第14話:夕暮れ時の個別指導
かつて、日本は「一億総中流」と呼ばれる社会だった。
飛び抜けた金持ちも少なければ、極端な貧困層も珍しい。分厚い中間層の存在は、この国の安定そのものだった。
確かに、バブル崩壊以降の日本では中間層がゆっくりと萎んでいった。
しかし、現在でも日本人が持つ「中流意識」だけは健在である。
それはひとえに、分断が目に見えづらい形を取っているからでもある。
英国のように貴族制度があるわけでもない。 米国のように、経済力によって居住区が明確に区切られている訳でもない。
金持ちだろうがラーメン屋の列に並び、貧乏人だろうが銀座を闊歩する。
そんな日本でも、確かな線引きが存在する。
例えば、銀座の高級クラブ。
例えば、政財界の会食。
例えば、代々続く名家同士の繋がり。
一般人の目には触れない秘密倶楽部。その内側に入り込もうと思えば、経済力もさることながら、それ以上に教養と振る舞いが求められる。
そして今、その内側へ一人の少年が強引に引っ張り込まれようとしていた――
シュウジは、外見だけなら申し分ない。
やや線は細いが、はっきりとした目鼻立ちと、どこか翳りを帯びた大人びた表情。そこだけ切り取れば、名家の子息と言われても違和感はない。
問題は中身だ。
頭の回転は速い。現役閣僚相手に交渉を挑むだけの胆力もある。
しかし、上流階級の作法をあまりにも知らな過ぎた。
そこでタカシがシュウジに付けたのが、一ノ瀬キョウコだった。
「お披露目までに、アイツに最低限の知識と振る舞いを叩き込んでやってくれ」
直属の上司にそう命じられたキョウコは、シュウジの教育係として職務に励んでいた。
日が徐々に傾き始めた夕暮れ時、川崎市にある亜空間庁の研究施設でのことである。
「まだ少し表情が硬いですね」
今しがた撮影した写真をスマホで確認しつつ、キョウコが言った。
ふたりしかいない会議室。そこでキョウコは、シュウジに写真を撮られる訓練を課していた。
ピースはせず、手は自然に降ろすか臍下あたりで組む。
顎は引き、口を閉じた状態で目に少しだけ力を入れて自然に微笑む。
そう指示を出した後でスマートフォンのレンズを向けたが、先ほどから上手くいっていない。何度撮影しても、静止画となったシュウジの顔には、どれもぎこちない笑顔が浮かんでいた。
「すみません」
となりでスマホを覗き込むシュウジが、面目なさそうに謝罪した。
手を抜いているならいざ知らず、真剣にやって結果が出ないのであれば叱責するつもりはない。しかし、お披露目パーティーともなれば、写真撮影が避けて通れないのも事実。
「少し気分転換しましょう」
笑顔が硬いのは、疲れているからかも知れない。
事実、シュウジのスケジュールは過密だ。
今日は朝から入念なメディカルチェックがあり、それが終わるとタカシと神楽坂でランチ。施設に戻ってきてからは、休む暇もなく立ち居振る舞いの実習だ。
それこそ、何一つ基本を知らなかったシュウジは、お辞儀や自己紹介の仕方から詰め込み教育を受けている。短期間で、ゼロから「今出川家の嫡男として恥ずかしくないレベル」まで引き上げる必要があるのだ。
ダンジョンから救助され、目を覚ましてからまだ3日。
2週間前まで孤児だった、ただの中学生が疲弊しない訳がない。
そう思ったキョウコは、シュウジを近場に連れ出すことにした。
対象の外出は、「安全への配慮と十分な監視が行えること」を条件に許可されている。
部下の黒服を運転手として呼び付けると、キョウコはシュウジと共にミニバンの後部座席に身を滑り込ませた。
「どこに行くんですか?」
「あなたに馴染みの深いところですよ」
そんな短いやり取りから20分も経たず、車は目的地に辿り着いた。
西の空に浮かぶ日は赤く、視界は悪い。だが、周囲の風景から自分たちがどこにいるのか、隣の少年には察しがついた様子だった。
「……まさか、ダンジョン!?」
「には入れません。今日は、その隣にある博物館に行こうと思います」
平時は一般人向けに開放されているダンジョン博物館だが、現在は事故の影響で営業を見合わせている。ならば誰にも邪魔されず館内を見て回れると思って連れてきたが、一つ大事なことを確認していなかったことに気が付いた。
「ここ、来たことあります?」
「いいえ、職場がダンジョンですもの。わざわざ来ませんよ」
苦笑気味のシュウジ。その回答にキョウコは胸を撫で下ろした。
ダンジョンは、併設されている自衛隊の施設と合わせて二重三重の鉄条網に囲まれている。その囲いの外、隣接する土地に4階建てのダンジョンセンターなる建物が建てられている。
ダンジョン博物館はダンジョンセンターのワンフロアで、実際には広報展示室に近い。事前に連絡しておいたので、館内には既に明かりが灯っていた。
