ははをよぶやさしい声
第三章 母を呼ぶやさしい声
① 惣菜売り場の昼下がり
金沢の午後は、晴れていてもどこか湿り気を帯びていた。
真田栄子が働く地元スーパーでは、昼の混雑がようやくひと段落し、惣菜売り場のバックヤードにも少しだけ落ち着いた空気が流れていた。
フライヤーの油のにおい、煮物の甘じょっぱい湯気、パック詰めされたコロッケの熱気。
慌ただしい時間が過ぎたあとの職場には、独特の疲労と安堵が混ざっている。
栄子は、揚げたてのアジフライを並べ終えると、手袋を外して小さく肩を回した。
「はあ……今日はなんか腰にくるわ」
その声に、近くでポテトサラダを小分けにしていた同僚の加藤彩也子が振り向いた。
「栄子さん、朝からよう動いとるもん。そら疲れるわいね」
加藤彩也子は、栄子より少し年下で、同じ惣菜部門で働いている。
明るすぎず、でも人当たりがよく、相手の話をちゃんと聞く人だった。
家庭では夫の和也と、娘の里香との三人暮らし。
栄子とは仕事の手際も合い、自然と休憩時間に話すことが増えていた。
「彩也子さんのほうこそ、朝から唐揚げ山ほど揚げとったやろ」
「うちはもう慣れたわ。けど、栄子さん、最近ちょっと顔つかれとるよ」
その言い方がやわらかかったせいか、栄子はつい苦笑いした。
「そんな顔しとる?」
「しとるしとる。なんか、ずっと気ぃ張っとる顔や」
図星だった。
栄子は少し手を止め、視線を下に落とす。
「……娘のことやわ」
彩也子は何も急かさず、「うん」とだけ言った。
それだけで、栄子の胸の奥にたまっていたものが、少しだけほどけた。
② 否定されないだけで
休憩室に入ると、自動販売機の低い音と、遠くの売り場から聞こえてくる館内放送がかすかに混ざっていた。
栄子は紙コップの温かいお茶を両手で包みながら、ぽつぽつと話した。
「中二の娘なんやけどね、別に悪いことしとるわけじゃないんよ。勉強もちゃんとするし、部活も頑張っとるし」
「うん」
「でも、最近ちょっとそっけないというか……何聞いても“別に”とか“普通”とかばっかりで」
「そうなんや」
「たぶん、ただの反抗期なんやろうけど。でも、なんか気になってしまって」
彩也子は途中で口をはさまなかった。
「それくらい大丈夫やろ」とも言わない。
「考えすぎや」と笑い飛ばすこともしない。
ただ、栄子の言葉が途切れるたびに、静かにうなずいていた。
それが、栄子にはありがたかった。
家では圭一が「誰でも通る道や」と言う。
それは正しい。
正しいのだけれど、その正しさの前では、自分の不安が少し“気にしすぎ”みたいに扱われている気がしてしまう。
けれど今、彩也子は違った。
「栄子さん、よう見とるんやね」
そのひと言に、栄子は思わず顔を上げた。
「え?」
「だって、ちゃんと見とらんかったら、そんな細かい変化気づかんやろ。仕事もしとるのに、家のことも見て、娘さんのことも気にしとる。簡単にできることじゃないよ」
栄子は、返す言葉を失った。
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
心配しすぎ。
考えすぎ。
そのうち落ち着く。
そういう言葉は何度も聞いた。
でも、「頑張ってる」と言われたことは、あまりなかった。
そのたった一言が、胸にじんわりしみた。
「……うち、気にしすぎなんかと思っとった」
「気にしすぎるくらい気にできるんは、それだけ大事に思っとるってことやろ」
彩也子はそう言って笑った。
押しつけがましくない、やわらかな笑みだった。
③ 小さな誘い
数日後の昼休み。
売り場の忙しさが落ち着いたころ、彩也子はふと思い出したように言った。
「そうや、栄子さん」
「ん?」
「今度、子育てのこと話せる集まりみたいなんあるげんけど、もし気になるんなら行ってみる?」
栄子は手を止めた。
「集まり?」
「うん。そんな大げさなもんじゃないよ。相談会いうか、お茶飲みながら話す会みたいな感じ。子どもの年ごろのこととか、家でどう接したらええかとか、みんなで話すんやて」
「へえ……」
「うちも前、里香がちっちゃい頃に一回行ったことあるんやけど、けっこう気が楽になったよ」
彩也子の娘、里香は香奈美よりだいぶ年下だ。
けれど、子どもを持つ母親同士、通じるものはある。
栄子は少し考えた。
「でも、そういうの、うちみたいなんが行ってもいいんかな。別に、うちの子、何か問題起こしとるわけでもないし」
「そんな人ばっかりやよ」
彩也子はすぐに答えた。
「みんな、ちょっと聞いてほしいとか、どうしたらいいかわからんとか、その程度や。深刻な話せんなん会でもないし」
「そうなんや」
「むしろ、“これくらいで相談していいんかな”って思っとる人のほうが多いかもしれん」
それを聞いて、栄子は少しだけ肩の力を抜いた。
宗教だの思想だの、そんなものを感じさせる言い方はまったくなかった。
