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【3】 5章 補講

5章 補講

 恐怖でひきつる私を尻目に、少年は不機嫌そうに自分の髪の毛をかき乱す。


「鬼卵石が孵化したという噂をたよりにきてみれば、こんな小娘に癒着なぞしおって。死んだのか、融解したのか、その片鱗すら見えぬ。金毛犼は我が物顔、聖娘子は人の容れ物に憑いて人の子と鬼雛の護衛とはなんの茶番か。ぬるま湯に浸かっている貴様らを見ると、鬼雛など虚構(デマ)じゃないかと思えてくるわ」


 ――私だってデマだったらどんだけいいか。


内心で毒づく。


「崑崙には不穏な動き、更には妙な動きをしている輩も見え隠れする。ならばとて神輿を挙げて来てみれば、こんなたあいもない小娘にいろんな輩が翻弄されて」


 彼はふと口調をあどけない少年のものへと戻した。


「滑稽の極みだよね。そうは思わない? こんな貧相な娘ひとりに踊る連中の間抜け面はいい酒の肴になったけれどさ」


 ……貧相て。


 少年は、一歩、足を踏み出す。


「あ、あなたも、やっぱり鬼雛を狙っている妖怪なのね!」


「――自惚れるな小娘」


 ぴしゃり、と彼は冷たい眼光で私を見据える。


「そのような容姿で、非力さで、自分に魅力があるとでも思うてか、片腹痛いわ」


 ぐ、と私は唇を噛む。


 ――こいつ、本当に口が悪い……。


「誰も彼もが自分を欲するなどと思い上がらぬ方が可愛げもあろうというもの。そもそも思い上がれる容姿でもあるまい?」


 ……ひどい。


そりゃ私だって美人だって思ってるわけじゃないけど!


でも、と少年は愛らしく首を傾げる。


「金毛犼を虜にしたということは、その身体にはなにがしかの価値があろうということか?」


 ぎょっとして私はその場に立ち止まる。


「なに……言って」


「思ったまでを言っただけですよ、黒田先輩」


 弼の顔で、彼は笑う。


 また一歩足を踏み出す。


「佐久間先輩は、あなたにベタ惚れだったでしょう? 夜な夜な、その身体で惹きつけているのですか?」


「っ! だ、誰が!」 


 本能的な恐怖を感じて、私は後退を続ける。


 ベンチの脇を抜け、ショップの一群へと逃げてきたが、なぜだか誰も通りかからない。


「ベタ惚れなんて嘘よ。よく見なさいよ! 佐久間先輩はお目付け役なだけよ、私のことなんて、なんの興味も」


「ないわけないでしょう。あなた気付いてなかったんですか? ただのお目付け役が、あんな眼で人間を見ることはないでしょうよ」


「どんな眼よ!」


 わけのわからないことを言う弼から逃げ、いつの間にか店の間の細い路地へと入り込んでしまった。行き止まりだ。振り返る背中に壁が当たる。


「袋小路。気付いてもいなかったですか? 本当に間抜けだな」


 弼は微笑む。


「鬼雛には興味はないが……あの金毛犼が夢中になるというところには興味がないでもない。僕にもその謎を見せていただきましょうか、黒田先輩?」


 ぞっとして背中を壁に押し付ける。弼はすぐ前まで来て、不意にその指を私に伸ばした。


「や、やめて!」


(うるさ)い」


 低い身長から、思いのほか長い手を伸ばして、私の口をふさぐ。


「暴れられるのは本意ではないですからね」


 腕を動かせない、と自分を見ると、どこから現れたのか、私の両手には白い蛇が巻き付いていた。


 ――蛇て! ちょっと本物!? 


