【3】 終章
終章
遊園地からどうやって戻ったのか、私はよく覚えていない。
気が付いたら、先輩のマンションの自分の部屋に寝かされていた。
「華緒」
一度眼を開けたら、先輩の顔があった。心配そうな顔で覗き込んでいる。
その顔を見て、ほっとしてまた寝てしまったけれど、次に起きたら先輩はいなかった。
「先輩……」
頭を起こすと、ガンガンした。頭痛。頭を振って、無理やり立ち上がる。
「……先輩?」
キッチンにもリビングにも誰の気配もない。
諦めて、私は戻ろうと部屋のドアのノブに手を掛ける。
「華緒」
背後から抱きしめられた。
――左腕だけで。
衝撃に、息が止まった。
――やっぱり。
あれは夢でも幻覚でもなかったのだ。こみあげてくるものを抑えきれない。
「華緒……泣いてるの」
ずるずるとその場にしゃがみ込んでしまう私に付き合って、背後の先輩も座り込む気配がした。
「顔をあげて。華緒?」
「ごめんなさい」
バカみたいにその言葉を繰り返した。
――私のせいだ。
「華緒、いいからこっちを向いて」
廊下に座っている私を、自分の方に向き直らせる。
「ほら、ちゃんと見て、華緒」
先輩の言葉に、泣きじゃくっていた顔をあげる。そのまま眼を瞠った。
「腕が……」
右腕はそこに存在していた。三角巾に吊られた状態ではあったけれど。
「ごめんね。まだ妖力が回復していなくて、くっつくのに時間がかかるんだよ」
苦笑した先輩の顔に思わず声をあげる。
「よかった!」
たまらず、その首に抱きついた。
先輩が驚いたように身じろぎする。
「……大胆だね、華緒。いいけどここでも」
とっさに言われて慌てて離れる。先輩が苦笑した。
「離れることないのに。今さらでしょう?」
……そりゃ、全裸を見られてますし、今さらっちゃ今さらですけど。
――でもそこは乙女の矜持が!
そっと先輩は私の頬に手を添えた。
「本当に、すみません」
何を謝られているのか、一瞬理解し損ねて、きょとんとした。
先輩は眉を寄せる。
「僕の失態でした。……檮杌にあんな目に」
濁されて、私は赤面する。頬に落ちる髪を、左耳にかけた。
――あの姿は、見てほしくなかったけど。
「でも……」
「でも?」
私は顔を上げる。
「嬉しかったです。先輩、ちゃんと来てくれて」
もうだめだと思った。どうしようもないと、一度は覚悟したけれど。
「間に合ってくれて」
抱きしめられた時の安堵感は、とても言葉では言い尽くせない。
「ありがとうございました」
言ったとたん、また抱きしめられた。
「本当に、すまなかった」
いいんです、と私は笑った。
暖かな胸に頬を当てていると、あの時のような安堵感が包み込む。
不意に体を離して、先輩はじっと私を見つめた。
「……なんですか?」
「……綺麗でしたよ、華緒。とても」
顔から火が出るとはこのことだ!
「反芻しないでください!」
「どうして逃げるのかな」
「逃げますよ!」
第一次防衛線のドアはあっさりと突破され、私を追って先輩はベッドまで迫ってくる。
先輩は怪我人とはとても思えない力強さで、そのまま私をベッドに押し倒した。
「ちょっと、先輩!」
「華緒」
至近距離の先輩は真剣なまなざしだ。
ちくしょ、やっぱり何度見てもカッコいい……。
「大丈夫?」
何がと聞こうとして、私は気づく。
「先輩……」
「聖娘子に訊いた。檮杌を倒したのは、鬼雛だね」
――私の中に泣いている女の子がいた。
姿は見えなかったけれど。
その声は明るくて、でも寂しそうで。
でも先輩が檮杌に嬲られている間、ずっと泣いていた。
――玄焰、とただ名前を呼んで泣きじゃくって。
――助けたい、と。
「先輩」
私は下から先輩の眼を見つめる。
「今は鬼雛はいません。どこかへ行っちゃった……でも呼べばきっと出てきてくれます」
確信があった。気配はないけど、間違いなく私の中に彼女はいる。
――そう、彼女、だ。
「大事な人を守る力だというなら、私は受け入れたい」
――もう二度と、誰もあんな目に遭わせたくない。
「暴走はさせません……だめでしょうか?」
先輩は何も言わず、ゆっくりと顔を近づける。
私の頬に優しく口接けた。
頬に、耳朶に。首に、鎖骨に……て、おいちょっと待て。
「せせせ先輩!?」
「黙って、華緒」
先輩は自由になる左手で私のパジャマのボタンを器用に外す。
「ちょっと、何してんですか!」
「檮杌に付けられたキスマークはどれでしたっけ」
先輩は私の上に馬乗りになって、自分の首元のタイを緩める。
冷たい眼が、私を見下ろす。
「言いましたよね、自分のモノにちょっかいを出されるのは不愉快だと」
「でもあれは不可抗」
「問答無用」
ばたばたと足をばたつかせながら、だがしっかり首筋に吸い付かれて、あられもない悲鳴を上げていると。
チャイムの音がした。
「……華緒―!」
和歌子ちゃんの声だ。
悔しそうな先輩を力ずくで退かせて、私は慌てて玄関に出る。
「……華緒、今日から学校に行けそうかもってきい……って」
わなわなと和歌子ちゃんが震える。バタンとドアが閉じられる。
「華緒、今すぐ制服に着替えておいで! 待ってるから」
間抜けにも首を傾げて部屋に戻って、私は再度悲鳴をあげた!
