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国家を超える個人  作者: 福鳥シン
第3章:暗躍編
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第29話:宿す者

「女の幸せは、好いた男に愛されることでばかりでは無い。好いた男が立派に出世し、皆に囲まれているのを眺めることこそ、一番の幸せ」


これは日本の戦後を代表するデカダン作家の言葉であり、その基準に照らせばアイから見てヤスシという人物は申し分なかった。

初めて会った時、彼は財務大臣だった。

けれど、その数か月後には総理大臣になっていた。

テレビをつければ毎日のようにその姿が映り、海外首脳と肩を並べ、国会では野党の追及を受けながらも平然と答弁する。 あの時、自分たちの前で穏やかに笑っていた男が、今やこの国の頂点に立っている。

それだけで、高校生だったアイには十分に眩しかった。

国の頂点に立ち、多忙を極めるヤスシは、それでも多忙な合間を縫って時間を作ろうとしてくれた。


「来週、昼なら少し空けられそうなんだ」

「そちらへ行く予定がある。もし都合が合うなら」


そんな連絡が、時折本人から届く。

会う場所は決まってホテルのラウンジか、会員制の店の個室だった。 帰り際には、小さな箱を渡されることもある。

高校生の自分には縁の無かった海外ブランドのアクセサリー。 予約の取れないレストラン。 名前だけは知っていた高級ホテル。

ヤスシは、アイにそういう世界を惜しげもなく見せてくれた。

優しくされていたとは思う。

大切にも、されていたのだろう。

けれど、その感情が恋だったのかと問われれば、アイにはよく分からなかった。

尊敬や憧れはあった。 国の頂点に立つ男に特別扱いされる高揚感もあった。

だが同時に、親子ほども歳の離れた相手に対して、燃えるような恋心はどうしても抱けなかったのだ。


――わたしは、普通の女の子が経験するような恋愛をせずに青春を終えるのかも


高校卒業を前にして、そんな不安の皮を被った強欲が、アイの中で芽生えた。


「高校生活最後の思い出作り」


そんな免罪符を握りしめてアイが選んだのが、久世マサモトだった。

久世は陸上の特待生として桐桜学園に入学してきた、クラスメイトである。

その引き締まった体躯は、男盛りを過ぎて腹回りに肉の付いたヤスシとは正反対。

顔立ちにしても、艶やかで凛々しい久世と、年相応のほうれい線と皺が刻まれているヤスシとでは比べるべくもない。

共通点があるとすれば、ふたりとも同じ女性を好いているという、その一点だけだった。


中学時代と同じ轍を踏まないよう、それまでのアイは実に慎重に立ち回っていた。

特に異性に対しては、好感は抱かせても、好意を持たれたら距離を取る。

その方針に則り、いつからか疎遠になっていた久世。

卒業間際のタイミング、アイはそんな彼に対して僅かばかりの秋波を送った。


「わたしね、久世くんことはずっとカッコいいなって思ってたよ」


そう言うアイの目には、相手のことなど微塵も映っていなかった。

クラスの女子たちが黄色い声援を送る久世を跪かせることなど、造作もない。

知りたいのは、その先で自分が何を見て、どう感じるか。それだけだった。

その好奇心は、しかしアイの人生に取り返しのつかない結果となって返ってくることとなる。


つまり、望まぬ妊娠と、悩んだ末の出産だ。


そしてその子の父をヤスシとしたことが、アイの人生における最大の欺瞞だった。

結局のところ、アイがこれまでに肌を許した男性は2人しかいない。ヤスシと、久世だ。

そしてアイの裸体を隠し撮りしたとしたら、犯人は久世以外考えられない。

問題は、なぜ久世がそのようなことをしたかである。

それなりに長い沈黙が流れた室内で、タカシは焦れる様子もなくグラスの酒を舐めていた。

アイもグラスを手に持ち、ひと口啜る。

その様子をチラリと見たタカシが、徐に口を開いた。


「どう、わかった?」

「久世マサモトさんですよね」

「違うと言ったら?」

「……あり得ません。もしそうだとしたら、写真の女性はわたしではありません」


きっぱり言い切ると、タカシは「なるほど……」と呟いた。


「ちなみに、最後に久世選手と会ったのはいつ?」

「もうだいぶ前です。ヤスシさんが亡くなった後のことだから……8年前?」


久世とは、高校卒業を機に疎遠になった。無論、子を身籠ったことがその原因だ。

ただし、ヤスシがが死んでからはアイの方から連絡し、何度か関係を持った。

ヨリを戻そうなんてつもりは毛頭ない。

ただ、陸上の世界で順調に実績を積み上げていたリカコの実父に、きっちり責任を取らせてやろうというのがその目論見。


露骨な脅迫などはするまでもない。

リカコが存在する事実と、ベッドの上での快楽。

それだけで久世は、多額の金銭をアイに渡した。

その一方、自分の裸が撮られているとは微塵も考えていなかった。


「8年前なら、さすがの久世選手もこの画像を俺に提出してからはキミに会ってないってことになるな」

「やはり久世さんなんですね……でも、なぜ?」

「いやぁ、親父の生前、リカちゃんを紹介された時から俺は疑ってたよ。それで検査してクロって分かったけど、相手が分からん。それでしばらく泳がせておいたら、久世選手が出てきたって訳。それで、彼にはちょっと協力してもらったんだよ……親父の女に手を出した事を不問にする代わりにね」