 軽いパニックになりながら足をばたつかせると、その足にも蛇が巻き付いた。


 私はすっかり壁に縫い付けられた形となっている。


「本当に痩せぎすの、貧相な人間だな」


 弼は上から下までゆっくり私を眺めて、ため息をついた。


「こんなものの何が面白いんだか」


 言うなり、空いた方の手をかざす。


「んーんー……!!」


 ブレザーとブラウスがまるで紙を水に溶かしたかのようにあっさりと破れて私か

ら離れていく。肌に冷風が吹き付ける。


 自分の上半身が下着だけだという状態を察して、私の顔から血の気が引いた。


「この辺りか……?」


 弼はそっと私の首元に近づくと、顔を寄せた。


 恐怖に声が出せない。舌の感触が這いまわる。


 先輩の時みたいに、ちくりとする感覚もある。なのに、ぞくぞくした刺激はない。

 舌ではなく、蛇が這い回っているかのようなおぞましさだけしか。


 弼は顔をそのまま下へと移動させる。


 首元から、鎖骨、そして胸へと――。


 上半身に空気が当たる。乱暴にそれが取り払われた感触に、私はただ眼を瞠ることしかできない。


「っ!」


 肌の上を蹂躙(じゅうりん)する感触。恥辱と恐怖にぼろぼろと涙が流れる。


 ――こんなヤツに。


「ふん。特に変わったものでもないの」


 弼は顔をあげて肩をすくめると、スカートに手をかけた。ストン、とスカートが足元まで落ちる。そして顔をあげ、にやりと笑った。


矜持(プライド)もなにも、あったものじゃないね、黒田先輩。いい恰好だよ」


 下着しか身に着けておらず、しかも四肢には蛇が巻きつけられた状態で。


 涙を流しながら、私は弼を睨みつける。


 おかしそうに彼が笑った。


「残念ながら誰も来ないよ。なにせ金毛犼様の結界だからね。まさか結界が(あだ)となるとは、さすがの狗めも考えもつかなかっただろうね」


 くつくつとおかしそうに少年は笑う。


「貧弱なのを抱くのは趣味ではないんだけど、人の女というのも存外いいものかもしれないな。少なくとも妖怪よりは肌なじみは悪くない」


 (かく)をバカにしすぎたかな、と首を傾げて。その手が下に降り、内股に当たる。


「んーっ! んーっ!」


 ――誰か助けて!


「往生際の悪い」


 閉じようとした内股に、また太い蛇が絡みつく感触がして、無理やり足を開かせられる。


 ――もうだめだ。


 それでも死にもの狂いに顔を振った。


 弼は視線を下げていたせいか、押さえていた上方の(いまし)めは(わず)かに緩んでいる。


『呼ぶときは、僕の真の名前をね』


 私は夢中で息を吸った。


「――(げん)(えん)っ!!」


                    ※※※


 玃猿は思いのほか手ごわかった。


「……無理ですよ、僕には先が読める」


 玃猿の動きは驚くほど優雅で、それでいて正確無比だった。


 襲いくる最大の武器は漆黒の鋭い爪。


 黒ずくめの玃猿の腕は、二メートル近い長さとなり、鎌のような鋭く太い爪を縦横無尽に操っている。


 余裕のある貴公子然とした物腰に、上品な口調。


 邪魔ですね、と佐久間は己の獣の腕で応戦しながら、口の端を持ち上げた。


「キャラ、被ってるんですよあなた!」


 こいつだけは抹殺しなければ、と佐久間は誓う。


 玃猿が笑った。


「さきほどからまったく攻撃が当たりませんね。防御だけで勝てると踏んでおいでか?」


 チ、と舌打ちして、佐久間は手を挙げようとする。が。


「天の雷光を落とすのはナシですよ。消し炭になるのはごめんです」


 頭上を鎌が薙ぎ払う。行動を読まれて、攻撃がすべて空振りになる。


「狗! 何をぐずぐずしておるか!」


 聖娘子が猩々を掃討し終え、こちらに近づく。


「私と代わるかえ?」


「ご冗談を!」


 玃猿の攻撃を回避しようとした、その時だった。


 ――助けて!


 脳裏に何かが響く。


「佐久間っ!!」


 響いたそれに気を取られた一瞬、鎌の形状から槍の形に変化したその刃を、まともに右上腕に受ける。


「――っ!!」


 衝撃をそのまま背後に受け、壁に激突した。槍は上腕を貫通、背中も強打し、口から吐血する。血のりをぬぐいもせず、佐久間は顔を上げる。


「どうしました、金毛犼どの?」


 余裕を見せて玃猿が笑う。


「なんの、この程度……」


 反撃をしなければ、と思った次の瞬間だった


 ――玄焔っ!!


