第四話
曽根と交際を始めて一年が経とうとしたとき、突然生理が止まった。それから二ヶ月経って、不安に耐えられなくなった奈津は、まず曽根に相談した。顔だけは真面目に、彼は話を聞いてくれたが、どこかひとごとのような態度だった。もし奈津が妊娠していたなら、父親は曽根以外ありえないのに……。
そしてそれを境に、彼の態度は変わっていった。奈津を、あからさまに避けるようになったのだ。
妊娠をきっかけに、相手を疎ましく思うようになる。よくある話だ。つまり曽根は、奈津との将来のことなど、少しも考えていなかったのだろう。
――こんな状態で本当に妊娠しているとしたら、自分はどうするべきなのか。
無理矢理にでも責任を取ってもらって、曽根と結婚する?
一人で産み、育てる?
それとも――?
第三の選択肢を思い、奈津はゾッとした。
子供は好きだし、母親になる日を夢見ていたのに、どうしてこんな恐ろしいことを考えてしまうんだろう。
病院に行くのも、検査薬を使うことも、嫌だった。妊娠しているとはっきり確定されるのが、怖かったのだ。
その間も奈津はきっちり働いていたが、精神状態の不調は外見にも表れるものだ。顔がやつれ、げっそりと痩せていく彼女を見兼ねて、同僚の琴美が相談役を買って出た。
琴美は、奈津と曽根のことや、それ以外の社内の事情にも通じている。一人で悩みを抱えていることに疲れた奈津は、泣きながら全てを話した。
「曽根が逃げてる?なにそれ、サイテー!」
噂好きではあるが、琴美は正義感溢れる頼もしい女性である。奈津のために、本気で怒ってくれた。
しかし。
「あたしがとっちめてやる!絶対責任取らせるから!」
背後に炎が見えそうなほど昂ぶっている彼女を見て、奈津は後悔した。絶対に大事になってしまう。奈津は必死に琴美を宥め、何とか落ち着かせた。愛情なんて尽きた曽根を、結果的に庇うような形になったのは、我ながら滑稽だった。
そんなことがあった翌日は、いつにも増して体調が優れなかった。
おなかが痛い。吐き気がする。これがいわゆる「つわり」かもしれないと思うと、恐怖が募った。
それでも何とか仕事をしていると、琴美が大慌てでやってきた。
「奈津ちゃん!曽根くん、会社辞めるんだって!」
「――え?」
あの人は、逃げる、つもり、なのか。
目の前が、真っ暗になった。
その日の終業時間後、琴美は曽根を普段から人気のない倉庫へ呼び出した。もちろん詳しい事情を確かめるためだ。奈津もその場に同席したが、口を挟む必要はなかった。怒り狂った琴美が、曽根を散々締め上げてくれたからだ。
「やだなあ、そんな興奮しないでよ。
俺さ、実は、学生時代から付き合ってる子がいるんだ。実家のあるN市の、まあ地元の子なんだけどね」
「何それ!二股だったってこと!?」
琴美が噛み付くように問い詰めると、曽根はへらへら笑って頷いた。
罪悪感を微塵も感じていないのか、悪びれず平気な顔で笑っている彼が、同じ人間とは思えない。
こんな人だっただろうか。奈津は呆然となった。
そして、自分のお腹には、こんな男の子供がいるかもしれないのだ――。
「でさあ、今度その彼女と結婚して、その子の家がやってる仕事を、俺が継ぐことになったの。リーマンやってんのもつまんないじゃん?それにその子の家、繁盛してて、地元では結構有名なんだよね。まあ、ラッキーかな」
「なに勝手なこと言ってんの!――分かってる!?奈津ちゃん、妊娠してるかもしれないんだよ!」
「えー、でも、まだちゃんと確かめたわけじゃないんだよね?」
「そうだけど……!その可能性が高いんだから、もっといたわってあげなよ!病院一緒に行ってあげるとか!」
曽根は汚いものでも見せられたかのように、ぶんぶんと首を振った。
「無理無理、そんなの!あ、検査薬ぐらいなら、買ってきてあげるけど。いくらだっけ?千円くらい?」
「……!」
琴美は相手の無神経さに言葉を失った。
「あ、結婚やめろとか言うなよ。ていうか、このこと誰にも言わないでね。俺らはN市に住むことになるけど、遠方とはいえ、彼女にバレないとも限らないし。ほら、俺、婿になるわけじゃん?立場弱いんだよ」
拝むように手を合わせたあと、曽根は奈津のことを笑いながら睨んだ。
