第27話:魔法が解ける時
「涙は女の武器」という言葉がある。
泣くことで相手に心理的な圧を掛け、その後の展開を自分に有利な方向へ運べるケースはある。しかし、泣くことは同時に自分の弱みを相手に預ける行為でもある。
女の涙は、武器は武器でも諸刃の剣なのだ。
そんな危うい武器よりも、もっと取り回しの良い方法があることを、清水谷アイは10代前半の頃から理解していた。
それは笑うこと――相手に微笑みかけることだった。
両親が離婚したのは、アイが小学校高学年の頃。親権を持つ母親が再婚したのは、中学生に上がって間もない時分だった。相手も再婚で、高校生の息子がいたため、4人家族としての再出発となった。
新しい家庭での居心地は、決して良いものではなかった。
子供が泣けば「うるさい!」と怒鳴り、時には暴力まで振るう実父の影響で、アイは幼い頃から感情を表に出さなくなっていたのだ。
その無表情さを「何を考えているかわからない」と警戒する新しい家族。
そして、人見知りな上に実父との関係から男性への苦手意識まで抱えていたアイ。
互いに距離を測りかねたまま、ぎこちない時間だけが過ぎていった。
そんな関係が変わったのは、魔法使いを自称するひとりの女性に出会ったことがきっかけだった。
中学で開かれた講演会にゲストとして招かれた、同校の卒業生である女性起業家の山科マコト。
山科は高校時代、壮絶なイジメを受けていた。家では母の再婚相手から暴力を振るわれ、親戚の家を転々とした末に高認試験を経て名門大学へ進学。その後、外資系投資銀行を経て、自ら学校法人を立ち上げた人物である。
そんな彼女は、自分が成功したのはとある「魔法」が使えるからだと言った。
「わたしが使える魔法、それは笑顔です」
普通の人間が言えば、陳腐な自己啓発にしか聞こえない台詞だっただろう。
だが山科は、その笑顔で周囲を味方につけ、自分を奮い立たせ、人生を切り拓いてきたのだと断言した。
「嘘だと思うなら、まずは一週間だけでも意識して笑ってみてください。自分から笑いかければ、不思議と周りも笑い返してくれるようになります」
そう言う山科の笑顔は半信半疑、つまりアイに「半分は本当かも」と信じさせるには十分だった。
効果は、一週間もしないうちに表れた。
義父も義兄も、急に自分に優しくなったのだ。
学校でも、それまでは端の方で数人とだけ交流していたのが、気付けばクラスメイトたちに取り囲まれるようになっていた。
魔法使いから教えられた魔法の力を目の当たりにしたアイは、その効力に魅了された。
だが、自分の笑顔が必ずしも相手を捉えるとは限らない。
いくら微笑みかけても、自分に興味を示さない人間はいる。
その最も身近な例が、今出川タカシだった。
タカシはアイに対して好意的ではあった。しかしそこに、個人的な欲望や嗜好はまるで見えない。あるのは、自身の政治活動に対する有用性――「使える人間」としての評価だけだった。
そんな、どこまでもフラットな視線を崩さないタカシから話があると言われたのは、12月上旬。シュウジのお披露目会があった、その翌週のことであった。
「この後時間ある?一杯付き合って欲しいんだけど」
タカシからそう水を向けられたのは夜の9時前、後援会の会合を終えて帰る車中でのことであった。
私的な飲みの誘いなんて珍しいが、タカシが相手ではセクシャルな展開になることもないだろう。
――いや、そもそも私的な話じゃないのかも
「もちろん、大丈夫ですよ!でも、娘の就寝前には帰らせてください。おやすみくらい言いたいので」
アイはそう言ってリカコに遅くなる旨のメッセージを送る。
ふたりを乗せた車は、渋谷にある事務所の前で停まった。
選挙期間でも無ければ、この時間にスタッフが残っていることはない。
鍵を開け、電気や空調をつけてとやっている間に、タカシはスッと奥の執務室に吸い込まれていった。
ロックグラスふたつに氷を入れたアイスペール、チェイサーを盆に載せて執務室に入る。室内は天井の照明が落とされ、デスク脇のフロアスタンドだけがオレンジ色の明かりを室内に投げていた。
