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カナミ彗星—光は必ず届く  作者: リンダ


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見せたい空、奪いたい家


第三十二章 見せたい空、奪いたい家


① 週末の分岐


週末の朝、真田家の空気は張りつめていた。


表向きは静かだ。

圭一はいつもより少し早く起きて、居間の机の上を片づけていた。

香奈美はノートパソコンと観測記録のファイル、印刷した写真、天文アプリの画面を見返している。

茂之も、今日は何か大事な日だと感じているのか、妙におとなしい。


一方で、栄子のスマホには朝から何件もメッセージが入っていた。


本日、静養先へ移動可能です

お迎えの時間を調整できます

ここで休まないと、真田さんが本当に壊れてしまいます

どうか、ご自分を守る選択をしてください


家を出るか。

家に残るか。


栄子は、まさにその分岐点に立っていた。


テーブルの上では、香奈美が静かに資料をそろえている。

前回の観測画像。

比較画像。

赤経と赤緯の記録。

既知天体との照合結果。

国立天文台から届いた通知。

そして最後に、

KANAMI COMET

という文字。


教団側は、

「ここがあなたの居場所です」

と言う。


けれど家の中にも今、ただ責めるだけではない、別のものが差し出されようとしていた。


② 香奈美のお願い


香奈美は、母がスマホを見つめたまま動かないのを見て、意を決して言った。


「お母さん」


栄子が顔を上げる。


香奈美は、以前のような怒りではなく、できるだけまっすぐな声で言った。


「今日、うちの話、ちゃんと聞いて」

「彗星のこと、最初から最後まで見てほしい」


栄子は黙ったまま、娘を見る。


香奈美は続ける。


「別に、うちがすごいって話したいんじゃない」

「どうやって見つけたか、どうやって確かめたか、それを見てほしい」

「お母さん、前に“神様が見つけてくださった”って言ったやろ」

「でも違うって、ちゃんとわかってほしい」


その言葉は、責めるためではなかった。

むしろ、

まだわかってほしいと思っている

からこそ出る言葉だった。


圭一も、そこで静かに言った。


「栄子」

「今日は家にいてくれ」

「香奈美の話、一緒に聞こう」


栄子の胸が大きく揺れる。


教団へ行けば、否定されない。

家にいれば、痛い現実を見なければならない。


でも、今の香奈美の目には、前のような怒りだけではないものがあった。

自分の世界を見てほしいという、切実なまなざしがある。


栄子はスマホを握ったまま、長く黙っていた。


そして、ようやく小さく言った。


「……今日は、行かん」


香奈美が息をのむ。

圭一も、すぐには何も言えなかった。


栄子はさらに、スマホの画面を見つめたまま、震える指でメッセージを打つ。


今日は行けません。家にいます。


送信。


それは栄子が初めて、教団側より家族との時間を選んだ瞬間だった。


③ 見せたい空


午前の居間に、静かな緊張が満ちていた。


香奈美はノートパソコンを開き、画像を並べる。

赤いペンで位置を示したプリントも用意している。


「これが最初に撮ったやつ」

「で、これが同じ場所を後日に撮ったやつ」


栄子は、画面をのぞき込む。


香奈美は説明を続ける。


「ここ、ほんのちょっとだけ動いとるやろ」

「最初はノイズかと思った。でも、位置のずれ方がきれいやった」

「だから赤経と赤緯を出して、アプリでその時間の既知天体と照らした」


画面を切り替える。

数値が並び、比較結果が表示される。


「でも載ってなかった」

「それで、うち一人やなくて、部のみんなでも確認した」

「同じ場所の画像で見比べて、観測条件も見直して、それで国立天文台に送った」


茂之も、横から真剣に見ている。

圭一は黙って聞きながら、ときどきうなずく。


香奈美の声は、家で母に反発している時のものと違った。

少し早口にはなるが、芯がある。

自分がわかっていることを、相手にもわかるように伝えようとする声だ。


栄子は、その話を聞きながら、観測会で見た部員たちの目を思い出していた。


あの子たちは、本当に見ていた。

願っただけではない。

意味づけしただけでもない。

空の中の小さな変化を、自分たちで見つけようとしていた。


④ KANAMI COMET の重み


香奈美は最後に、国立天文台からの通知を表示した。


「これが結果」

「最初は小惑星かもしれんって話やったけど、詳しい解析で、土星の軌道よりさらに外側で見つかった彗星ってわかった」

「それで、発見者名から、KANAMI COMETって仮称がついた」


栄子は、その文字を見つめた。


KANAMI COMET


自分の娘の名前が、空の中に刻まれる。


それは教団がよく使うような

“真理”

とか

“導き”