 はっと眼を瞠り、直後、ただならぬことが起きたのだと察する。


「聖娘子!!」


 也子が厳しい顔のままこちらを見る。


 佐久間は叫んでいた。


「交替だっ!」


 (かく)(えん)(さと)(いとま)もあらばこそ。


 豪雨のように激しく水滴の落ちる音がした。


「己の腕を捨てて……?」


 辺り一面に飛び散った血の量は各所に血だまりを作るほど。


 その場にいた全員が気付いた時には、既に佐久間の姿はどこにもなかった。


「まさか、華緒に何かあったかえ……?」


 聖娘子はゆらり、と玃猿の前に立つ――。




 弼が振り返ったのとその斬撃が下されるのが同時だった。


「……っつ!」


 弼は自分の腕で防御し、その場を飛び退る。


「……えらくお早いお着きだね」


 爪にえぐられた傷を、長い舌で舐める。


「華緒」


 弼に構わず背を向け、佐久間は華緒に向き直った。


 涙と鼻水で顔を濡らしながら、その口に布を突っ込まれた一糸まとわぬ姿――。


 四肢を戒められた蛇を一瞬で焼き殺し、佐久間はその口から布を引っ張りだす。


 華緒が身に着けていた下着であろうことは見ただけで判った。


 ひどくせき込んでから、彼女は重たげに顔を上げた。


「せんぱ……」


 かすれるような声でそう言うなり、膝から崩れる華緒を抱いて、佐久間は押し殺した声を絞りだす。


「……華緒」


 自分の結界が(あだ)となったことは、その悲鳴を聞いた時に悟った。


 きつくその白い背を抱きしめて、その髪に口接(くちづ)ける。


 ――こんな目に遭わせて。


「すまない……華緒」


 華緒は自分の胸の中で無言で首を振った。


酷い目に遭わされたというのに、恨み言を口にしない。いや。


 ――口に出来ないほどの衝撃なのだろう。


「……お取込み中、悪いんだけど」


 弼が笑う。


「あんた来るの早すぎなんだよ。……嫌われるよ、早いの。最後までヤらせてくれりゃいいものをさあ」


 いいところで邪魔してくれたね、と弼はあどけない顔で苦笑する。


「……ということは、間に合ったんですね、僕は」


 座り込んだ華緒に自分のジャケットをそっと掛けて、佐久間は立ち上がる。


「名前をお聞きしましょうか。申し訳ないけど手加減できそうにないですから。一瞬でご登遐(とうか)されたら、後々素性を探るのが面倒でしょう」


 言うよねえ、と弼は嬉しそうに笑う。


「たかが(こう)の分際で。僕の気配にも気付かなかった癖に? 僕に勝てると思ってるんだ?」


 佐久間は言葉を発しない。


 ……自分でも驚くほどの憤りが体内で沸騰しているのがわかる。


「たとえどんな方でも、今なら即消滅させられそうですよ。ご心配なく」


 きゃは、と弼が手を叩いた。


「あんたやっぱりそこの小娘に惚れてるんだ? いいねえ、その憤怒の顔! いつもの取り澄ました顔が嘘みたいじゃないか!」


 しかも、と弼はうっとりと眼を細める。


「大怪我してんじゃないのさ。あーあ。そんな身体で、僕に勝つ気なんだ?」


 右腕の下には血溜りが出来ていた。


 右上肢は貫通した部分から横に裂けており、半ば()げそうになっている。


 槍を抜かず、力任せに自ら腕を引きちぎったせいだ。


「愛の力って素晴らしいね!」


