第二十六話 将軍、瓦解する 正論 を看取る
秀吉がこの世を去ってからというもの、大坂城を支配しているのは悲しみではなく、張り詰めた不和であった。
三成が 亡き殿下の法 を盾に秩序を維持しようとすればするほど、戦場で血を流してきた武断派の将たちの心は、急速に豊臣から離れていった。
義昭は、廊下を騒がしく行き交う武士たちの怒声を聞きながら、静かに目を閉じた。
「……計算通りにはいかぬな、佐吉よ」
そこへ、直垂の裾を乱した三成が駆け込んできた。その顔には、隠しきれない焦燥と、理解不能な事態に直面した学者のような困惑が浮かんでいた。
「公方様! 加藤(清正)や福島(正則)らが、あろうことか私邸を襲撃せんと軍を動かしております。私はただ、殿下の定められた 軍律 に基づき、朝鮮での彼らの不手際を正しく評価したに過ぎぬというのに!」
三成の声は震えていた。彼にとって、数字と事実は絶対であり、それに腹を立てる武士たちの感情は、計算式を狂わせる 不備 でしかなかった。
「佐吉。貴殿の評価は、理屈の上では正しいのだろう。だが、死線を越えて戻ってきた者たちに対し、貴殿は『帳簿の数字』という冷たい言葉しか投げかけなかった。彼らが欲しかったのは、恩賞や理屈ではなく、己の献身を認める『一言の情』だったのだぞ」
「情などで天下は治まりませぬ! 誰にでも公平な 基準 がなければ、組織は腐敗いたします!」
「その『公平』が、彼らの心を腐らせているのだ。……貴殿は、人を 部品 として扱いすぎた。部品は、摩耗すれば取り替えられる。彼らは貴殿の目に、自分たちがいつでも代わりが利く『消耗品』として映っていることを見抜いたのだ」
義昭は立ち上がり、窓の外を見やった。遠く、徳川家康の屋敷がある方向から、静かな、しかし抗いようのない巨大な潮の満ちる音が聞こえるようだった。
「……家康殿は、今この瞬間も、傷ついた彼らの肩を叩き、『苦労をかけた』と古い言葉で語りかけている。彼は知っているのだ。 合理 で追い詰められた人間が、最後に縋りつくのは、『温かな嘘』であることをな」
「……私は、間違っておりませぬ。間違っているのは、理屈に従わぬ彼らだ!」
三成はそう叫ぶと、義昭の制止も聞かず、再び喧騒の中へと戻っていった。
義昭は、その背中に向かって、憐れみを込めた独り言を落とした。
「間違ってはいない。だが、正しすぎるがゆえに、貴殿は誰にも救われない。……豊臣という絡繰りは、今、自ら作り上げた『正論』という刃によって、その手足を切り刻み始めたか」
大坂城に漂うのは、黄金の輝きではなく、鉄と、錆びた数字の匂いであった。
義昭は、足利の将軍として、かつて自分が歩んだ 理の崩壊 の道を、より冷酷な形でなぞり始めた豊臣の末路を、静かに見守っていた。