中に入り、お土産コーナー脇からエレベーターで2階に上がる。
フロアに降り立つと、すぐに「常設展 〜ダンジョン出現から新エリアまで〜」と銘打たれた看板が目に入った。
「今日はもうお疲れでしょう。残りの時間は、ここを見学して終わりにしようと思います」
「ありがとうございます……その、気を遣ってもらっちゃって」
「いえ……」
シュウジの上目遣いを視界から外し、キョウコは展示エリアに足を踏み入れた。フロアにはダンジョンに関する写真やら模型やらが並べられ、天井から吊るされたスポットライトの柔らかい光に照らされている。
亜空間庁に入庁した直後に一度来ているので、大体の内容は分かっている。特に目新しいものはなさそうだったが、講義をするのにはうってつけだ。
「今更言うまでもありませんが、今出川長官は亜空間庁のトップです。その御子息となれば、ダンジョンに関して一通り理解しておく必要があります」
キョウコは入口付近にある写真を指差して言った。
「これが何かわかりますか?」
写真は丘陵地帯を空撮したものであり、その中央は巨大な漆黒の正方形で切り取られていた。
「ブラックスペースですよね。写真の横に書いてあるし、似たような写真を学校の教科書でも見たことがあります」
シュウジがさも当然のように答えたので、キョウコは内心安堵した。
――このレベルの一般教養は問題なさそうね
事前に中学校での成績表は確認済み。学力が高いことは知っていたが、それでもキョウコとしてはひと安心である。
「黎和2年1月13日――突如として出現した一辺10メートルの立方体の空間は、それまでそこに存在していたマンションや道路、木々、電柱等をすっぽりと覆い隠していた」
シュウジは写真横の説明文を読み上げた。
続く段落を、キョウコが引き取る。
「この謎の空間は光を完全に遮断する性質をもっていたため、外から中の様子を窺い知ることは出来なかった。現場には通報を受けた警察と消防、野次馬やマスコミが詰め掛け、前日までに閑静な住宅街だったのがウソのように騒然となった」
キョウコは、視線をあげて黒い立方体を見つめた。
「もっとも、この時点では周囲に大きな健康被害は確認されていませんでした。ブラックスペース内部に飲み込まれたマンション住民を除けば、ですが」
規制線の向こうで、ブラックスペースに飲み込まれたマンション住民の家族が泣き崩れている。いつかニュース映像で見た光景が、キョウコの脳裏を掠めた。
「そして、ブラックスペース出現から3日後、黒い帳が消失し、中から現在のダンジョンが出現しました」
キョウコは、隣に展示されている写真へ指を滑らせた。
そこには現在とほぼ変わらない、躙口へと続く巨大な開口部が写っている。
「当然、政府は直ちに調査を開始しました。最初に突入したのは、自衛隊の化学科部隊を中心とした調査隊です」
続くパネルには、重防護衣と防毒マスクに身を包んだ自衛隊員たちの写真が並んでいる。
「当時から、内部に有害物質が充満している可能性は想定されていました。毒ガスや放射性物質――そういった可能性ですね」
キョウコは、写真の説明文へ視線を落とした。
「ただ、事前観測では有毒ガスの反応も、放射線反応も確認されなかったそうです。そのせいで、現場にはある種の油断が生まれていました」
「……魔素は完全に想定外だった」
「はい」
短く頷く。
「内部調査を開始して数時間後、突入した隊員たちが次々と体調不良を訴え始めました。頭痛、吐き気、倦怠感、意識障害。症状は人によって様々でしたが、重症化した隊員の中には、そのまま死亡する者まで現れます」
シュウジの表情が僅かに強張った。
「同時に、開口部周辺に展開していた自衛隊員や、一部の周辺住民にも似た症状が確認されました。こちらに死者は出ませんでしたが、政府は未知の有害物質漏洩を疑い、ダンジョン開口部を封鎖します」
「……当時の人たちからしたら、何が起きてるか分からなかったでしょうね」
「ええ。調査に入った自衛隊員が、防護装備を着ていたにも関わらず倒れたんです。しかも原因不明。国民が恐怖したのも当然だったと思います」
キョウコは、小さく息を吐いた。
「その後の調査で発見されたのが、『魔素』です。ダンジョン内部から漏れ出す未知の粒子であり、長時間曝露すると人体へ深刻な悪影響を及ぼすことが判明しました」
「今じゃ小学生でも知ってる話ですけどね」
「当時はそれを解明するだけでも大変だったんですよ」
しみじみと呟くキョウコに対して、シュウジは何も返すでもなく展示物を見つめている。 その横顔には、憂いと翳りが浮かんでいた。
キョウコはフッと息を吐く。
「気分転換になればと思って連れてきましたが、暗い話になってしまいましたね。ちょっと休憩しましょう」