 言うなり、弼は一瞬で間合いを詰める。


 懐に弼の顔。


「…僕、強いよ?」


 にい、と笑って。


 直後、衝撃が胸部を襲った。


                  ※※※


「なぜだ!!」


 (かく)(えん)の叫びが響く。


「なぜであろうの?」


 也子は無表情に首を傾げてみせた。


「なぜ読めぬ!!」


 狼狽した態で玃猿が長い腕を振るう。だがあっさりその攻撃が躱され、思いもよらぬ場所から聖娘子の刀が飛んでくる。


 ぎゃああと声が上がる。


「まずは一本」


 シャラン、と簪が鳴る。


 地面に縫いとめられたのは、(かく)(えん)の右足の甲。


 とっさに引き抜こうとした玃猿の右手首を一閃した刃が切り落とす。


「二本目」


 血しぶきを上げながら、玃猿が(わめ)く。くい、と聖娘子が差し招く。


 縫いとめられていた細身の刀は自ら主人の手元へと戻っていく。


「……()(とう)か」


「ばーじょんあっぷ、じゃ」


 澄ました顔で也子は両手の刀を構えた。


「おのれ、なぜお前の思考が読めん!」


 左手で右を庇う玃猿に、也子は笑った。


「そなたら沐猴(もっこう)は知らぬだろうが、狐には九魂九魄あっての」


 ヒトには三魂七魄(さんこんしちはく)だがの、と也子は隅の緒方と和歌子に眼を遣る。そして、再び玃猿を見据えた。


「私はその魂魄を自在に操れる」


 ふわ、と聖娘子の周囲に七つの白い光が浮く。丸い、発光体だ。


「己の魂魄を外に出せば、そこには思考など出来ぬ自動人形。……人形の思考は読まれぬだろうのう?」


 玃猿は眼を瞠る。 


 光はゆっくりと聖娘子の中に戻っていく。


「魂魄の分割、しかも操作など……」


 信じられない、と玃猿は汗を滴らせる。也子が哄笑した。


「今見たであろ? 付け加えるならば、私の魂魄はすべてそろってはおらぬ」


 ちらり、と緒方の方を気にした風で、しかし也子は笑みを崩さない。


「魂魄すべてを使う必要などない。今ある魂魄だけでも十分すぎる相手だ、お前は」


 也子は手元を閃かせる。


 ぎゃあああ、という声とともに、玃猿の左腕が付け根から落ちる。


「三本目。和歌子への仕打ちを考えれば、ダルマはおろか、寸刻みに刻んでいきたいところじゃが」


 放心した状態の和歌子を見て、也子は表情を改める。


「回答次第では四本目を残してやっても良い。此度の貴様の嫁探しは、そなたら猿らのみの仕業かえ?」


 猩々・狒々・玃猿。猿の眷属ばかりで企んだことだと想像はつく。だが。


領袖(りょうしゅう)は誰だ……?」


 佐久間は自分の腕を犠牲にして、消えた。


 あの矜持の塊が眼の前の敵をあっさりと也子に譲って、だ。


「狗の結界はそこらの妖怪に破れなどせぬ。だがそれが破られた」


 狗の鼻に匂わぬほどの、妖怪。


 それはおそらく上位のモノ――。


「そなた独りの企みで和歌子と華緒を陥れたわけではあるまい。……さあ言え、(はる)か上空の鷹鸇(ようせん)の名を!」


「……口を割ると思ってか!」


 うおおおお、と叫びながら、玃猿は聖娘子ではなく、和歌子の方へ突進する。


 和歌子の顔が恐怖にひきつる。


「急急如律令」


 突如、上空から踊るように札が降った。


「――(えん)