地域の母親同士の気軽な相談会。
それくらいの印象だった。
「無理にとは言わんよ。でも、栄子さん、最近ほんとに一人で抱え込みすぎやと思うし。誰かに“それでええんやよ”って言うてもらえるだけでも違うし」
“それでええんやよ”。
その言葉が、また胸に引っかかった。
④ 家で言えないこと
その日の夜。
栄子は夕食の片づけをしながら、彩也子の話を何度も思い返していた。
子育ての相談会。
お茶を飲みながら話せる会。
頑張ってると認めてもらえる場所。
たったそれだけのことなのに、妙に心がそちらへ向いた。
家では、弱音を吐きにくい。
圭一はやさしい。
だが、仕事柄か、つい結論を急ぐところがある。
「大丈夫や」
「様子見や」
「考えすぎや」
それは安心させようとしてくれているのだとわかっている。
だが、栄子が欲しいのは正解ではなく、今のこの不安をいったん受け止めてもらうことなのかもしれなかった。
「お母さん、醤油どこ?」
と茂之が聞けば、すぐに手が動く。
「明日ちょっと帰り遅くなる」
と圭一が言えば、夕飯の段取りを考える。
家の中で栄子はいつも“回す側”だった。
止まって不安を言葉にする時間なんて、ほとんどない。
だからこそ、「話していい」と言われただけで、少し救われた。
二階では香奈美の部屋の灯りがついている。
何も問題はないのかもしれない。
本当に、ただの年ごろなのかもしれない。
それでも、もし何かあるなら。
もし、自分の接し方でこの先もっとこじれてしまったら。
そう思うと、じっとしていられなかった。
⑤ ほんの少しのためらい
数日後。
仕事帰りの更衣室で、栄子はロッカーの前に立ちながら、彩也子から渡された小さな案内カードを見ていた。
白地に、やさしい色合いの花のイラスト。
そこに丸い字で書かれている。
「お母さんのための子育てほっと相談会」
開催場所は金沢市内の小さな会場。
日時は週末の午後。
参加費はお茶代程度。
それ以上の情報はほとんどない。
主催団体の名前も、聞き慣れないが、特に怪しげには見えなかった。
「どうする?」
着替えを終えた彩也子が、さりげなく声をかける。
栄子は案内カードを見つめたまま答えた。
「ちょっとだけ、気にはなっとる」
「なら、一回のぞいてみたらええよ。合わんかったら、次から行かんかったらいいだけやし」
「そうやね……」
「うちも最初そうやったし。行ったからって何か入らんなんとか、そういう堅い感じじゃなかったよ」
その言葉に、栄子は少し安心した。
あくまで、話を聞いてもらえる場所。
それ以上でもそれ以下でもない。
少なくとも、今の栄子にはそう見えた。
「彩也子さんも来るん?」
「今回は用事あって行けんげん。でも、知っとる人おるし、大丈夫やと思う」
“知っとる人がおる”。
そのひと言が、最後のためらいを少し薄くした。
知らない場所へ一人で行くのは不安でも、彩也子のつながりなら、変なところではないのだろう。
そう思えた。
⑥ やさしい言葉ほど
週末の前夜。
栄子は誰にも言わずに、案内カードを財布にしまった。
圭一に話せば、おそらくこう言うだろう。
「そんなもん行かんでもええ」
「気にしすぎや」
「そのうち落ち着く」
たぶん悪気はない。
でも今は、その言葉を聞きたくなかった。
行ったところで何か大きく変わるわけではないかもしれない。
ただ、今の自分の気持ちを誰かに言葉にしてもらえたら。
「それでいい」と言ってもらえたら。
そのためだけに、一度行ってみよう。
栄子はそう思った。
けれど、やさしい言葉というものは、ときに人の警戒心をいちばん静かにほどいてしまう。
強引な勧誘なら、誰だって身構える。
露骨な押しつけなら、すぐに距離を取る。
だが、
「あなたは頑張っている」
「不安になるのは当然」
「一人で抱えなくていい」
そんな言葉は、弱っている心にまっすぐ届いてしまう。
しかも、それが本当にやさしい声で語られたなら、なおさらだった。
⑦ まだ戻れるはずだった
その夜、栄子は布団の中で目を閉じた。
隣では圭一がもう寝息を立てている。
二階には香奈美と茂之がいる。
真田家はまだ、どこにでもある普通の家庭のままだった。
娘はただ、一人の時間が欲しいだけ。
母はただ、その気持ちを読み違えているだけ。
それだけなら、いつか話し合って、すれ違いも埋められたかもしれない。
まだ、戻れるところにいた。
この時点では、ほんの小さな相談会に行くだけ。
そのつもりだった。
けれど、人が何かを失っていく時というのは、
最初から崖に飛び込むのではない。
たいていは、
「これくらいなら大丈夫」
「少し話を聞くだけ」
「自分のためじゃなく、家族のため」
そんな、小さくてもっともらしい一歩から始まる。
栄子はまだ知らない。
明日、自分が足を運ぶその場所が、
“母親としての不安”をやさしく撫でながら、
少しずつ別の世界へと引き込んでいく入口であることを。




