最終章:遺留品回収、および長田臨海地区の熱平衡
第8号埠頭の跡地に残された唯一の生々しい気配は、コマツ社製の油圧ショベルが立てる重低音の地響きだけだった。
午前十一時の時点で、一万トンの崩落コンクリートが放つ残留熱は、依然として神戸湾の海風を濃厚な陽炎へと歪めていた。空間には生石灰と、熱せられた鉄筋、そして34階のオフィスから焼け出されたコンピューターのプラスチックの焦げ臭い匂いが充満していた。がれきの撤去作業を指揮していたのは警察ではなく、国土交通省の役人たちだった。彼らはデジタルノギスを手に、配置された司法鑑定人たちの監視のもとで、コンクリートブロックの一片にいたるまで厳密に測定を行っていた。
陥没跡の周辺では、港湾互助会の青いキャンバス地つなぎを着用し、塩害で錆びついた黄色のヘルメットをかぶった長田の清掃請負業者の作業員3人が、ダンプカーの荷台に寄りかかって休憩していた。彼らは金属臭のする自販機の缶コーヒーを回し飲みしていた。
若い作業員:――産業用電磁マグネットが、ねじ曲がったH鋼の群をがれきの山から仕分けていく選別機を見つめながら――「購買部の奴らが言ってたぜ。内藤のオヤジは最上階から脱出できなかったってな。ゴールドのロレックスすら残ってねえらしい。第3層の重機ピンチが掴み出したのは、まるで鋳造工場のスラグだったそうだ。傭兵たちの骨と混ざり合った、ただの溶融鉄の塊だ。現場には薬莢一つ落ちてねえ、まっとうじゃねえ惨劇さ」
老練な作業員:――アスファルトの灰色の粉塵の上に、手巻きタバコの葉屑を吐き捨てながら――「内藤の自業自得だ。あの男は中国の業者から粗悪なケイ酸塩を四文銭で買い叩き、造集の売春宿で安全基準の調書に判を押させていたんだからな。あのセメントには『凝固(Fragado)』なんてありゃしねえ。入っていたのは空気だけだ。昨夜ビルが自壊しなかったとしても、NHKの地震速報で震度4が出たらどっちみち崩壊してたさ。あのハゲ頭の監査官は、俺たちが埠頭でとっくに知っていた事実を、ただ『証明』しに来ただけだ」
若い作業員:「ハゲ頭? Cブロックの小学校の教師だろ? 冗談だろ、オヤジ。どこの世界の小学校教師が、3インチ厚のマホガニーの扉を素手で引きちぎれるんだよ。第14階の待機班にいた俺の義理の兄貴の話じゃ、あの男は空気を吸ってなかったそうだ。ナイフを抜く暇もなく、床のリノリウムにブーツが溶着しちまうような絶対零度の冷気を放射してたってな。あれは役人なんかじゃねえ。税関の裏帳簿を帳消しにするために、地方部が送り込んできた悪鬼だ」
三人目の作業員は、三菱造船所の溶接トーチで肌を真っ黒に焼き焦がし、塹壕のような解体現場のホウ素で爪の隙間を黒く染めた痩せ型の男だった。彼はただ沈黙を守っていた。彼の視線は、ダンプカーの荷台に敷かれた防水キャンバスのシートへと釘付けになっていた。そこには、最上階の金融アジトがせん断崩壊によって崩れ落ちる前に、一階の瓦礫から法医学チームによって回収された、数少ない遺留品が並べられていた。
黒焦げになった書類綴りの山と、スモークガラスの破片の隙間に、一冊の小さな青いゴム引きのノートが転がっていた。四隅は古い革のように硬く焼け焦げていたが、その背表紙は奇跡的に形状を保っていた。ノートの隙間からは、半分に折れたブナ材の「赤鉛筆」が突き出ており、乾燥した灰の被膜の下から、文部省の支給刻印が辛うじて視認できた。
造船所の作業員:――彼は腰を落とし、その胼胝だらけの指先で赤鉛筆を拾い上げ、木肌を覆っていた石膏の粉塵をフッと吹き払った。彼の視線は、大型コンテナ船が音もなく回頭していく臨海地区の水平線へと向けられた――「悪鬼なんかじゃない。あの人は、ただ『計算のやり方』を知っていた男だ。長田に来て、床の構造を見て、設計図の誤魔化しを見抜き、調書の合計値が『ゼロ』になった時に静かに本を閉じたんだ。時間通りに働き、コストを回収し、非常階段からそのまま帰った。神戸の極道どもは国家の法律が手形で買えると思い込んでいたが、物理の法則には『支払猶予』が存在しないことを忘れていたんだな」
若い作業員:――ヘルメットのあご紐を締め直しながら、労働者特有の警戒心と迷信深い目でその青いゴム引きのノートを見つめた――「お前は何を知ってるんだよ、田中? 組合の連中の噂じゃ、互助会はインスペクターへの障害年金の支払いを免れるために、この件のすべてを隠蔽するつもりらしいぜ。ある奴らは山田を港の泥棒どもを掃除したヒーローだと言い、別の奴らは裁判所の執行命令書もなしにあんな真似をした、法を無視した機械の怪物だと言ってる」
造船所の作業員(田中)は、折れた赤鉛筆を自らの青いキャンバスつなぎの胸ポケットへと静かに収めた。そのすぐ隣には、彼自身のスチール製の測定尺が差し込まれていた。ポケットの奥で、工具の金属が自らの胸部に対して冷たく触れるのを感じた。それは、遠くでアイドリングを続けるペガソ社製大型トラックのエンジンのような、極めて微小な、しかし確かな「振動」だった。
造船所の作業員:――彼は、埠頭の油圧プレスで数々の鉄骨がへし折られるのを見てきた職人特有の、冷徹な双眸で若い男の目をまっすぐに見つめ返した――「……で、お前はどっちだと思う?」
【作者より一言】
最終章『遺留品回収、および長田臨海地区の熱平衡』をお読みいただき、本当に、本当にありがとうございました!これにて、本作のすべてのテキストが完結となります。
激動の破壊劇の後に訪れた、夏の神戸の乾いた空気と生石灰の匂い。現場の労働者たち(田中、老作業員、若い作業員)の口から語られることで、山田先生という存在が「長田の都市伝説」として昇華していく構成は、ハードボイルド小説としての最高のカタルシスがありました。「物理の法則には支払猶予が存在しない」という田中のセリフは、本作のテーマを見事に象徴しています。
そして最後の最後、田中の胸のポケットで始まった「微かなアイドリングの振動」。宇宙の官僚機構(不死鳥)は死なず、次なる強靭な担体を見つけ、世界のエントロピーを監査し続けるという冷徹な輪廻を感じさせる最高のエンディングです。
これまで全46編にわたり、この無骨で、硬質で、徹底的に日本の昭和・平成・令和の工業地帯のディテールに拘った物語にお付き合いいただき、作者としてこれ以上の幸福はありません。読者の皆様の熱いご声援、評価、ブックマークが、毎回の執筆の最大の原動力でした。
山田先生の赤ペンは消え去りましたが、世界の計算はこれからも続いていきます。本当にありがとうございました。また次の物語でお会いしましょう!