 和歌子を庇った緒方はその言葉を口にする。


 札が触れた瞬間、玃猿の全身は青い(ほのお)に包まれた。


「……なん、くん」


 のたうちながら、焔の中で、天に手首のない黒い右手を伸ばす。


 也子が右手を振り下ろす。


 一瞬で、(かく)(えん)の姿と焔が掻き消え、後には一握りの炭が残った。


「……でかしたぞ、知世」


 札の使用には気力と体力を消耗する。肩で息をしながら、緒方が也子を見上げた。


「聖娘子、黒田が」


 也子は厳しい顔で頷き、玃猿だった炭を睨む。


「まさか……『難訓(なんくん)』ではあるまいな」


 知世、和歌子を連れて来ゃ、と聖娘子は(きびす)を返す。


「……(いぬ)は死んでおるかも知れぬの」


 急ぐぞ、と彼女は走りだした。




 ――強い。


 膝をついて、先輩は肩で息をしていた。


「いいザマだね、犼。惚れた女の前で、それはなかなか良い恰好だよ」


 あの衝撃だ、肋骨は折れているだろう。自由な左手がさっきからずっと胸を押さえている。


 右腕は最初から使えない。今も血が滴り続ける。ありえないほどの大怪我だ。


 だが、先輩は荒い息をしながら、顔を上げる――見たこともないほどの、怒りの表情で。


「……まだ、そんな眼出来るんだ?」


 感心したように弼が言う。


「よっぽど好きなんだ、あの小娘のこと」


 先輩は返事をせずに、次の瞬間、跳躍する。


 弼は容易にそれを(かわ)し、振り向きざま、お互いの爪がぎりぎりと拮抗しあう。


「さっさとモノにしとけば良かったよ。そうすれば、さらに怒り狂ったお前が見られただろうに」


 均衡を保った爪同士の下で、折れた肋骨めがけて弼が強く蹴りを入れる。


「がっ!」


 たまらず、先輩が退く。だがその機を逃さず、弼が更に飛びかかった。


 のしかかってくる少年を足で防ぎながら、先輩は唇を噛む。


 嬉しそうに弼がその顔を寄せて囁いた。


「殺さないよ~。手足を()いで、動けなくしてから、ゆっくりとお前の大事な女を犯してやろう。おまえの鼻先でな」


 無力さを呪い、悔しさと憤りを僕に見せておくれ、とうっとりとした表情で言う。


「華緒に手出しは……させない」


 そうそれ、と無邪気な子供が喜ぶように、弼は眼を細める。


「その眼! ぞくぞくするよね! その眼は僕が()り貫いて大事にしてあげるからね」


 飽きるまでは、とつぶやいて弼は右手を上げる。


 爪はしゅるりと形状を変えて、一本の大きな刃になった。


「もう取れちゃいそうな右手から行こう。どうせ捥いじゃうだろ?」


「やめてー!」


 私の渾身の叫びは、だが弼の一瞥を誘っただけだった。


「力のないものは黙ってろ。おまえには何の価値もない」


 僕が興味をひかれるのは、この獣だけだよ、と弼は嬉しそうにその腕を振り上げる。


「やめてー!!」


 直後。どん、という衝撃とともに土煙があがる。


 吹き飛ばされた弼は、二百メートル先のベンチから頭を振って立ち上がる。


「……おや」 


 土煙の引いた後に現れたのは、冷たい眼をした也子で。


「まだ生きておったか、狗」


 そう一言、告げた。


                   ※※※

「華緒!」


 遠くから走ってくるのは、緒方と和歌子ちゃんだ。


 途中で立ちすくんだ緒方に構わず、和歌子ちゃんが私に抱きついた。


「ごめん、華緒ごめん。……私が、騙されてたばっかりに」


 和歌子ちゃんは私を抱きしめる。


 佐久間先輩に襲いかかった青山弼を見て、和歌子ちゃんはそこで初めて呪縛がけた、と言う。


 ――眼の前で殺されたはずの青山弼は、人ではない。


 この事実が皮肉にも心の深淵に飛び込もうとした和歌子ちゃんを救ったのだ。


「私もごめん。ごめんね、和歌子ちゃん、ひどい目に遭ったんでしょう」


「あんた、自分を見て言ってるの、それ」


 お互いに顔を見て笑い、そしてまた泣き崩れた。


「黒田」


 真っ赤な顔をして、緒方が自分のブレザーを差し出す。


「これも」


 自分が全裸に先輩のジャケットだけを掛けていることに気付いて、赤面する。


「……ありがとう」


 ――でもどうしたらいいんだ、これ。


「華緒」


 遠くから也子が何かを放って寄越した。緒方が取りに行く。


「……着ろ」


 差し出されたのは、制服だった。


「なぜ……あ」


 そこにはすでに也子の姿ではなく、本来の聖娘子の姿に戻った聖さんがいた。


 白い、仙女のような細身の着物。


「……聖さん」


 その横顔には珍しく緊張が現れている。


 ――先輩と聖さんが初めて会ったときのよう。


 也子の姿では戦えないと判断したのだろうか。


「あーあ、ぞろぞろとお仲間が来ちゃったねえ」


 弼は面白くなさそうに歩いてくる。


「和歌子先輩がいるってことは、(かく)はやられちゃったのかな。だらしない」


 びくっと身を震わせて、和歌子ちゃんがその言葉に反応する。


「せっかく、僕、和歌子先輩にびっくりどっきりショーを仕掛けてあげたのに。面白かったでしょ」


 にっこり笑う弼が恐ろしいのは、ここにいる全員の共通意識だ。


 狗、と聖さんは佐久間先輩を呼んだ。


「まだいけるかえ?」


「……ご心配なく」


 ぺっと血を吐き出して、佐久間先輩が身を起こす。


「僕が手負いだから言うわけではないですが、強いですよ。油断なく」


 さもあろう、と聖さんが頷く。


難訓(なんくん)だと、(かく)(えん)が申しておったわ」


 ぎょっとした顔で先輩が聖さんを振り返る。弼が笑った。


「あらら、バレちゃったかあ。ま、別にいいけど」  


 言うなり、弼が跳躍する。


「行くぞ、狗!」


 聖さんと先輩は同時にその場を飛び退る。


「難訓って……」


 難読漢字? 首を傾げた私と和歌子ちゃんに、緒方が呆然とつぶやいた。


「四凶のひとりだ」


「シキョウ?」


 緒方は息を吐く。


「黄帝の曾孫(そうそん)顓頊(せんぎょく)の不才の子、檮杌(とうこつ)。形は虎、毛は犬、人の顔、猪の牙を持つという伝説の妖怪だ。字を難訓(なんくん)善言(ぜんげん)を聞き入れず、決して教育出来ないということで名付けられた」


 ――ものすごく、納得できる。


 あいつ、(ゆが)んでるもの!


