マスター・ガンスミスの孫
荒野の朝は、陽が上がるにつれて急に色を持ち始める。
夜のあいだ青黒く沈んでいた砂は、薄い金色に変わり、遠くの岩肌には赤茶けた筋が浮かび上がっていた。
風はまだ冷たい。
止まったジープのエンジンボックスからは、細い煙がだらだらと空へ伸びている。
男は少女の横を通り過ぎた。
少女は一歩ついてくる。
「ねえ」
男は答えない。
「ねえって」
答えないまま、男はジープを一瞥した。
前輪の片側が少し沈んでいる。サスペンションも曲がっていた。エンジンは死んでいる。修理して動く類の壊れ方ではない。
少女は男の前へ回り込んだ。
「ちょっと待ってよ」
男は止まらず、そのまま歩く。
少女は後ろ向きに歩きながら顔を覗き込んだ。
「助けたんだから最後まで面倒見なさいよ、って言ったら……図々しい?」
男は一言だけ返した。
「図々しい」
「だよね」
少女はまったく堪えていない声で言い、さらに続ける。
「でもアンタ、行き先あるんでしょ?」
男は歩く。
「私は今ない」
歩く。
「というか正確には、あったけど、なくなった」
歩く。
「いや、なくなったっていうか、追い出されたっていうか、自分から出たっていうか、そのへん説明すると長いんだけど」
男は立ち止まりもせずに言った。
「長いならいらん」
立ち止まり少女は数歩遅れた。それからまた追いつく。
「冷たい」
男は肩のライフルの位置を直した。
「煩い奴は嫌いだ」
少女は一瞬だけ黙った。
それから、妙に真面目な声で言う。
「……ああ」
男は歩く。
「それ、本当?」
返事はない。
少女はしばらく男の背中を見ていた。
朝日に照らされた背中は広くもなく、特別大きくも見えない。
砂を踏む足取りに迷いはない。
振り向きもしない。
少女は鼻で息を吐いた。
「本当じゃないな」
男は反応しない。
「まあ、半分は本当だろうけど」
少女はまた早足になる。
「煩いのが嫌いなんじゃなくて、連れて歩く理由がないんでしょ。たぶんそれが一番、正確。あと面倒。あと守る義理がない。あと死なれたら寝覚めが悪いとか、そのへん。
ほかにある?」
男は歩きながら、わずかに目だけを横へやった。
少女はそれを見て、『にぃ』と笑う。
「図星」
男は今度は足を止めた。
少女も止まる。
二人のあいだを風が抜けた。
「帰れ」
少女は肩をすくめた。
「帰る場所ないって言ったじゃん」
「別のコロニーを探せ」
「通行証なしで?」
男は黙る。
少女は片眉を上げた。
「他の身分が、あるように見える?」
男は少女を見た。
ベレー帽。つなぎを崩した妙な格好。泥と埃。日に焼けた脚。腰のベルトには工具袋とナイフ。
「偽造なら持ってたけど、さっきの連中に荷台からこぼれた荷物ごと持ってかれた」
少女は言った。
「っていうか、あいつらあれ絶対最初から車じゃなくて積み荷狙いだったのよ。ひどくない? 人が苦労して集めた車の部品と乾燥肉入りのレーションとフィルターと、あと靴下まで」
男はわずかに眉をひそめた。
「靴下?」
「大事でしょ」
少女は真顔で言った。
「砂漠で足やると終わるもん」
男は答えず、再び歩き出す。
少女はついてくる。
「で、どうするの」
「どうもしない」
「私はする」
「勝手にしろ」
「勝手に一緒に行くってこと?」
「それは却下だ」
「なんでよ」
男は少し間を置いた。
「煩い」
少女は口を尖らせた。
「アンタ本当にそれで押し切る気?」
男は返さない。
少女は数秒考え、それからふと視線を上げた。
男の肩に掛かったライフルを見た。
「……ふうん」
男は歩きながら言う。
「何だ」
「別に」
少女の声の調子が少し変わった。
軽口ではなく、観察する声だ。
「その銃、前に撃ったあと、ちゃんとボルトフェイス拭いた?」
