支配地
昼を回るころ、二人は広場をもう一度見て回った。
兵たちは露骨に追い払うことはしない。
その代わり、視線だけは切らさない。
どこで誰が見ているか分からない程度には、管理の網がある。
元診療所は、今は半分が衛生室、半分が懲罰房になっていた。
窓には鉄格子。
中から咳が聞こえる。
衛生兵は見当たらない。
代わりに入口にいた若い兵が煙草を吸っていた。
元食堂は、士官区画になっているらしい。
入口には布が垂らされ、住民立入禁止。
中から酒の臭い。
笑い声。
昼間からだ。
元防災備蓄庫は、武器庫と交換所を兼ねていた。
交換所といっても、住民にとって公平な市場ではない。
駐留兵の親しい者だけがまともな比率で物を手に入れられる、歪んだ配給場だ。
乾燥肉。
薬。
燃料片。
外出許可。
そのすべてに、兵の顔色が値札としてついている。
エミリが低く言う。
「ほんと最低」
「そうだな」
「最低って思ってるなら、なんでそんな平気な顔してんの」
クロムウェルは武器庫前の掲示板を見る。
そこには出動記録があった。
正規書式の残骸。
だが記載は崩れている。
外周警備
不審者対応
徴発補助
特別回収
懲戒立会
最後の欄だけ、回数が多かった。
「平気ではない」
「見えない」
「見せる必要がない」
エミリは顔をしかめたが、そこで言い返すのはやめた。
代わりに別のものへ目を留める。
広場の西側。
地下区画へ降りる階段の手前で、人だかりがあった。
住民が半円に距離を取って立っている。
その中心に、少年が一人。
十四、五だろうか。
痩せている。
頬が腫れていた。
手首に拘束具。
少年の前には兵が二人。
一人は門にいた若い兵だ。
もう一人は、肩章の読めない大柄な男。
こちらが立場は上だろう。
腰に警棒。
靴が磨かれている。
他より少しだけ装いが整っているぶん、かえって嫌な感じがした。
エミリの顔色が変わる。
「……何あれ」
クロムウェルは少しだけ歩調を速めた。
人垣の外で止まる。
大柄な男が、手元の紙を見もせず読んでいた。
「第三配給区、無断流用。夜間移動。登録外接触。以上により、配給三日停止。加えて地下整備路の清掃労役六日」
少年は何か言い返した。
だが声が小さく、聞き取れない。
男が警棒で顎を上げる。
「聞こえん」
「妹が熱出してたんだよ」
今度ははっきり聞こえた。
少年の声は震えている。
怒りではなく、恐怖で震えていた。
「水が足りなくて、北棟の余りを」
警棒が腹へ入る。
短く鈍い音。
少年が膝をつく。
エミリが一歩踏み出した。
クロムウェルの手がその腕を掴む。
「離して」
「まだだ」
「まだって何」
「見ろ」
「見たくないよ、こんなの」
「見ろ」
エミリは振りほどこうとしたが、クロムウェルの手は動かなかった。
無理に抑え込んでいるわけではない。
ただ、そこから先へ行かせない重さだけがあった。
大柄な男は周囲の住民へ顔を向けた。
「盗みは盗みだ。配給は順番だ。勝手な判断は全体を乱す」
誰も返事をしない。
だが、顔を背ける者もいない。
みんな聞いている。
聞かされている。
懲罰は見せるためにある。
男が続ける。
「規則が嫌なら外へ出ろ。外には砂しかない。ここにいるなら、ここに従え」
その言い方に、クロムウェルの目が少しだけ冷えた。
エミリはそれに気づかなかった。
彼女は少年のほうを見ている。
懲罰はそこで終わらなかった。
若い兵が少年の拘束具を引き上げ、晒し台のほうへ連れていく。
エミリが低く吐き捨てる。
「もう無理」
クロムウェルは腕を離した。
だが、自分はまだ動かない。
大柄な男が観衆の外へ視線を走らせる。
クロムウェルたちのところで一瞬止まる。
見知らぬ旅人。
武装あり。
女連れ。
敵か、無関係か。
それを測る目だった。
男は少しだけ顎を上げる。
部下に何か合図する。
若い兵がこちらへ歩いてきた。
「見世物じゃねえぞ」
エミリが言い返す。
「そっちが見せてるんでしょ」
兵の顔が歪む。
「口の利き方が……」
クロムウェルが前へ出る。
ほんの半歩。
だが、それで兵は止まった。
ライフルに触れてはいない。
それでも止まる距離だった。
「管理責任者はあれか」