とかいう曖昧なものではない。

具体的で、確認可能で、世界の誰が見ても同じ手順でたどれる現実だった。


栄子の胸の中に、じわじわと何かが広がる。


嬉しさ。

驚き。

そして、少しの恥ずかしさ。


自分はこの間、この成果に“神様が見つけた”という言葉を差し込んでしまった。

でも今、こうして順を追って見せられると、それがどれだけ乱暴だったかがよくわかる。


香奈美が静かに言った。


「うちだけの発見じゃない」

「部のみんなも、先生も、国立天文台の人も、みんなで確認してここまで来た」

「こうやって、ちゃんと一個ずつ確かめた結果なんや」


その言葉は、彗星の話だけではなかった。


一個ずつ確かめる。


それは、今の家に一番足りていないことでもあった。


⑤ 栄子が家を選ぶ


話が終わったあと、しばらく誰もしゃべらなかった。


栄子は画面を見たまま、ぽつりとつぶやく。


「……すごいね」


その声には、今までとは違う柔らかさがあった。


香奈美は、少しだけ肩の力を抜いた。

圭一も、黙って栄子を見ている。


栄子はさらに言った。


「ちゃんと……見て、確かめて、ここまで来たんやね」


香奈美は小さくうなずいた。


「うん」


栄子の目に、うっすら涙がにじむ。

それは、教団で“わかってもらえた”時の涙とは違った。

もっと生身で、もっと小さい、でも本当の感情だった。


その瞬間、栄子のスマホが震えた。


また藤代だった。


栄子は画面を見た。

しばらく迷った。

そして、家族の前で言う。


「……主人に変わります」


その声に、圭一も香奈美も一瞬固まる。


栄子は、本当にスマホを圭一へ差し出した。


「お願い」


その一言には、まだ完全に教団を断ち切れていない弱さも、

でも少なくとも今は“家の側に立とうとしている”気持ちも混ざっていた。


⑥ 初めての直接対話


圭一はスマホを受け取った。


これが、教団関係者と初めて直接話す瞬間だった。


「……真田圭一です」


電話の向こうで、一瞬だけ間があく。

おそらく藤代も、まさか夫が出るとは思っていなかったのだろう。


だがすぐに、いつもの柔らかな声が返ってくる。


「突然すみません。真田さんのことで、少し心配しておりまして」

「私たちはただ、奥さまの心を守りたいと思っているだけなんです」


圭一は、その言葉の滑らかさに、逆にぞっとした。


責める響きはない。

あくまで親切。

あくまで心配。

その顔を崩さないまま、人の家庭に入り込んでくる。


藤代はさらに続ける。


「私たちの教義は、長年にわたり多くの人の心を救いあげてきました」

「苦しんでいた方が、自分を取り戻し、家族との関係を見直し、生き方の軸を見つけてこられたんです」

「奥さまも今、大切なところにおられて――」


そこで圭一が、はっきり遮った。


「それじゃあ、何で多くの詐欺被害が出てるんですか」


電話の向こうが、ぴたりと止まる。


圭一は続ける。


「俺は警察官として、たくさんの被害者の相談に乗ってきた」

「宗教や開運商法の名目で、家族を壊され、金を吸われ、借金を背負わされとる人を、実際に何人も見てきた」

「数千万円失った家族も、自殺に追い込まれた人も、一家離散した例も、俺は知っとる」

「それはどういうことなんですか」


藤代は、明らかに答えを探していた。


「それは……一部の誤解や、外部の悪意ある情報で――」


「誤解で百万円の壺契約させるんですか」

「誤解で四十万円の祈祷料取るんですか」

「誤解で教育ローンの名目で二百万円献金させるんですか」


その瞬間、電話の向こうに、わずかな緊張が走った。


栄子も、香奈美も、その空気の変化を感じた。


圭一は、低く、冷たく続けた。


「あなたら、まずい相手を敵に回したと思ったほうがいい」

「俺は感情で言うとるんやない」

「何が起きとるか、全部確認して、証拠も集めとる」


藤代は、そこで初めて“やわらかい相談員”の声を崩しかけた。


教団側にも、

これはまずい

という反応が確かに出ていた。


⑦ 家族の側へ少しだけ


電話を切ったあと、居間にはしばらく沈黙が落ちた。


圭一はスマホを机に置く。

その手は静かだったが、指先には力が入っていた。


香奈美は、父の横顔を見ていた。

普段の父とも、怒鳴っていた父とも違う。

相手の理屈を正面から受け止めた上で、逃げ道をふさいだ顔だった。


栄子は、そのやりとりを聞いて、強く揺れていた。


今まで教団側は、

“家族はあなたを理解しない”

“真理を知らない人たちが邪魔をする”

そう言ってきた。


でも今、圭一は感情だけで怒鳴ったのではなかった。

被害の実例も、金額も、契約も、全部現実として問い返した。


その現実の前では、藤代のやわらかな言葉も、少し崩れた。


そのことを、栄子も確かに感じ取っていた。


⑧ 一つ目の分岐を越えて


その日、栄子は静養先へ行かなかった。

家を出るという誘惑より、香奈美の話を聞くことを選んだ。

そして、教団側からの呼びかけに、夫を通した。


それはまだ、完全な離脱ではない。

むしろ、ほんの最初の小さな分岐を越えただけだ。


けれど、教団側にとっては明らかな誤算だった。


栄子はまだ“完全にこちら側”だと思っていたのに、

家族の側で、

本物の空と、

本物の努力と、

本物の問いに触れてしまった。


そこに、KANAMI COMET という確かな現実があった。


教団が差し出す曖昧な“真理”ではなく、

誰が見ても同じ手順でたどれる光が、家の中にあった。


そしてそれは、栄子の心の中で、まだかすかにだが、教団の理屈とぶつかり始めていた。



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