ブラインドの隙間からは渋谷の街明かりが縞模様で差し込み、タカシのシルエットの輪郭を淡く縁取っている。
タカシはと言えば、既にジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩めた状態でソファに身を沈めていた。
テーブルの上には、1本のウィスキーボトルが置かれていた。銘柄はオールド・パー。
そのずんぐりとしたボトルが、間接照明を受けて黒々とした存在感を卓上で放っている。
「この部屋にはスコッチしかないけど、アイさんイケる口だっけ?」
「……強くはないので、一杯だけなら」
タカシは「わかった」と言うと、手早くグラスに氷を入れ、その上でボトルを傾けた。
「先生、わたしが――」
「いいから、いいから」
アイを制したタカシが目分量入れたせいで、どちらのグラスも注がれた液量はダブルを通り越してトリプルに近い。
「まずは、お疲れ様」
「お疲れ様です」
アイはグラスを手に持つと、タカシのより低い位置でその縁を近づけた。
「思えば、アイさんとは長い付き合いになるねぇ。親父が死んだのが9年前だから、初めて会ったのは10年以上前ってことでしょ?」
「はい、そうなりますね」
アイは微笑みながら相槌を打っていたが、心中は穏やかとは言い難かった。
10年来の付き合いがある一方で、こうしてタカシとサシで杯を酌み交わすことなど、初めてのことだったからだ。
――いったい何の話だろう?
シュウジを引き取る話なら既に断ったはず。それを無理に押し通すようなタカシではないだろう。
アイは手に持っていたグラスを口に近付け、一口啜った。
氷に冷やされた冷たい液体は、 バニラや蜂蜜の香りを湛えた、どこか温かみのある味わい。
「このお酒、口に合う?」
「はい、クセがないし香りも優しくて、わたしは好きです」
「それはよかった。オールド・パーは、明治の新政府が西洋に派遣した岩倉使節団がお土産に持ち帰ったことでも知られる、保守派の酒だ。以来、吉田茂を始めとして右派の政治家に愛飲者が多い――その中には俺の親父も含まれる」
「ヤスシさんもですか?」
タカシの言葉は意外だった。
アイの記憶でヤスシが飲む酒と言えば専らビールだったからだ。
「知らないのも無理はない。昔は酒豪で知られた親父だったが、50を境に思うところがあったのか、蒸留酒は口にしなくなったからな」
「そうだったんですね……」
「アイさんは親父が愛飲した酒も好きだし、親父の子供も愛してくれている。そう思っていい?」
質問の真意は掴めないまま、それでもアイは「はい」と答えた。
「ちなみに俺も親父の子供だけど――」
「もちろん、リカコのことですよ」
タカシの諧謔に、冗談めかして返す。
しかし、そこでタカシは押し黙った。
どこかで救急車のサイレンが鳴り、遠ざかっていった。街の音はブラインド越しでも途切れない。それなのに、この部屋の中だけは妙に静かだった。
グラスの中で氷がひとつ、音もなく崩れた。
「嘘」
「えっ?」
突然の呟きに、思わず訊き返していた。
「リカちゃん、親父の子供じゃないんでしょう?」
一瞬、視界をホワイトアウトする感覚が襲った。
しかし、アイは反射的に顔の筋肉を動かし、いつもの完璧な微笑みを作って見せた。
「もう、タカシさん……冗談が過ぎますよ!」
いつもなら、それでタカシは破顔する。笑って「なんだ、ドッキリにもならなかったね」なんて軽口を飛ばすはず。
しかし、対面の男は笑わなかった。無表情のまま立ち上がり、壁際の書類棚まで行って茶封筒を取り出すと、テーブルの上に滑らせる。
この建物に入ってからずっと感じていた、なんとなくの嫌な予感。
アイにはその息苦しさの正体が、目の前の封筒の中にある気がしてならなかった。
恐る恐る中に入っていた1枚の紙を取り出すと、薄暗い室内の中でもその表題が目に入る。
親子鑑定結果報告書――
その文字を見た時、心臓が一拍止まった。
アイの視線は、紙面の中段に並ぶアルファベットと数字の羅列を滑り、太字で書かれた末尾の一文でピタリと止まった。