クロムウェルが聞く。
兵は少し鼻白んだ。
質問の向きが、思っていたのと違ったのだろう。
「あ?」
「責任者だ。階級を持つ指揮官がいるはずだ」
兵はクロムウェルを見た。
今度はさっきより慎重に。
服の質。
立ち方。
声の調子。
旅人ではない匂いを、ようやく少し嗅いだらしい。
「……隊長に何の用だ」
「確認したいことがある」
「何様だよ」
クロムウェルは答えない。
兵の奥、大柄な男のほうを見る。
あれは執行役だ。
だが責任者ではない。
広場に出て指示を飛ばす種類の顔ではない。
もっと奥にいる。
庁舎棟か、士官区画か。
酒の臭いのする場所に。
兵は舌打ちした。
「隊長は忙しい」
「軍務よりか」
兵の顔が変わる。
ほんのわずか。
だが十分だった。
クロムウェルは静かに言った。
「軍規に則り、所属、任務、指揮系統、規律維持状況を確認する」
エミリが横で息を止める。
兵は数秒黙った。
やがて吐き捨てる。
「面倒くせえな」
「そうだろう」
「なら余計なことすんな。二日泊まって出てけ。それで済む」
クロムウェルは返さない。
兵の肩越しに、晒し台へ連れていかれる少年を見る。
配給列の女たち。
見ないふりをしている老人。
監視塔。
検問柵。
乱れた階級章。
私物化された徴収箱。
規則を語る男の口調。
そして、正規書式の残骸で塗り固められた私刑。
兵は苛立ったように言う。
「聞いてんのか」
「聞いている」
「だったら」
クロムウェルは兵の言葉を切った。
「ここはまだ、連合軍管理地を名乗っているな」
兵の眉が寄る。
「……だから何だ」
「なら規定がある」
「ねえよ、そんなもん」
「ある」
クロムウェルの声は低かった。
怒鳴りもしない。
だが、その温度の低さに、兵の顔から嘲りが少し消える。
エミリがその横顔を見る。
知っている顔だった。
補給デポで古い認証を通したときとも、ミナを前にしたときとも違う。
もっと前だ。
兵は笑おうとした。
だがうまくいかなかった。
「旅人風情が」
クロムウェルはゆっくりコートの内側へ手を入れた。
兵が反射的に後ずさる。
取り出されたのは銃ではない。
古い認証カードだった。
金属と樹脂のあいだみたいな、擦り傷だらけの板。
だが、その中央に残る紋章だけは、兵にも分かったらしい。
「現管理責任者へ伝えろ」
クロムウェルはカードを見せたまま言う。
「旧連合軍第三方面軍司令部付き特技戦術官、クロムウェル特務中尉。駐屯管理状況の確認を要求する」
兵は固まった。
周囲の空気が、ほんの少し止まる。
エミリは何も言わない。
言えなかった。
晒し台へ連れていかれていた少年でさえ、一瞬だけこちらを見た。
兵がようやく口を開く。
「……そんなもん、まだ使えるわけ」
「使えるかどうかを決めるのは、お前じゃない」
その言い方がまずかった。
いや、正確には良すぎた。
古い命令口調が、そのまま現在へ滑り込んだ。
兵だけでなく、周囲の住民までそれに反応した。
広場の向こう、士官区画の入口で布が揺れる。
誰かが出てきた。
背の高い男。
年は四十前後。
上着だけは比較的まともな軍服。
胸には少佐の階級章。
本物かどうかは分からない。
だが少なくとも、この場ではそれを着る資格を自分に与えている人間だ。
男はゆっくり近づいてくる。
左右に護衛が二人。
顔には笑みがあった。
人を迎える笑みではない。
面倒ごとを値踏みする笑みだ。
エミリが小さく呟く。
「……あれが」
クロムウェルは答えない。
視線だけで男を測る。
歩き方。
靴。
帯剣位置。
制服の合わせ。
敬礼を受け慣れた者の癖はない。
だが命令されることにも、もう慣れていない。
中途半端な権力者の歩き方だった。
少佐章の男は数歩手前で止まり、クロムウェルを見た。
次にカードを見る。
そして、薄く笑った。
「これはこれは」
声は柔らかい。
だが、その柔らかさがかえって濁っている。
「ずいぶん古い幽霊が来たな」
クロムウェルはカードをしまわない。
「管理責任者か」
「そう名乗っている」
「正式所属を聞こう」
男は少しだけ笑みを深くした。
「先に名乗られた以上、こちらも礼は尽くすべきか。