「お互い社会人なんだし、俺だけが悪いわけじゃないと思うんだよねー。レイプとかしたわけじゃないんだし、どっちもどっちっていうか」
――ああ、そうか。曽根くんは、やっぱり元からこういう人だったんだ。
会社を辞めるなら、あとのことを気にせず、本性を出せる。腐った、その性根を。
悔しくて、悲しくて、奈津はその場から走り去った。
家に帰り、ベッドに倒れ込んで、ひたすら泣いた。涙が枯れる頃になると、奈津もようやく冷静を取り戻した。
「俺だけが悪いわけじゃない」。曽根の言うことにも一理ある。それほど好きでもない男と、惰性でずるずると付き合い続け、だらしなくセックスして――。
だがそれを差し引いても、自分はこんなにも惨めに踏みにじられるようなことを、したのだろうか。
――いいや。
曽根が憎い。
強く、強く、そう思った。
そしてその夜、あっけなく生理がきた。何かのストレスだろうか、単に遅れていただけのようだ。最悪の事態は、避けられたということだろうか。
そして次の日職場に向かうと、曽根との噂が広まっていた。
奈津は孕まされた挙句、捨てられ、その相手である曽根は、違う女と結婚し、逆玉にのろうとしている。なんと分かりやすい不幸話だろうか。
自分との関係を他言しないよう念を押していた曽根が、自ら暴露するわけはないだろうから、この噂の発信元は恐らく琴美だ。彼女に悪気はなく、怒りに任せてつい、曽根とのやり取りを漏らしてしまったのだろう。
その噂のせいで、曽根は「女の敵」に成り下がり、退職するまでの短い期間、針のむしろに座らせれているような気分を味わったはずだ。
一方の奈津は、「騙された可哀想な女」として、周囲からの同情を集めた。
しかし――。皆は優しかったが、影では何を言われているか分からなかった。
好奇の目で見られているのではないか。馬鹿な女だと笑われているのではないか。被害妄想かもしれないが、奈津にはそう思えてならなかった。結果彼女は心を病み、会社に通うことができなくなってしまった。そして六ヶ月の休職を経て、その後、上司に勧められるまま、退職することになったのだった。
――もう、どうでも良い。
そう自暴自棄になっていたところを、拾い上げてくれたのが晴臣だった。
だから――。
――あなたが楽しんでくれるなら、何だってしてあげる。
晴臣も曽根のことを嫌っており、彼らは衝突を繰り返していたという。
だから、あの男を踊らせてやろう。みっともない彼のダンスを、思い切り笑ってやろう。
「立ち直ったと思ってたの……。私には、晴臣がいてくれる。あなたの喜ぶことは、何でもしてあげたい。でも私は、それを大儀名分にして――」
――復讐をしたかったのだ。
「晴臣はそんなこと喜ぶような人じゃないって、知ってたのに。
私……、本当に執念深くて……。自分が怖い」
涙を零しながらうなだれる奈津を、晴臣は抱き締めた。
「すごく酷いことをされたんだから、当たり前だよ。――慌てないでいいんだ。曽根のことは、ゆっくり忘れよう。俺は、ずっと側にいるから」
晴臣の体は暖かった。奈津は彼の胸に濡れた頬を押し当て、広い背中に腕を回した。
「ああ、でも、俺、安心した。奈津が浮気してなくて。
――結局、なんであんな薬飲んでたの?」
「曽根くんとのことがあったから、怖かったの。子供ができたら、晴臣くんに捨てられちゃうんじゃないかって」
「俺をあんな奴と一緒にするなよ……」
声色が尖ったので、奈津は思わず顔を上げた。目が合うと、晴臣は困ったように笑った。
「子供ができたら、普通に嬉しいよ。ていうか、もう結婚してよ」
「え……」
「心の傷が癒えるまでは……なんて、変な気を使ったけど。本当は同棲じゃなくて、俺はお前と結婚したかったんだ」
そう言って、晴臣は奈津の唇を塞いだ。驚いたように見開かれた奈津の目は、やがてゆっくりと閉じた。
日々を演じるのではなく、過ごす。当たり前の日常を、愛する人の隣で。
霧の中から、ようやく出て来られた気がする。
――だけど。
「やったほうは忘れてるかもしれないけど、やられたほうは忘れない」。そう言ったのは、誰だったか。
この傷は消せない。
6.