「先輩! ちょっとまたキスマーク!!」
「今日は寒いですから、マフラーして行けばいいですよ、華緒」
先輩は澄まして、自分だけ珈琲を飲んでいた。
「このエロ妖怪!」
捨て台詞を吐いて部屋に戻る私の耳に、心底楽しそうな笑い声が聞こえた。
――その声がひどく嬉しくて。
自分の気持ちが理解できず、眉を顰めた。
※※※
マフラーを巻いて出てきた私に、和歌子ちゃんはあからさまにほっとした顔をした。
「あれから一週間も華緒は寝てたんだよ」
ほんと、と私は驚く。思わず後ろを歩く先輩を見上げた。
「そうなんですか?」
「……ええ。昨日まで昏々と眠っていました。一度、眼を開けましたけどね。よほど体力を消耗したのでしょう」
あれは昨日の朝だったのか、と私は不思議な気がした。てっきり起きる少し前かと思っていたのに。
「鬼雛との癒着は華緒の気も損じたのであろうよ」
也子は静かに言う。
「聖さん、ありがとうございました。いろいろ助けてくれて」
なんの、と也子は眼を細めて笑う。
「今回は私こそ華緒に助けられたようなもの。……ただ気がかりがないでもないが」
ちらり、と也子は佐久間先輩を見る。先輩は少しだけその顔に陰を落としていた。
――どうしたんだろう。
「ねえ、それより、あの後、檮杌はどうし」
「おっはよー!」
緒方が顔に手を当てる。おそるおそる私は後ろを振り返ると。
「げ」
――そこに青山弼がいるではないですか!!
「あのな、黒田。……話すと長くなるんだが」
「ええい、寄るな化け物! 私と華緒に近づくんじゃないわよ!」
毛を逆立てた猫のような嫌悪感を丸出しにして、和歌子ちゃんが噛みつく。
ひどいなーと寂しそうに弼がこぼす。
――いや、絶対にひどくないから。
見た目少年だからって、しおらしげに上目遣いとかするな!
「なんで……いったいどうして」
「……気に入ったんだとさ、おまえが」
「はあああ!?」
何言ってんのバカじゃないの! と私は往来だということも忘れて怒鳴った。
「あんた、私や先輩に何しようとしたのか判ってんの!? だいたい、あんた、あんた私を」
「あ、犯そうとしたこと?」
その言葉に全員が凍り付く。屈託なく弼は笑う。
「いいじゃん、別に。結果として華緒はまだ処女なんだし」
「華緒って呼ぶな!!」
「いいじゃん、和歌子先輩。ほら、緒方先輩も目くじらたてなーい。ふふ、さすがに大物妖怪ふたりは冷静だねえ」
「……今すぐ殺してやりたいですが」
「右に同じじゃが」
冷え冷えと殺気が漂うが、君らじゃ出来ないよねーと、小憎たらしさは相変わらずで。
「あのね華緒。……僕、華緒に謝ろうと思ってたんだ」
もじもじしながら弼は私に身を寄せる。
「近寄るな! 変態!」
私が怒鳴るのは無理ないことだと思って欲しい。しかし弼は完全に無視だ。
「君は無価値じゃなかった。君の拳で、僕は眼が覚めたんだよ」
ざっと一瞬にして鳥肌が立つ。
「あんた、ドМなの!?」
「そうかもしんない。親父にも殴られたことなかったから」
どこのお坊ちゃんパイロットだおまえは!
