第二十五話 将軍、中心なき 機構 を看取る
慶長三年、夏。
黄金を敷き詰め、数字で塗り固めた大坂城の奥底で、この巨大な絡繰りの心臓であった男、羽柴秀吉がその生涯を閉じた。
主という唯一の重石を失った豊臣の天下は、静止することを知らぬまま、加速し続ける慣性だけで動き始めていた。
義昭は、秀吉が息を引き取った後の、あまりに静かすぎる城内を歩いていた。
かつて秀吉が笑い、怒り、欲望を撒き散らした場所には今、石田三成が冷徹な筆致で記した 遺言 という名の規定だけが、亡霊のように漂っている。
「……空虚なものだな、藤孝」
義昭は、遺骸が安置された部屋の前で足を止めた。
「主が死んだというのに、この城は悲しむことさえ忘れている。聞こえるのは、次なる権力をいかに分配し、いかに 計算通りに組織を保つかという、算盤の音ばかりだ」
藤孝は影のように寄り添い、低く応えた。
「関白殿下が作り上げたのは、もはや人の情では動かぬ自動の仕掛けにございます。佐吉(三成)殿は、その仕掛けを一点の曇りもなく回し続けることこそが、秀頼君への忠義であると信じて疑いませぬ」
そこへ、血の気の失せた顔をした三成が、一抱えもの帳簿を抱えて現れた。その瞳は、主を失った悲しみよりも、これから訪れるであろう 不確実をいかに封じ込めるかという、悲壮な義務感に燃えていた。
「殿下のご遺志はすべて、この五大老・五奉行という 合議制の書状に記してございます。これさえ守られれば、豊臣の天下は揺るぎませぬ。理屈に従わぬ不穏な動きは、すべて法によって排除いたします」
義昭は、三成が差し出した書状を、一瞥もせずに突き返した。
「佐吉よ。貴殿はまだ気づかぬか。秀吉という男は、その強欲と人懐っこさという『情』で、無理やりこの絡繰りを回していたのだ。その中心核が消えた今、貴殿が振りかざす『正論』という名の刃は、ただ人々を傷つけ、遠ざけるだけの冷たい凶器となるぞ」
「正論こそが、乱世を終わらせる唯一の道にございます! 情に流される政治に戻せば、また血で血を洗う戦国に逆戻りいたす!」
三成の声が、無人の廊下に虚しく響く。
「……正しすぎるのだ、貴殿は。人は、正しさだけでは動かぬ。貴殿が『無駄』として切り捨ててきた、酒の席の戯言や、理不尽な恩義、そうした泥臭い繋がりこそが、この国を繋ぎ止めていたのだ。筑前守が去り、理屈だけが残ったこの城を、誰が守ろうと思うか」
義昭は、三成の背後に揺らめく、巨大な 空虚 を見つめた。
「佐吉。貴殿が守ろうとしているのは、豊臣ではない。貴殿自身が作り上げた、完璧な理論という名の城だ。……だがな、徳川家康という男は、その城が『情』という名の湿気で、内側から腐り落ちるのを待っているぞ」
三成は答えず、ただ強く帳簿を抱きしめ、暗い廊下へと去っていった。
義昭には見えていた。中心を失った巨大な絡繰りが、自らの重みに耐えかねて、最初の一音を立てて軋み始めたのを。