男は答えない。
少女はそのまま続ける。
「いや、拭いてないか。……さっきの装填、閉鎖は素直だったけど、開放のときちょっとだけ重かったでしょ」
男の足が止まった。
少女はにやりとしない。
ただ、確かめるように男を見る。
「砂噛んでる。たぶんラグの根元じゃなくて、右のガイドレール側。前に腹ばいで撃ったでしょ。あの地面なら細かい砂が入りやすい」
男は無言のまま少女を見下ろした。
少女は指を一本立てる。
「あと、ボルトハンドル、下ろすときに最後ちょっとだけ手首で押してた」
「……見ていただけで分かるのか。何百m離れていたと思っている」
「見えてないけど、分かるよ」
少女はあっさり言った。
「その癖、カム面の摩耗が偏ってるか、ヘッドスペースがギリギリか、どっちか。まあ後者はさすがにないと思うけど、その古さならラグの当たりは確認したほうがいい」
男は何も言わない。
少女はさらにライフルを見た。
「スコープマウントの前側、左がほんの少し浮いてる」
男の目が細くなる。
「……見えるのか」
「見えるっていうか、アンタが持ち替えたとき、接眼側が一瞬だけ内に戻った。リコイルでズレるほどじゃないけど、あの距離なら縦に散るかも」
少女は一歩近づき、顎を上げた。
「ゼロイン、今どこで取ってる? 二百? 三百?」
男は答えない。
少女は勝手に続ける。
「さっきの一発、タイヤ狙いであそこに当てるなら、三百基準で少し上持ちか、二百基準で風だけ読んだか。たぶん前者。でも今朝の光だとレティクルの見え方少し変わるでしょ。その旧式、コーティング弱いから」
男はしばらく黙っていた。
やがて低く言う。
「触るな」
「まだ触ってない」
「今後もだ」
少女は鼻を鳴らした。
「だったらアンタ、自分で分解できる?」
男の沈黙が一瞬だけ長くなる。
少女は見逃さなかった。
「ほら」
「できる」
「応急でしょ」
男は答えない。
少女は肩をすくめた。
「見れば分かる。日常整備はしてる。でも細かい擦り合わせまではやってない。たぶん、前の持ち主か整備班が優秀だったんだよ、その銃。アンタはそれをきれいに使ってるだけ」
風が吹く。
男のコートの裾が揺れた。
少女はそこで初めて、少しだけ笑った。
「条件」
男の目が少女へ向く。
「同行させてくれたら、その銃、ちゃんと見てあげる」
男は切るように言った。
「いらん」
「いる」
「いらん」
「いるって」
少女は両手を広げた。
「アンタ、今は撃てるから平気だと思ってるでしょ。でもあれ、たぶん次に長めの距離撃ったら、ボルトの返りで手応え変わるよ。最悪、排莢が鈍る。もっと砂が入ったらエキストラクターが噛む」
男は表情を動かさない。
少女はさらに畳みかける。
「あとトリガー。軽くしてるのはいいけど、遊びが浅すぎる。冬場ならいいけど、この気温差だと朝と昼で感触が変わる。シア面、削りすぎたんじゃない? 誰が触ったの、これ」
男はゆっくり口を開いた。
「……お前、何者だ」
少女は少しだけ首を傾げた。
「今さら?」
「質問に答えろ」
「銃が好きな通りすがり」
「それ以外だ」
少女は少し考えて、視線を空へ逃がした。
「工房育ち」
男は黙って待つ。
少女は砂を蹴った。
「ええとね。昔っから周りに銃しかなかったの。普通の家って、たぶんもっと違うものが転がってるんでしょ。鍋とか、本とか、変な置物とか。でもうちは分解された機関部とか、削りかけのボルトとか、バレルのブランク材とか、そういうのばっか」
男は少女の顔を見る。
少女は笑っている。
だが目は笑っていない。
「朝起きると、じいさんがラッピング剤の匂いさせててさ。私、その匂いで腹減るようになっちゃって。終わってるよね」
男は何も言わない。
少女はまた歩き出した男の横に並んだ。