西部第三区域駐屯第五五七管理隊、現地統括責任者、ダリウス少佐」
少佐。
その肩章に見合う空気はなかった。
クロムウェルは短く言う。
「規律状態の確認を行う」
ダリウス少佐は一瞬、黙った。
それから声を出して笑った。
周囲の兵がつられて笑う。
住民は笑わない。
「確認?」
ダリウスは面白そうに首を傾けた。
「この時代に、まだそんな言葉を口にする人間がいたとは驚きだ」
クロムウェルは表情を動かさない。
「答えろ」
ダリウスは笑みを消さないまま、広場を片手で示した。
「見れば分かるだろう。
ここは私が守っている。
水も、配給も、警備も、秩序も。
外の砂の中より、ここに人が残っている。それが答えだ」
クロムウェルが低く言う。
「統治ではない」
ダリウスは笑う。
「なら何だ」
「私物化だ」
広場の空気がさらに静まる。
ダリウスの笑みはまだ消えなかった。
だが目だけが少し冷えた。
「旅人風情が、二時間歩いただけで分かったような口を利く」
「二時間で足りる」
「そうか」
ダリウスは頷いた。
その頷き方には、怒りより先に軽蔑があった。
「なら、こちらも分かりやすくしよう」
彼は晒し台のほうへ視線を送る。
「そこにいる小僧は、配給を盗んだ。
夜間に動いた。
規則を破った。
私が裁く。
それのどこが私物化だ?」
クロムウェルは少年を見る。
怯えている。
だが目の奥には、まだ消えていない反発がある。
「処罰権限の根拠は」
ダリウスは小さく肩をすくめた。
「私がここを維持していることだ」
その返答を聞いたとき、クロムウェルの目から、最後の迷いが少しだけ消えた。
エミリはそれを横で見ていた。
言葉では説明できない。
だが、空気が変わったのは分かる。
ここまでは観察だった。
ここから先は、違う。
ダリウスは一歩近づく。
「特務中尉、だったか」
その肩書きを、半ば冗談みたいに繰り返す。
「昔の肩書きに縋るのは自由だ。
だが、ここでは今の現実が優先される。
旅人として泊まるなら泊まれ。
見物して帰るなら帰れ。
それ以上口を出すなら、こちらも相応に扱う」
クロムウェルは答えなかった。
ただ、ダリウスを見ていた。
階級章。
帯剣。
護衛。
広場配置。
住民の目。
そして、この男が現実と呼んだものの中身を。
エミリが小さく言う。
「クロムウェル」
返事はない。
ダリウスはその沈黙を、退きと受け取ったらしい。
満足したように顎を上げ、兵へ命じる。
「旅人には余計な場所を見せるな。
小僧の処罰は予定通り。
それと、北棟の労役枠を一つ増やせ」
少年の顔が青ざめる。
住民たちは黙ったまま目を伏せる。
ダリウスは踵を返した。
その背に向かって、クロムウェルが初めて言う。
「少佐」
ダリウスが振り向く。
クロムウェルの声は低く、よく通った。
「今夜、中央棟で記録照会を行う」
ダリウスは眉を上げる。
「許可していない」
「必要ない」
広場のどこかで、誰かが息を呑んだ。
ダリウスはしばらくクロムウェルを見ていた。
それから薄く笑う。
「面白い」
その笑みは、今度は本当に怒りに近かった。
「来るなら来い。
古い幽霊がどこまで通るか、見てやる」
そう言って去っていく。
護衛が続く。
晒し台の脇では、少年がまだ拘束具をはめたまま立たされている。
広場の熱がじわじわと戻る。
兵たちがまた動き出す。
住民も列へ戻る。
何も終わっていない。
むしろ、何かが始まった気配だけが残る。
エミリが低い声で言った。
「……今夜って何する気」
クロムウェルはしばらく答えなかった。
やがて、広場の監視塔を見上げる。
「確認だ」
「何を」
「ここがまだ軍を名乗る資格があるかどうかを」
エミリは思わず笑いそうになった。
笑える話ではない。
なのに、その言い方があまりにもまっすぐで、逆に寒気がした。
「で、なかったら?」
クロムウェルは彼女を見ない。
「規定通りだ」
エミリは黙る。
広場の端では、晒し台の柱に少年が縛られ始めている。
住民は見ないふりをしている。
兵は見せるために動く。
空の上には雲ひとつない。
乾いた光が、外壁にも、掲示板にも、軍服にも、同じように降っていた。
そしてこのコロニーでは、それが秩序の顔をしている。