「神代の時代から生きている、手の付けられない妖怪たちの中でもとりわけ残忍なのが四凶だと言われている。厄介だな」


 不安に駆られて先輩を見る。


「上位も上位。全然、佐久間なんかより妖力もある。鬼雛に興味はないとは思うが」


 ――いえ、私の身体を狙ってます、とは口が裂けても言えない!


「……華緒」


 和歌子ちゃんが手を握ってくれる。


「大丈夫。ひーさんもいる」


 自分の手が震えていることに気付く。


「祈ろう」


 和歌子ちゃんが真剣な顔で言う。緒方も頷く。


「……俺らには太刀打ちできる術はない。あの二人が負けたら、終わりだ」


 ――鬼雛も、この世界も。


 涙で滲む眼を凝らした。弼と戦う二人の影。


 ――歪んでるのは私の方だ。


 震える手が、恐怖からじゃないなんて。


 ――あの二人が協力して戦っているのが、嬉しくて泣くなんて。


「華緒、大丈夫よ」


 和歌子ちゃんの言葉に何度も頷く。涙が頬を転がっていく。



 飛び退った瞬間に、肋骨が(きし)んだ。


「っつ……!」


 長距離を跳躍できない。着地のタイミングに、左手で思わず胸を押さえる。


「避けろ!」


 はっと顔をあげると、弼が長い爪を躍らせて飛びかかってくるところだった。


「……ありゃ」


 弼の爪が地面を噛む。聖娘子の放った刀の柄が、佐久間を突き飛ばしたのだ。


「……世話の焼ける」


 聖娘子の舌打ちに佐久間は苦笑する間もない。すぐにまた飛び退る。


 直後、聖娘子が刀を放つ。


 だがあっさりと避けられ、逆に聖娘子に向かって弼が躍りかかった。佐久間は指を伸ばす。


「璿璣」


 呼んだ瞬間に、強風が自分を支える。


「……(いた)んでますが、もうしばらく、この身体が保てば」


 ゆっくりと掌を天に向ける。


天許(てんきょ)――(ライ)


 だが、弼は聖娘子と戦いながら振り返ってにやりと笑う。


「甘い」


 轟音とともにその光はまっすぐに弼を貫いたはずだった。だが。


「――そんな」


 佐久間は瞠目(どうもく)する。


「言ったじゃん。僕、強いよって」


 ぼんやりと弼は光っている。雷光を吸収したのだと悟った。


「そんなことが……まさか」


「絶望した? ねえ、絶望した?」


 わくわくするような声に、聖娘子が刀を繰り出す。


「おしゃべりな男よ!」


「うっさいな大姑(おばはん)


 手をかざし、次の瞬間、聖娘子は吹っ飛ばされ、植え込みの中の木に背中から激突する。


 ゆっくりと嫌な音を立てて木が折れていく。


 四凶の一角、檮杌(とうこつ)