「でも、ちゃんと学校みたいなのもあったよ。あったっていうか、あれ学校って呼んでいいのかな。半分は数字と規則、半分は分解と再組立て。間違えたら水抜き。ふざけたら飯抜き。うん、思い出してきた、全然よくないな」
男は歩調を変えない。
「コロニーの工廠か」
「言わない」
「言っているようなものだ」
「細かいなあ」
少女は唇を尖らせた。
「別に隠したいわけじゃないんだけど、名前出すと長くなるのよ。正式名称が馬鹿みたいに長くて。第なんとか工廠の、なんとか付属の、保守管理区の、とか。ああいうの聞くと眠くならない?」
男の顔に、ほんのわずかだけ昔を思い出す影が差した。
少女はそれを見て、にやっとした。
「なるんだ」
男は答えない。
「アンタもそっち側だったんでしょ」
沈黙。
「肩書き長そうだもん」
「見ただけで分かるのか」
「分かるよ」
少女は即答した。
「歩き方と、黙り方と、あと人を見る目。あれ、値踏みする人の目。私が生まれる前の世界を知ってる人の目」
男の目が少し冷える。
少女は構わず続けた。
「悪口じゃないよ。癖だなってだけ。私も似たようなもんだし。見ちゃうもん、つい。ネジの頭なめてるとか、バネが替えられてるとか、ストックの木目が反ってるとか」
「人間も同じか」
少女は少しだけ黙った。
「……たぶん」
風が吹いた。
砂が細く流れる。
しばらく、二人とも何も言わずに歩いた。
やがて少女がまた口を開く。
「じいさんがね、よく言ってたの。いい銃っていうのは撃てる銃じゃなくて、撃ったあと帰ってくる銃だって」
男は無言のまま前を見る。
「その意味、子供のころは全然分かんなかった。撃てればいいじゃんって思ってたし。でも大きくなると分かるのよ。帰ってくるって、壊れないとか、噛まないとか、そういう意味だけじゃないんだよね。持つ側がちゃんと戻ってくるってことでもあって」
少女はそこで話を切った。
自分で切ったことに自分で気づいたように、少しだけ口を閉じる。
男の手がライフルのスリングを握り直した。
少女はすぐに明るい声に戻る。
「ま、それで私は見る目だけは育ったわけ。実戦は別。昨日みたいなのは本当に勘弁。揺れる車の上で撃つやつ頭おかしい。あいつらなんであんな笑ってられるんだろ」
男は短く言う。
「慣れてる」
「嫌だねえ」
「お前もいずれ慣れる」
少女は顔をしかめた。
「それ、すごく嫌な予言」
男は返さない。
少女は数歩ぶん黙り、それからふいに言った。
「私、慣れる前に出たの」
男は何も言わない。
「工房。コロニー。じいさん。あそこにいれば食いっぱぐれなかったと思う。たぶん。まあ怒鳴られはするけど。でも、ずっとあそこにいたら、私たぶん人を見て最初にどこが交換できるか考えるようになるなって思って」
男の足がほんのわずかに止まりかける。
少女は前を見たまま喋る。
「部品ってさ、悪くなると替えるじゃん。古いの外して、新しいの入れて、番号書いて終わり。工房ってそういう場所だから当然なんだけど。で、その感じが人にも来るの。来るっていうか、最初からそういう場所もあった。あっちは作る側だから余計に」
少女は笑った。
「何の話してたっけ」
男は低く言う。
「整理できてないなら無理にするな」
少女は目を瞬いた。
それから、少しだけ笑う。
「優しいこと言うね」
「言ってない」
「言ったよ、今のは」
男は歩く。
少女はまたついてくる。
「じいさん、たぶん私を残したかったんだと思う。跡継ぎとか、そういう大層な話じゃなくて、単に自分の仕事場に人が減るの嫌だっただけかもしれないけど。でも私は出た。で、出たはいいけど通行証の期限切らして、同じ系統のコロニーの更新所で揉めて、ついでに車も盗んで、いや借りたのかなあれ、たぶん盗んだ寄りだな」
