりとは言えません。でも……私も、ランス様と一緒にいると、安心します」
その言葉を聞いたランスは、ふっと安堵の笑みを浮かべた。
「それで十分だ。無理に答えを急がなくていい。君の心が整うまで、僕は待つから」
夜風が二人の間をそっと通り抜けた。
噴水の水音が静かに響くなか、私たちはただ並んで座っていた。言葉はなくても、心は確かに寄り添っている――そんな不思議な時間だった。
やがて街の鐘が遠くで鳴り、帰る時間を告げる。
私は名残惜しさを抱きながら立ち上がった。
「秘密ですよね、今日のこと……」
「もちろん。僕たちだけの秘密だ」
そう言って笑う彼の横顔は、どんな宝石よりも輝いて見えた。
――きっとまた、会いたくなる。
そう思った瞬間、私は少しだけ自分の未来に希望を抱いていた。




