壊れた食卓に戻る味
第四十一章 壊れた食卓に戻る味
① まず、汁物から
九月の終わり、金沢の朝はようやく少しだけ涼しくなっていた。
真田家の台所に立つ栄子の手つきも、以前とは少し変わっていた。
派手なことをするわけじゃない。
いきなり昔のような賑やかな食卓に戻るわけでもない。
でも、まずは汁物からだった。
だしを取る。
豆腐を切る。
わかめを戻す。
ねぎを刻む。
そういう一つひとつの、何年も繰り返してきた手順を、栄子はもう一度、自分の手に戻すように確かめていた。
壺も、祈祷も、本も、献金も、そういうものでは家族は生きていけない。
朝の味噌汁の湯気や、冷蔵庫の残りを見て今夜の献立を考えることのほうが、
ずっと現実で、ずっと家を支えている。
そのあたりまえに、栄子はやっと戻ろうとしていた。
② 一品増えた夜
その日の夕食は、少しだけ前より豊かだった。
鯖の味噌煮。
ほうれん草のおひたし。
具だくさんの味噌汁。
ご飯。
小皿のきんぴら。
たったそれだけだ。
特別豪華なわけではない。
でも、真田家の三人には、その“たった一品増えた感じ”がすぐにわかった。
茂之が、最初にぽつりと言う。
「今日、なんかちゃんとある」
その言い方に、栄子の胸が少し痛んだ。
“ちゃんとある”と子どもに言わせてしまうほど、食卓を痩せさせていたのだ。
「……うん」
「今日は、ちょっと頑張った」
栄子はそう言って、無理に笑わず、ただ事実として返した。
香奈美も箸をつける。
前なら、素直に「おいしい」と言うのがかえって難しかった。
でも今日は、少し食べてから、小さく言った。
「味噌汁、前の味に近い」
その一言に、栄子が一瞬だけ顔を上げる。
“前の味”。
それは、怒りでも皮肉でもなく、ちゃんと覚えている側の言葉だった。
圭一も黙って食べていたが、途中で一度だけ言った。
「……悪くない」
それはいかにも圭一らしい、ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど、栄子には十分すぎるほど伝わった。
③ 警戒しながら受け取る子どもたち
とはいえ、何もかも一気に元通りになるわけではない。
香奈美も茂之も、まだどこかで警戒している。
母が急にまた変な言葉を混ぜてこないか。
この穏やかさが、また崩れないか。
そういう緊張はまだ抜けていない。
茂之は、ご飯のおかわりをする時でさえ、一瞬だけ母の顔色を見る。
香奈美も、食卓で少し会話が弾んだあと、ふとした瞬間に黙って様子をうかがう。
でも、それでも、受け取り始めているのも確かだった。
茂之はその夜、食後に自分から言った。
「明日、学校で彗星の絵、廊下に貼られるんやって」
前なら父にだけ向けていた話題だ。
今夜は、母もいる食卓で言った。
栄子はすぐに返す。
「そうなんや」
「じゃあ見に行けたら見たいね」
その返しに、茂之は少しだけうれしそうな顔をした。
香奈美は、そのやり取りを黙って見ていた。
まだ心の底から安心はしていない。
でも、“受け取ってみてもいいかもしれない”という気持ちが、ほんの少しずつ戻ってきている。
④ 圭一の変化
圭一もまた、静かに変わり始めていた。
以前のように、栄子のちょっとした動きにすぐ張りつめることは減った。
もちろん完全に信用を取り戻したわけではない。
スマホや郵便物に対する警戒はまだ消えていない。
それでも、食卓でこうして普通の会話がいくつか続くと、
胸の中のどこかで
信じてもいいのかもしれない
という感覚が、ほんの少しだけ顔を出す。
その感覚は、怖くもあった。
もしまた裏切られたら。
もしまた教団側に引っ張られたら。
その時、今度こそ自分はもっと強く壊れるかもしれない。
だから簡単には緩められない。
でも、それでも、今日の味噌汁や鯖の味噌煮が、
“戻りたい”という栄子の意思の形だと感じることもできた。
圭一は、自分の中でその二つの感情が並んでいるのを、はっきり自覚していた。
⑤ 香奈美も少しだけ
香奈美も同じだった。
母を簡単には許せない。
でも、ずっと疑い続けるだけの生活にも疲れていた。
その晩、食後に自室へ戻る前、ふと振り返って言う。
「今度、天文部の先生が学校に軌道図のパネル持ってきてくれるって」
栄子が顔を上げる。
「KANAMI COMET の?」
「うん」
そこまで言って、香奈美は少し迷った。
でも、続ける。