――そういうことか


自分に夢中だったはずの久世から連絡が急に途絶えた理由が、8年越しに分かった。

あの時から、いや、それ以前から目の前の男は全てを把握していたのだ。

にも関わらず、検査結果の日付を態々アップデートして相手をミスリードする小細工はいかにもタカシらしい。


――それに、検査結果があるのにこんなものまで入手して、それを何年も秘密にしていたなんて


「秘書として雇った時点で、わたしには首輪が嵌められていたわけですね」

「首輪だなんておおげさな!ちょっとした保険だよ」

「……それで、今更こんなものを見せて、わたしに何をお望みですか?」


その問いにタカシは答えず、手酌でウィスキーをグラスに注いだ。

強い酒精を楽しむ様に、鼻の近くでグラスをまわすタカシ。


「シュウジくんを引き取れとのことでしたら――」

「『宿す者』って言葉、聞いたことある?」


焦れて声をあげたアイに被せて、タカシが徐に言葉を発した。

聞き慣れない単語に、アイは眉を寄せる。


「宿す者は国家の超重要機密。知っているのは島津総理と俺くらいだ」


――逃げなきゃ


そう思った時には、もう遅かった。


「これまでにもダンジョンから黄色い石が発見されてるのは知ってるよね? 魔素の塊みたいなヤツ。公開されてるのはそこまでだけど、実はアレ、人体の不具合を癒す効果があるんだ」


軽い口調だった。

まるで雑談でもするみたいに、国家機密を口にする。


「……そんな話をわたしにしても大丈夫なんですか?」

「うん、大丈夫。アイさんが不用意に口外しない限りはね」


柔らかい口調とは裏腹の、眇めるような目付き。

その視線から逃れるように目を伏せると、間接照明のオレンジ色の光が、アイの視界で不規則に揺れた。

極度の緊張で喉の奥がカラカラに渇き、思わず息を呑む。


「で、その石を女性に『孕ませる能力者』が宿す者だ。もっとも、確認されてるのは過去に一人だけだけどね。扇屋タキって男だ」

「……まさか、シュウジくんが?」

「そこはまだ断定できない。ただ、共通点は多い」


タカシが僅かに身体を傾け、革のソファがギシッと重く軋む音が室内に響いた。


「そもそも、アイさんも不思議だったでしょ? なんで俺が、背景も何もない孤児を養子にまでしたのか」


――これで合点が行った


アイはずっと腑に落ちなかった。

親のいない子供が扱いやすいのは分かる。

だが、だからといって魔素噴火の生存者を死んだことにしてまで囲い込む理由としては弱い。


「最初から順序が逆だったんですね」


シュウジが宿す者であれば良し。

もしそうじゃなくても、あれだけの容姿で頭の回転も悪くないのだ。養子としては上々と言ってよい。


――結局、彼もわたしと同じ『保険付き』なのね


「それで、わたしに何をさせるつもりなんですか?」

「アイさんには石の母体になって欲しいんだよ」

「つまり……わたしにシュウジくんと関係を持てと?」


目の前の男は、自分の裸も過去も全部知っている。

そう思うと、自然と声が震えた。


「最終的にはそういう話になる」


タカシはあっさり認めた。


「ただ、ここが難しいんだよ」


珍しく、少しだけ言葉を選ぶような間があった。


「普通の妊娠と違って、一回ヤれば終わりじゃない。タキの時も、『孕んだはず』の女が石を産む確率は低かった。流産みたいな現象が頻発したんだ」

「……原因は?」

「長年不明だった。でも、お披露目の後にシュウジから聞いた話で仮説が立った」


そこでタカシは、わずかに身を乗り出した。


「恐らくだが、カギは『感情』だ」


部屋の空気が、静かに重くなる。


「宿す者側か、女側か、それとも両方か。そこまでは分からない。ただ、単純な性行為では駄目なんじゃないかと思ってる。強い感情――愛情でも執着でもいい――それが必要なんじゃないかってね」