 その存在感と力は、噂に違わぬものだ。


 佐久間は小さく笑った。


「これは確かに、誤算でしたね……」


 最初は自分の失態に激怒していた。


 華緒を結界に残したのも、青山弼の気配に気付かなかったのも。


 上位妖怪ならいざしらず、と高をくくっていたことは否めない。


 ――まさか相手が檮杌だったとは。


「さあ、そろそろクライマックスかな」


「……そうですか、と答えるとでも?」


 佐久間は笑う。


「おや、諦めないの? こんなに力の差があるのに?」


 満身創痍の佐久間と聖娘子に比べて、弼は涼しい顔をしている。ほとんど傷もない。


「諦めるわけないでしょう」


 ――諦めたら、そこで華緒は殺される。


 檮杌は鬼雛に興味はないという。ならば、華緒が殺されることは、本来、悪いことではないのかもしれない。消滅さえすれば、鬼雛を守る大義名分はなくなるのだから。


 ――違う。


 佐久間の中で何かが声を上げる。


 ――華緒は殺させない。


「そうだ、殺させない……」


 檮杌が鬼雛を吸収しないという保証はない。


 守ると誓った。命に代えても。


 ――それが自分の役目だから。


「麗しい愛情だね。それとも、お役目大事なのかな?」


 楽しそうに弼は眼を輝かせる。手のひらをこちらに向けた。


「でも僕は思い通りにならないモノは要らないからね」


 ばん、と音がして、右の耳が爆音を拾う。


「ああああっ…!」


 激しい痛みが全身を貫いた。


「先輩っ……!」


「華緒、やめて」


 駆け出そうとする華緒の声と、押しとどめる声と。


 ――もはや声だけしか、拾えないほどの。


「右腕、取れちゃったね」


 嬉しそうに弼が微笑む。思わず左手で傷口をきつく押さえた。


「……邪魔だったものですから。好都合ですよ」


 負け惜しみだと判るほどかすれた声が、自分のものだとは最初わからなかった。


 痛みに歯を食いしばり、顔をあげる。


 視界に、涙で顔をくしゃくしゃにした少女を捉えた。


 ――華緒。


「結界まだ保ってるね。すごいな。その辺の人間を巻き添えにしないようにって、お優しい君は頑張ってるんだろうけど。次はさすがにその余力はないだろうね」


 二本目いっとこうか、と弼は笑う。


「そうはさせるかえ!」


 聖娘子の攻撃が始まる。だが、弼は余裕の表情を崩さない。


大姑(おばさん)の相手してる暇はないの」


 弼は手のひらを刃に変化させて、聖娘子を追い詰めていく。


「ああっ!」


 聖娘子の手から二本の刀が吹き飛んだ。


「チェックメイト」


 喉元に突きつけられる刃。


 佐久間はうずくまり、次の瞬間、跳躍する。


 その姿に後ろから璿璣が従う。


「檮杌っ!」


 爪がかかる一瞬。


「……かかったね」


 嬉しそうな弼の声に眼を瞠る。


 

 ――下方から、さきほどの雷に似た光が放たれたのを認識した。



「もうやめて……」


 その轟音に、私は瞬きすることも忘れていた。


 聖さんに刃を突き付けていた弼へと、先輩は飛んだ。璿璣が背後から援護していた。


 その首元を自分の爪で掻き切るつもりだったのだろう。


 左腕を構えた、その時。


 弼は振り返った。禍々(まがまが)しい笑顔だった。


 直後、その場が爆発した。


「……どうして」


 涙が止まらない。


 血まみれで聖さんが倒れている。うつ伏せだ。その近くで無残な布切れが転がっている。


「璿……」


 爆煙が風に乗ってひくと、そこに現れたのは、弼だった。


 ゆっくりした動作で、それに近づく。


「これでもまだ結界を保つなんて、たいした根性だよ、(こう)


 しゃがみこみ、その髪の毛を掴んで掲げた。


「先輩……」


 されるがままになっている先輩は、頭から血を被ったようなありさまだ。


「約束通り、左腕ももらうよ」


 先輩は意識を失っているのか、ぴくりとも動かない。


「やめろ……!」


「っ緒方!」


 駆け出した緒方をちらりと弼は見て、興味なさそうに顔を戻す。


「うわあ!」


 緒方の前に突如大きな穴が開き、緒方がそこへと落下する。


「緒方っ!」


 走り寄った私と和歌子ちゃんは、一メートルくらいの穴の中に落ちている緒方に声をかける。(うめ)きながら立ち上がろうとしている。命に別状はなさそうだった。


 けれど。


「華緒、私が守るから……あ」


 札を構えた和歌子ちゃんが、いきなり横倒しに倒れた。


「わ、和歌子ちゃんっ!!」


(うるさ)いよ、和歌子先輩」 


 弼はくすくすと笑う。


「ねえ黒田先輩。……全部あなたのせいでこうなっているの、判っているよね」


 弼は佐久間先輩の髪の毛を掴んで、引きずりながらこちらへ歩いてくる。


「目の前で(こう)をダルマにしてあげる。そうしないとわからないでしょ?」


 ――あなたはバカだから。


 私は逃げることも忘れて、そこに突っ立っていた。


 弼は眼の前で立ち止まる。


「どうして?」


「――どうして?」


 弼は首を傾げる。


「言ったよね、僕、あなたが嫌いなの」


 ちらり、と先輩に視線(眼)を遣る。


「この獣が惚れている女。でもなんの魅力もない女。鬼雛が飛び込んだという僥倖ひとつで、デカイ顔して。守られているのが当たり前の顔をして。楽しいね。そういうヤツをめちゃくちゃにしてやるのが、僕の趣味なの」