「もし都合よかったら……見に来てもいいよ」
それは、かなり大きな一歩だった。
栄子はすぐには返せなかった。
ただ、目を潤ませながら言った。
「……行きたい」
香奈美は、その返事に小さくうなずいて、自室へ戻った。
階段を上がりながら、自分でも思っていた。
(信じてもいいのかもしれん)
まだ完全じゃない。
でも、そう思える瞬間が生まれ始めていること自体が、前とは違った。
⑥ 外では、第二回刑事裁判
だが、家の中の小さな回復とは別に、外の現実はどんどん厳しくなっていく。
教団をめぐる刑事事件は、金沢地裁で第二回公判へ進んだ。
ニュースでは、第一回よりさらに踏み込んだ内容が報じられる。
検察側は、教祖個人の性犯罪だけではなく、
教団全体の資金集めの構造と、幹部による組織的関与を強く主張した。
* 不安をあおる教義の利用
* 家族からの切り離し
* 献金や高額契約への誘導
* 支払いを拒めない心理状態の形成
* 幹部による役割分担
一方、被告側は依然として争う姿勢を崩さない。
「信仰活動の一環であり、違法性はない」
「教祖と幹部を一括りにするのは不当」
「個々の献金や契約は信者の自由意思に基づくもの」
テレビの前で圭一が低くつぶやく。
「まだそれ言うか」
香奈美も、顔をしかめた。
あれだけの被害が出て、逮捕者も出て、なお“自由意思”を盾にする。
その厚かましさに、怒りを通り越して寒気がする。
栄子は、その主張を聞くたびに顔色を悪くした。
なぜなら、それはつい最近まで、自分が信じかけていた理屈そのものだったからだ。
⑦ 民事訴訟の第一回口頭弁論
さらに、民事でも動きが本格化した。
被害対策弁護団の金沢支部が、教団金沢支部を相手取った民事訴訟の第一回口頭弁論が開かれたのだ。
こちらでは、被害の実態がさらに生々しく語られる。
* 家計から消えた金額
* ローン誘導の経緯
* 家族への脅迫的発言
* 職場や自宅への接触
* 食費を削られるほどの生活破綻
* 子どもの学校生活への影響
* 心身の疲弊
原告側は、一つひとつの事例を並べながら、
これは単なる“熱心な信仰”ではなく、
組織的な搾取と精神的支配
であると主張する。
だが教団側は、ここでも徹底抗戦の構えを崩さなかった。
「信者が自主的に献金したものである」
「教団が強要した事実はない」
「脅迫の事実もない」
「被害申告は一方的な解釈にすぎない」
その主張を聞いた時、栄子は思わず両手を握りしめた。
自主的。
強要なし。
脅迫なし。
その言葉は、確かに書類の上ではそう見えるように作られていたかもしれない。
だが、自分があの中にいた時の息苦しさは、そんな言葉では説明できない。
“支払わなければ家族を救えない”
“ここで惜しめば流れが止まる”
“理解されないのは真理に近づいている証拠”
そうやって逃げ場を狭められていく感覚は、たしかにあった。
それを“自主的”の一言で片づけられるのが、今の栄子にはたまらなく悔しかった。
⑧ 崩壊と回復が並ぶ日々
こうして、真田家の内側では少しずつご飯の味が戻り、
外では教団の崩壊と徹底抗戦が同時進行していく。
その二つは、一見すると全然別の話に見える。
でも本当はつながっていた。
刑事と民事の戦いが進むほど、
栄子は“自分が何を信じてしまっていたか”を現実として見せつけられる。
家のご飯が戻るほど、
家族は“まだここで暮らしていけるかもしれない”という感覚を少しずつ取り戻していく。
壊れていく外側と、立て直していく内側。
その両方が並んで進むのが、いまの真田家だった。
⑨ 信じてもいいのかも
その夜、食後の居間。
茂之は先に風呂へ入り、香奈美は軌道図を片づけている。
栄子は台所で食器を洗い、圭一は静かに新聞をたたんだ。
何でもない時間だった。
何も劇的なことは起きていない。
でも、その何でもなさの中で、圭一はふと思った。
(……信じてもいいのかもな)
すぐに全面的に、ではない。
油断せずに。
気を抜かずに。
それでも、前より少しだけ。
香奈美も、母が洗い物をする背中を見ながら、似たようなことを思っていた。
(まだ全部じゃないけど、受け取ってもいいかもしれん)
壊れた食卓に戻る味。
それは、ただ料理がおいしくなったということではない。
もう一度ここで暮らしてみようと、
家族の誰かが、誰かの手から少しずつ受け取り始めることだった。