――つまり


自分は単なる母体ではなく、感情込みでシュウジへ近付くことを期待されている。


「……だから同居ですか」

「そういうこと。距離は近い方がいい」


タカシは悪びれもなく頷いた。


「ですが、リカはどうするつもりなんです?」


その瞬間。

タカシの返答は、あまりにも早かった。


「リカちゃんは保険だ」


カラン、と氷が鳴った。


その音だけが妙に大きく聞こえた、次の瞬間、アイは胃の奥を掴まれたような感覚に襲われた。


「もしアイさんが魔石を孕まなかった場合、別の母体で検証する必要がある。でも宿す者の情報は外へ漏らせない。なら、候補は身内に限られる」


淡々とした説明。

そこには倫理も躊躇も存在しない。

タカシの独善的な合理性だけが、そこにはあった。


――ふざけるな


脳内を焼き尽くすほどの激しい怒りが、声にならない絶叫となって反響した。


自分が犠牲になるのは、この際仕方がない。

今出川親子、それに最愛の娘を騙してきた報いだと割り切れる。

それでも、リカコに手を出されることだけは絶対に許容できない。


「わたしはどう扱って頂いても結構です」


アイは長年培ってきた完璧な笑顔の仮面を顔に貼り付けた。

しかし、膝の上に置かれた空の手は、爪が手のひらに食い込むほど固く握りしめられている。


「ですが、リカに手を出すというなら――」


間接照明の影に沈むタカシの目を、真っ直ぐに射抜く。


――刺す


その一念を視線に込めると、タカシが「フッ」と息を吐いて視線を外した。


「安心して。リカちゃんは最終手段だ。俺だってアイさんと揉めたいわけじゃない」


そう言って肩を竦める。

その軽薄さが、却って恐ろしい。


「それに、すぐ検証するつもりもない」

「……どういう意味ですか?」

「シュウジはまだ未成年だからな。父親の秘書と関係を持ってました、なんて話になったら、さすがに俺のキャリアも危ない」


ようやく、少しだけ現実的な話が出てきた。

アイは微笑みを浮かべて問い掛けた。


「誰かが裏切るとお考えで?」

「そうねぇ……」


タカシは空になったグラスを見下ろし、小さく舌打ちした。

棚から別のボトルを取り出し、氷も足さずに琥珀色を注ぐ。


「まず、ヨリコさんが怖い」


その名前を聞いて、アイは目を瞬かせた。


「島津総理が、ですか?」

「宿す者の検証自体には乗り気、と言うより前のめりだよ。だからこそ、俺がシュウジを養子として囲った件について、どこまで納得してるかは怪しい」


タカシは深くソファに背を預け、ブラインド越しに差し込む渋谷の夜の光に目を細めた。


「平時ならいざ知らず、選挙は目前、それでいて党の支持率は渋い。そんな状況だから、今のうちからシュウジを使えるだけ使いたいと考えていてもおかしくない」


嘲るような笑みを消してから、タカシが言葉を継いだ。


「で、もしアイさんが魔石を孕むことに成功したら、もう歯止めは利かないだろう。なんとしても俺からシュウジを奪おうとするはずだ。あの人が本気になれば俺も抗い切れないが、下手に先走って『息子と秘書の爛れた関係』ってカードをくれてやる義理もあるまい」

「……失敗した場合でも危険では?少なくとも、成功すれば利用価値を示せます」

「どっちにしろだ。今の段階で、俺がそこまでしてリスクを負う理由は無い」


腹心でありながら、完全には信用できていない。

それがアイにもよく分かった。


「ヨリコさんもそうだけど、俺はシュウジも気になってる」

「どういう意味ですか?」

「お披露目会の後、シュウジはダンジョンについて知ってることを全部話す約束だった。実際、俺たちの誰も知らない情報をいろいろ持ってた。でも――」


タカシはそこで言葉を切り、指先でグラスの縁をなぞった。


「宿す者の話だけは、一切出なかった」


アイは少し考えた後、首を傾げた。


――あの素直そうな子が、わざと隠し事をするかしら?


だが、タカシの考えは違った。


「もちろん、本当に知らなかった可能性もある。でも、もし知った上で隠してたなら、話は別だ」


その警戒心は、もはや猜疑に近かった。


「だから、現時点でアイさんが露骨に誘惑するのは悪手だ。俺の指示だって悟られるかもしれないし、後から『未成年の時に関係を強要された』なんて言われても面倒だ」


そこまで先を読むのか。

アイは怒りを通り越し、半ば感心すら覚えていた。


「だから来年の春、アイツが成人するまでは待つ。その間に距離を縮めて欲しい」

「それなら、やはり同居は危険では?春を待たずに肉体関係が生じかねないですもの」

「予防線は張るよ。俺からもシュウジには釘を刺す。もし迫られたら、一度だけ断って欲しい。それでもシュウジが諦めないなら……その時は受け入れてやって欲しい」

「……その時点で、宿す者の情報を持っていないと判断できるから?」

「そういうこと。加えて、アイツが勝手に暴走する分には、情報が外に漏れるリスクも低い。万が一の場合でも、俺にも知らぬ存ぜぬで逃げる道が残る。検証を前倒しで進めてもリスクは限りなく低い」


ニヤリと笑うタカシ。


「お願いしても大丈夫そう?」


拒否権など、最初から存在しない。

アイはゆっくり息を吐いた。


「……前向きに検討します」

「そっか! じゃあ頼みましたよ、お義母さん!」


タカシは笑いながら立ち上がり、アイの肩をポンと叩いて部屋を出ていった。


ドアが閉まったその瞬間、笑顔の魔法が自然と解ける。

独り残されたアイは、しばらく虚空を見つめ続けることしか出来ない。


自分も大概、冷めた人間だと思っていた。だが、先程まで相対していた男は次元が違った。

気付けば、グラスの中の氷は完全に溶けていた。

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