檮杌を殴れるものなどいないでしょうに、と呆れた声で先輩が呟く。
――本人、完全に聞こえないふりだが。
「それにね」
弼はにっこりと邪気のない笑顔で笑う。
「今後、僕、近くにいた方が絶対にいいと思うよ」
「思えません!!」
全員がハモった。
「もう絶対に私の近くに寄らないで! さっさと離れて!」
はーい、とつまらなさそうに弼は歩いていって、それから振り返る。
「玃猿の嫁探しに乗っかったちゃったのは悪かったとは(ちょっとは)思ってるけど、華緒に出会えたことは僕にとっては僥倖だったよ」
ちょっとは、って小声で足したか、今!
「華緒の処女は僕が貰うからね」
「あげません!」
あれ、今、私以外に三人くらいが叫ばなかったか……?
「華緒、ピンチになったら僕を呼ぶんだよ。僕、珠罕って言うんだー!」
ぶんぶんと両手を振って、走っていく。
「……あっさり諱(本名)乗りやがった」
呆然として緒方が言う。
「難訓って本名じゃなかったの緒方?」
「だからあれは字で」
「本名って呼べばくるっていうモノなの?」
なんでこんなにバカなんだ、と緒方がため息をつく。
「あのな! 妖怪にとって名ってのはすごーく大事なものなの! 下位の者が呼べば、それだけで罪として殺されるくらいの、とんでもないものなんだぞ! だから通常は殺し合いの場でしか使わないだろうが!」
……力説の意味が若干伝わらないのですが。
「でも先輩の名前はみんな知ってるよね」
「……だから誰も呼ばないんじゃないか、バカ」
いいですよ、華緒にならいくら呼ばれても、と先輩が顔を近づける。
「ここは公共の場」
和歌子ちゃんが間に入ってくれて、こわごわ緒方を見るとものすごい仏頂面になっていた。
――怖いな。
「華緒」
呼ばれて和歌子ちゃんを見ると、彼女は真剣な顔になっている。
――すみません、バカップル的な指導、入りますか?
「華緒、もう一度言う。信じてね。あいつに何を吹き込まれたか知らないけど。私はあんたと一緒にいる自分を、一度も悔いたことはないわよ」
これからも、と強く断言する。
「和歌子ちゃん……」
感動して、涙が滲む。
――自分に自信がなかったから。
和歌子ちゃんの言葉を、どこかで疑っていた。
そこを弼に付け込まれたのだろうけど。
――もう決して迷わない。
「私の方こそ」
「俺を外すな」
「……仲良しごっこかえ?」
「ひーさんも入るのよ! ほら、あんたも!」
和歌子ちゃんは也子と佐久間の手を掴む。
「チーム鬼雛よ!」
晴れ晴れとした和歌子ちゃん声に突き上げられた拳に(数名の失笑入り)、私も思い切り両拳で参加した、その時だった。
「あれ……璿璣?」
真っ青な空に、黒い染みが見える。鳥だ。大きい。
「いえ、璿璣はまだ療養中……」
眼を凝らしていた先輩の顔色がみるみる変わる。
「あれは……玉衡」
「玉衡?」
「――鴆じゃな、あれも」
也子の言葉に、先輩は足を止めた。
「先輩?」
「――華緒」
先輩は真剣な顔で私を見つめる。
「今日は休みます。あなたは学校へ行きなさい」
「……? はい」
訳も分からず頷く。
「そういえば、華緒、順位見て驚くわよ」
嬉しそうに和歌子ちゃんたちが歩みを進める先で、私はなんだか胸騒ぎがして、もう一度振り返った。
佐久間先輩は、微動だにせず、私を見つめて立っている。
――華緒。
声なき声に、強く名を呼ばれた気がした。
なんだろう。
今離れてはいけない気がする。
――この距離こそが、大きな岐路であったことを知るのは、もう少し先のこと。
後ろ髪をひかれる思いで、それでも踵を返し、私は和歌子ちゃんたちの元へと走り出した。
【見鬼眼3】 了