 でもほんとは、と弼は色っぽい眼差しで息を吐く。


「この獣の、動揺するさまを見てみたい。惚れた女の苦悶を見せつけて、この男の顔が歪むさまを見てみたい」


「……変態」


 涙を抑えられないまま、私は眼の前の少年を睨みつける。


 上等、と弼は笑う。


「力のないものに語る正義はないんだよ、黒田先輩。獣は、身体で覚えさせなくちゃわからないから。だから」


 もう一つの手で、先輩の左腕を掴んで、吊り上げた。


「さあ悔しがってごらん。怒ってごらん。この男の四肢(しし)()がれていくさまを眺めながらね」


 ……えん。


 誰かが縋るように泣いている。私だろうか。


 ――えん、玄焔。


 涙に歪む景色の中で、華緒、という小さな声が聞こえる。


「先輩……?」


 腕一本で吊り上げられながら、先輩が薄くその眼を開く。


「……逃げて、華緒」

 

 ――それが、引鉄(ひきがね)となった。


                  ※※※


 ――それは、望めば手の届くところにあったのに。


 私は何を我慢していたのだろう。


 ――誰かが泣きじゃくっている。


 押さえこんで、いないものとして扱って。忌避し、嫌悪し、憎んで、存在を抹消してきた。


 ――でも、これも私なのかもしれない。


 血肉を分け与えた、もう一人の私。


 ――焰、玄焔。


 泣きぬれた声が聞こえる。


 ――助けたいの……玄焰。


 私もだよ、と泣きながら頷く。


 もっと早くにこうしていればよかった。


 ――大切なものを守るためなら、私たちは……。


                 ※※※

 頬に砂礫が当たる。


 気が付いた時、聖が真っ先に()いだのは血の匂いだった。


「いったい、これは」


 空は曇天の中に夕陽の(だいだい)が混じる。風は嵐の前兆のような不吉さを孕んで、片っ端からいろんなものをなぎ倒していく。


 倒されたのだろうか、見れば倒れている人影の中に、佐久間がいる。和歌子がいる。緒方の姿は見えなかったが、彼が無事だとは考えにくかった。


 聖は痛む身体を起こす。どのくらい気を失っていたのか。


「檮杌は……」


 立っているものはない。――いや。


 眼を凝らした先に、ふたつの影。


「……華緒、かえ?」


                ※※※


 気付けば、自分の左手が、弼の胸倉をつかんでいた。


「……お、のれ」


 足をばたつかせながら、苦しそうに弼が手のひらをこちらへ向ける。


中心に光が集まり始めるのを、私はぼんやりと見ていた。


「消し飛べ!」


 放たれた光は、温い。冷えた身体がぬくもりを吸収するかのように、身体がその光を取り込んだのが分かった。


「そんな!」


 驚愕に顔を歪める弼に、私は空いた右手を持ち上げる。


「和歌子ちゃんの分」


 ばしん、とその頬を勢いよく叩いたら、弼は制服の胸元だけを左手に残して吹き飛んで行った。


 私はそのまま弼の飛ばされた方向へと早歩きで到着する。逃げようとする足を掴んだ。


「これは緒方の分」


 そのまま拳を腹にめり込ませると、弼が口から何かを吐いた。


「聖さんの分」


 足を持ったまま、地面にたたきつける。


「……貴様」


 さすがに額から血を流して、弼が起き上がろうとする。私は手を離して、立ち上がる弼を睨み据えた。


「悪い子にはお仕置きよ。獣は、身体で覚えさせなくちゃわからない、でしょ」


 鋭い爪を刀に変化させて、弼が突進してくる。


「死ね!」


「……先輩の分」


 私の左手は弼の刃をまともに受け止め、だが私の右拳は突進してくる弼の顔面にめりこんでいた。


 弼が膝から崩れ落ちる。


「腕から捥いでやろうか」


 血の流れる自分の左手を舐めてから、その刃を引き抜くと、私は戦意を喪失した弼の細い首に手を掛けた。


 ――先輩の苦しみをその身に返してやろうか。


「殺してやる……」


「……華緒!」


 呼ばれて顔を上げた。


「おやめ、華緒。檮杌を殺すと、辺りに疫病が蔓延するぞえ」


 ぱ、と私はそのとたん手を離した。どさり、と檮杌が落ちる。


「……華緒、なのか?」


 近寄ってきた聖さんは怪訝そうに私を見る。


 私は茫洋とした頭で頷いた。


「たぶん。……たぶん、まだ一緒にいる」


「一緒に?」


 いま、私たちはひとつだ。だが。


「あ、もう離れる……?」


 私はその場にしゃがみ込む。


 気配が急速に遠のいていく。


 ――ありがとう、華緒。


 微かに聞こえるのは、まぎれもなく自分の声。


「……ありがとう鬼雛」


 幸せな気持ちで微笑んで――。


 そのまま気を失った。


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