第13話 カンヌ視点 ― 恋心の芽生え
カンヌ視点 ― 恋心の芽生え
夜の街を歩きながら、私は胸の奥で何度も同じ言葉を反芻していた。
――「君に何かあれば、僕が必ず守る」
あまりにも真っ直ぐで、揺るぎのない響きだった。
その言葉を思い出すたびに、心臓が痛いくらいに跳ね上がり、呼吸が少しだけ乱れる。
私はこれまで、誰かに守られることを素直に受け入れたことなどなかった。
サンオリ様との婚約も、結局は家と家の思惑の中で結ばれた関係で、愛情とは程遠いものだった。むしろ支配に近かった。だからこそ「守る」という言葉をあの人から聞いても、それはただの鎖のように思えただけ。
でも――ランス様の言葉は違った。
彼の瞳に映っていたのは、私を縛ろうとする意思ではなく、ただひたすらに私を思いやる光。そこに嘘はなく、利害もなく、ただ私という人間を大切にしたいという想いがあった。
……それがどれほど尊く、危ういものなのか、私は理解している。
ふと、石畳に映る街灯の光を見つめた。影が二つ並んで揺れている。彼と私。肩が触れるほど近いわけではないけれど、ほんの少し手を伸ばせば届く距離。
その距離が、やけに意識されて仕方なかった。
屋敷に戻ると、母が心配そうに迎えてくれた。
「カンヌ、大丈夫? 噂はもう聞いたわ」
サンオリ様の乱行は、どうやら瞬く間に広まってしまったらしい。私は笑みを作って「大丈夫です」と答えた。けれど心の中は複雑だった。
母は続けて言った。
「でも……あなたを守ってくれる方がいたのでしょう?」
胸が跳ねる。母が指しているのは、もちろんランス様のことだ。
「はい。ランス様が……」
言葉を口にした途端、顔が熱を帯びていくのが自分でもわかった。
母は優しく頷き、深くは追及しなかった。ただ「良かったわね」と言うだけで、私をそっと抱きしめてくれた。その温もりに包まれながら、私は心の奥で密かに思った。
――もし私がまた誰かを信じることができるのなら、それはきっとランス様なのだろう。
それから数日、私は自分でも驚くほど彼のことばかり考えていた。
朝目覚めた瞬間、ふと「今日は会えるだろうか」と思う。
昼食の時、何気なくタルトを目にすると、あの日のランス様の笑顔が浮かぶ。
夜、眠りにつこうとすると、あの真剣な瞳が夢の中まで追いかけてくる。
……これが「恋心」なのだろうか。
私は恋というものを知らない。憧れはあっても、それを自分が抱くなど想像すらしていなかった。けれど、今の私は、まるで物語の中の少女のように彼の一挙手一投足に心を揺さぶられている。
ある夕暮れ、また街を歩く機会があった。
商店の軒先に並ぶ色とりどりの菓子に足を止めると、思わず呟いてしまった。
「ランス様と一緒なら、きっともっと美味しいんだろうな……」
我ながら信じられないほど乙女じみた言葉だった。周囲に誰もいなかったから良かったけれど、もし聞かれていたら顔から火が出るところだった。
その瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
――私は彼にとって、ただの「友人」なのではないか。
そんな不安が、甘い想いに影を落とす。
けれど、思い返す。彼が私に向けてくれた数々の言葉を。
「また一緒に行こう」
「君が落ち着ける場所で」
それらは決して友人だけに向けるものではなかったはずだ。
信じたい。けれど怖い。
もし期待して、裏切られたら――。
サンオリ様との過去が、私を慎重にさせる。
夜、寝室の窓を開けると、星が滲む空が広がっていた。
風が頬を撫で、静かな時間が流れる。
「……私、どうしたらいいのかしら」
小さく呟いた。
もし彼が、あのままそっと手を差し伸べてくれるだけなら、それでも構わない。けれど――もし、彼が一歩踏み込んできたら。
その時、私はきっと拒めないだろう。
むしろ、心からそれを望んでしまう。
そう気づいた瞬間、頬が熱くなり、胸が高鳴った。
――私はもう、ランス様に惹かれている。
その事実を否定することはできなかった。
数日後、再び彼と会う約束を交わした。
場所はあのカフェ。思い出の場所。
待ち合わせの朝、私は鏡の前で何度も髪を整えた。ドレスの色を選ぶのにさえ迷い、結局シンプルで落ち着いた一着を選んだ。
「何をしているのかしら……」と呆れながらも、鏡に映る自分の姿を見て「これなら」と頷く。
――彼に、綺麗だと思ってもらいたい。
そんな欲が、胸の奥から溢れ出していた。
街へ向かう馬車の中、鼓動がどんどん早くなる。
窓の外に広がる風景はいつもと変わらないのに、どこか色鮮やかに見える。
「ランス様に会える」
ただそれだけで、こんなにも心が浮き立つ。
私はそっと手を握りしめた。
――今日、何かが変わるかもしれない。
そんな予感を抱きながら。