『被検者A(今出川ヤスシ)と被検者B(清水谷リカコ)の間に、生物学的親子関係は認められない。』
「どうして……?」
混乱するアイの口からは、そのひと言だけが漏れた。
「いやぁ、ウチの息子、俺とは血の繋がりが無いだろう?そのことで嫁から色々言われたんだよ。養子をとるにしても、もっと血の近いところからにしろって。それでリカちゃんはどうかなんて言うもんだからさ」
アイの喉が、ヒュッと鳴った。
タカシがシュウジを養子に迎えるにあたり、アイはタカシの嫁であるサクラコに一報を入れていた。その報告は当初、あくまでフラットに行った。
タカシが北畑ノボルの義理の弟の婚外子を養子に取ろうとしている。今出川家と血の繋がりはないが、容貌は非常に美しく、頭の回りも早い子だと。
しかし、そのシュウジを清水谷家で引き取るという話が出てからは、アイはサクラコを通じてその計画を頓挫させるよう動いた。
「タカシさんから、シュウジくんの面倒は自分じゃ見れないから、わたしの所で引き取れないかと打診がありました。面倒を見ることは吝かじゃないのですが、どうしても娘が心配で……」
そのように相談したことで、予想通りにサクラコはタカシに釘を刺してくれた。そうして外堀を埋めることでタカシが諦めてくれればと考えていたのだが、まさかリカコを養子になんて話が出ていたとは予想外だった。
――いや、今回のことはただの口実なんじゃ……
急いで書面右上の検査日に目を遣ると、そこには黎和12年11月29日の文字。つまり1週間前だが、それはそれでおかしい。
1週間前に検査したとして、リカコの遺伝子情報はどうやって手に入れたのか。仮にずっと以前に入手していたとしたら、その時からリカコの血を疑っていたことになる。
チラリと視線を向けると、対手は蛇が獲物を観察するが如き視線でこちらの様子を伺っていた。
――一体いつから……?
アイの思考が最悪の想定に到達する直前、グラスから口を離したタカシが徐に言葉を発した。
「相手は誰か訊いても?」
「……すみません、それだけは言えません」
ここで名前を出すことには何の益もない。相手に迷惑をかけるだけ。
静かに頭を下げると、前からは深い溜息が聞こえてきた。
「……そうか、わかった!じゃあ別の質問をしよう。質問といっても難しい物じゃない。ただのクイズだ――この人は誰でしょう?」
タカシは明るい声でそう言うと、スマホの画面をアイに向けた。
そこには、一糸纏わぬ姿でベッドに横たわるアイが映っていた。
一目見たその瞬間、アイの全身に鳥肌が立った。
混乱、恐怖、絶望。
――なんで?どうして?
真冬の夜に流れるエアコンからの温風。
アイはその優しい風に当てられながら、思わず両腕で自分を抱いていた。
タカシはグラスを持ち上げ、ゆっくりと傾けた。
氷がからりと鳴る。その音が、やけに大きく聞こえた。
「どうしたの、そんな怖い顔して?これはクイズなんだから、そんなに難しく考えない。思った通りに答えてくれればいいから」
「――わたし、に見えます」
叫び出したいのを堪えて、いやに渇く喉の奥から声を絞り出した。
「見える、ね。確かに、この画角だと横顔しか映ってないから、わかりにくかったかな」
アイが黙っていると、タカシはフッと鼻から息を吐いて言葉を継いだ。
「実はこれ、動画バージョンもあるんだ。折角だし、そこのモニターに投影して一緒に見てみようか?声を聞けばもう少しヒントになる――」
「やめて!……やめてください。そこに映っているのは、わたしです」
「そっか、やっぱりそうだよね……しっかし、意外だったよ。アイさんってアレの時はけっこう声を出すタイプなんだね。最初観た時は本職の人かと……あ、いや失礼。アイさんはプロみたいなものだったね」
その侮るような物言いに、顔は熱くなるのに、指先からは血の気が引いていくのを感じた。
「ちなみに、このデータはとある男性から提供されたものなんだけど――ここで第2問。そのとある男性とは、誰でしょう?」
薄く笑うタカシに対して、アイに微笑み返すだけの気力は最早ない。
表情の抜け落ちた真顔。その視線の先には、茫漠とした暗がりが広がっていた。