吐いた息が白い。
夏の間は早く寒くならないかな、などと思うものだが、いざ季節が移り変わってみると、あの焦げるような凶暴な日差しが恋しくなるのだから、勝手なものだ。
「拓、風邪ひかないでよ~」
背を屈めて、ベビーカーを横から覗き込みながら、由子は息子に向かって声をかけた。きっちりと着込ませた息子は、機嫌良く笑っている。それを見た由子も微笑んだが、すぐにため息をついた。
思い出すたび、憂鬱になる。
ついこの間、父が社長を勤める不動産会社に立ち寄ったとき、聞いてしまったのだ。父は、信用のおける古株の社員に、愚痴をこぼしていた。
「あの婿は駄目だ」
それは由子の夫のことだ。現在夫は、父の会社で、後継者となるべく修行している。
結婚当初、父は夫のことを大層可愛がっていた。良い跡取りができた、と。しかし最近になって、それが買いかぶりだったと気付いたらしい。
そう。
夫は愛想も良く、しっかりしているように見えるが、その実、中身は空っぽで、いい加減な男なのだ。
そのうえ女癖も悪い。付き合っていた頃から浮気ばかりしていたし、東京で勤め人をしていた時代にも、どうやらあちらで女を作っていたようだ。
――そもそも、なんで私、あんな男と結婚したのかしら……。
学生時代からずっと一緒にいて、その時間を無駄なものにしたくなかった。ただ、それだけだったような……。
一緒に家庭を築いてみても、育児も家事も妻に丸投げで、しかも稼いだお金はほんの少ししか渡さない。当然それでは生活できないから、由子は実家に頼りっぱなしだ。
「失敗したかなあ……」
特に最近の夫は、輪をかけて不真面目だ。というか、心ここにあらずといった様子なのである。
今朝だって、そわそわした様子で、「前に、うちに遊びに来た女性は、どうしている?」などと聞いてきた。
そういえば夫は、奈津のことばかり尋ねてくる。もしかしたら、また浮気の虫が騒ぐのだろうか。
確かに奈津は綺麗な人だ。物静かで上品だし、夫の好みのタイプかもしれない。
空は厚い雲で覆われており、陽光は届かない。それが由子の不安を助長する。
そういえば奈津とは、この近くの公園で、よくお喋りしたものだ。
――寄って行こうか。
由子はベビーカーを押して、横道に入った。
ベンチに腰を落ち着かせてから、すぐのことだった。
「由子さん!」
頭を上げると、見知った顔が近付いてくる。
「奈津さん!ちょうどあなたのこと、考えてたのよ」
「あら、そうなの?うふふ、久しぶりね」
由子の隣に静かに腰を下ろし、奈津は笑った。
「本当に久しぶりね。うちに来てくれたとき以来だから、もう半年かしら?」
「もうそんなになるのね」
久しぶりに見た奈津は長かった髪を短く切り、そのせいか表情も明るく見えた。そういえば、少しふっくらしただろうか。
「ずっと忙しくってね。ようやく時間ができて。実は、一緒に暮らしてた人と、入籍したのよ」
「あら、おめでとう!」
奈津は、ありがとうと、はにかみながら礼を言った。
そんな彼女の笑顔が、由子には眩しく見える。
夫と結婚した当初は、自分もこんな風に笑っていたのだろうか。それがとても遠い昔のように思える……。
「結婚って、本当に色々と大変なのね。お互いの両親に挨拶したり、式の準備も大変だったし、色んな手続きもあるでしょう?最近ようやく落ち着いたのよ」
「そうでしょう、そうでしょう」
由子はおどけて先輩顔を作り、うんうんと頷いた。
「あと……。実はね」
奈津が差し出したバッグの取っ手には、キーホルダーが揺れていた。デフォルメされた女性と子供が描かれているそれは、妊婦が付けるものだ。
「きゃあー!奈津さん、赤ちゃんできたの!?」
「うん、そうなの。えへへ……」
由子は奈津の手を握ると、大きく上下に振った。
「おめでとう!予定日はいつ?」
「今年の秋なの。十一月」
由子のはしゃぎっぷりを見て、周りの主婦たちが笑っている。奈津の妊娠を自分のことのように祝福しつつ、由子は安堵していた。
――今日帰ったら、夫に言ってやろう。
あなたが気にしている奈津さんは、夫とラブラブよ、と。
「赤ちゃんが生まれたら、是非拓のお友達になってね。幼稚園は無理でも、小学校とか一緒にしたいねー!」
「そうねえ。そういえば由子さんのところは、二人目は考えてないの?」
話題を振られた由子は、急に暗い表情になった。
「うちは……ちょっと旦那のことで、悩んでて。今は考えられないの」
「どうしたの?私で良ければ、話を聞くわ。
――拓くんに兄弟ができないなんて、寂しいわよね。由子さん、子供好きだし、つらいでしょう。まだ全然若いし……。前向きに考えましょうよ」
背中を優しく撫でられながら、由子は奈津の言葉に耳を傾けた。
「前向きに」考えるとしたら、ますますあの夫は不要になるのではないだろうか。
自分で言うのも何だが、まだ若いし、あと二人か三人は産める。両親が苦労して大きくした会社も、もっと継ぐのに相応しい男性が、どこかにいるのではないか。
「奈津さん、聞いてくれる?」
「ええ、もちろん」
強い決心が漲る由子の目を見返して、奈津は微笑んだ。
そうだ、喜劇はまだ終らない。
妻に捨てられ、仕事を奪われ――曽根が、どこまで落ちていくのか。
――他でもない私のために、踊れ、踊れ。
たくさん、笑わせて。
突然、激しい泣き声が響いた。
「あれ、どうしたのー?今までいい子にしてたじゃない。オムツかしら?」
ベビーカーにいた我が子を、由子は慌てて抱きかかえた。
拓は、火が付いたように泣いていた。
おわり
お付き合い、ありがとうございました!
またどこかでお会いできますように。