男が初めて、ほんの少しだけ呆れたように息を吐いた。
少女はそれを聞き逃さない。
「今、笑った?」
「笑ってない」
「笑ったって」
「気のせいだ」
少女は満足そうにうなずいた。
「じゃあ話戻すけど、その銃」
男の顔が少しだけ曇る。
「戻すな」
「戻すよ。大事な話だもん」
少女は指を折りながら数える。
「ボルト分解。撃針ばねのへたり確認。エキストラクターの爪先、角の欠け見たい。あとチャンバー、奥にカーボン溜まってるかも。掃除棒ないなら紐でも代用する。オイルは粘度低いのある? なきゃ私の使う。ついでにスコープマウント締め直し。レティクルのズレも簡易で見る。必要なら今日の昼に一発だけ試射」
男は黙る。
少女は畳みかける。
「もちろん無償とは言わないよ。同行させて。食いぶちは自分で何とかする。水も半分でいい。歩くのも遅くない。地図も読める。夜番もできる。あと喋るのは、努力する」
「無理だろう」
「うん」
少女は真顔で認めた。
「そこは無理」
男は歩きながら、しばらく何も言わなかった。
風だけが吹いていた。
砂丘の向こうで、どこかの金属片がかすかに鳴る。
やがて男は立ち止まる。
振り返る。
少女も止まる。
男は肩のライフルを下ろした。
砂の上に膝をつき、銃を自分の腿の上へ置く。
少女の目がわずかに見開かれる。
「……触るなと言った」
「言ったね」
「今もだ」
「うん」
「見るだけ見ろ」
少女は数秒、男を見つめた。
それから、急に顔を明るくすることもなく、ただ静かに頷いた。
「了解」
少女は腰の工具袋を外し、砂の少ない平たい石の上へ置いた。
中から布、細い棒、瓶、真鍮ブラシ、先端の曲がった小さな工具を取り出す。
どれも使い込まれている。
寄せ集めだが、手入れはいい。
男はそれを見ていた。
少女は座り込み、男のライフルを覗き込む。
触れない。
まず目で追う。
金属の縁。木部の継ぎ目。ボルトハンドルの擦れ。スコープベースのネジ頭。
少女はひとつ息を吐いた。
「……あー」
男の眉が動く。
「何だ」
少女は、少しだけ嬉しそうな、少しだけ腹立たしそうな顔で言った。
「これ、手ぇ入れたの、じいさんと同じ癖の人だ」
男は黙る。
「研磨の仕方が古い。紙じゃなくて砥石寄り。しかも仕上げを急がない人。こういうの、最近いないんだよね」
少女はそこで初めて顔を上げた。
「アンタ、これ、どこで手に入れたの」
男は答えない。
少女は数秒待って、肩をすくめる。
「まあいいや。喋りたくないことは喋らなくていい」
そう言ってから、自分で少し笑う。
「って、私が言うの変か」
男は何も言わない。
少女は指先でそっと、ストックの表面すれすれをなぞった。
まだ触れない。
「でも、これはいい銃だよ」
男の目が少女を見る。
少女は銃を見たまま続ける。
「雑に使ってない。殺すためだけに持ってる手じゃない。ちゃんと戻ってくるように持ってる」
男の顔に、何の感情も浮かばない。
だが、否定もしなかった。
少女はようやく視線を上げた。
「で。どうする? 一緒に行くの、駄目?」
男はしばらく答えなかった。
朝の光はすでに高くなり、砂の色が少し白っぽく変わり始めていた。
止まったジープの煙はもう消えている。
風が吹く。
男は少女から視線を外し、荒野の先を見た。
「勝手についてくるなら止めん」
少女の顔がぱっと明るくなる。
男は続けた。
「だが守らん」
「うん」
「足を引くなら置いていく」
「うん」
「煩いのは変わらんのか」
少女は少し考えた。
「そこは、善処」
男はライフルを持ち上げ、少女へ差し出すのではなく、自分の膝の上に置いたまま言う。
「まず整備だ」
少女はにっと笑った。
今度の笑みは軽いだけではない。
仕事を前にした人間の顔だった。
「任せて」