展示物はまだまだあったが、キョウコは展示エリアの出口に足を向けた。少し遅れてシュウジもその後を付いて来る。
廊下に設置されている自販機の前に立ち、商品に目を遣る。
「どれがいいですか?」
「……それじゃあ、ホットココアを」
――ふーん、甘党なのね
意外と思いつつ、キョウコは同じものを2つ買う。
冷えた指先に、スチール缶の温かさがありがたい。
壁際に置かれた背もたれの無いソファーに並んで腰を掛け、プルトップを引いた。
「わたしとしたことが、今日は少々迂闊だったみたいです」
「ウカツ?」
キョウコの呟きに、片眉を上げてシュウジが反応した。
「来たことがあるか確認せずにあなたをここに連れてきたこと。来ればどうしても暗い話になるだろうに、ここをチョイスしたこと……あなたは今回の事故の当事者でもあります。昔話とは言え、配慮が足りませんでした」
キョウコが淡々と、しかしどこか自嘲気味に告げると、少しの間を置いてからシュウジが静かに口を開いた。
「てっきり、『魔素が漏れたら大惨事になる。だから政府が採掘者を生き埋めにしたのは仕方がなかった』って言い聞かせたいがために、ここに連れてこられたのかと思ってました」
「そんなつもりは――いや、どうでしょう……心のどこかであったかも知れません」
自衛隊と亜空間庁は、今回の事故で100名以上の民間人を死なせてしまった。それも、純粋な自然災害の結果ではなく、自らの決断の結果として。
自分たちの決断は正しかったのか?もっと遣りようがあったのではないか?
後になって浮かんでくる後悔と自問。
キョウコは封鎖の判断を下したわけでも、実際に封鎖を行ったわけでもない。
しかし、元自衛官、かつ亜空間庁ダンジョン特殊対応班の一員として、責任の一端はある。
だからこそ、「あの犠牲には意味があった。非常な決断が下されたからこそ、市井に住む人々の生活が守れたんだ」と、必死にそう思い込もうとしていたのかも知れない。
「……やっぱり、恨んでいますか?」
これまで敢えて訊かなかったことを、訊いてみた。
「ぼくたちを封鎖したこと?」
シュウジは缶を両手で包んだまま、少しだけ視線を落とした。
「見捨てられたって分かった時は、まぁ、そうですね……でも、今となっては必要な犠牲だったと思ってます」
必要な犠牲――
その一番残酷な言葉を、当事者に言わせてしまうなんて……
「すみません」
キョウコが呟くと、隣からフフッと軽い笑い声が聞こえてきた。
「いえ、一ノ瀬さんって、マジメなんだなって思っただけです」
「……悪いですか?」
「ぜんぜん。むしろ、有難いです。マジメな一ノ瀬さんが指導してくれてるから、お披露目もなんとかなるんじゃないかって気がしてます」
それはどうかと思ったが、15歳の少年が自分を励ましてくれている。その気遣いだけはキョウコにも伝わった。
「でも、やっぱり無茶ですよね。孤児が閣僚の養子になったと思ったら、あとたったの4日でお披露目だなんて。ぼくも大変だけど、一ノ瀬さんも振り回されて大変ですよね。こんなこと言うのもヘンですけど、ほんと、父がすみません」
はにかみながら少年がペコリと頭を下げる様を見て、キョウコの胸中には俄かに温かいものが広がった。
――そうだ、土台無茶な話に振り回されて疲れていたのだ。彼も、わたしも
そう思うと、いつもは平らな表情筋が自然と和らいでいく。
「あ、ぼくのこと笑いました?」
「笑ってません」
表情を消してキョウコが言う。
それでも、隣の少年は嬉しそうにこちらの顔を覗き込んでくる。
「訓練の続きをしましょう」
「へ?」
虚を突かれて目を丸くしているシュウジに、キョウコはインカメを起動してスマホを翳した。
「写真撮影の訓練です。今の笑顔が出せれば大丈夫です」
「インカメで撮ることなんてあるんですか!?」
「ありますよ。むしろ、政治家と親密さを演出したい参加者はインカメを好みます」
そう言いながらシャッターを切ったが、写真は身体を捩ったシュウジの顔が半分見切れてしまっていた。スマホの画面を見たシュウジが驚いて声をあげた。
「写真だと一ノ瀬さん、すごい笑顔なんですね!」
「こういう時は微笑むのがマナーです。写真だと後から何度も見返されますからね。見切れるなんて論外です。ほら、もう一回いきますよ」
キョウコがシュウジの腕を取って引き寄せる。
すると画面の中のシュウジは、驚いたような顔から、気恥ずかしそうな、それでも頑張って微笑もうと表情を変化させていた。
出来上がりをふたりで覗き込む。
そこには、微笑むキョウコと少し照れながらも嬉しそうに顔を上気させているシュウジが映っていた。
「悪くありませんね」
キョウコはスマートフォンをサッと胸ポケットに仕舞い込んだ。
きっとココアのせいだろう。
自分の身体が、少しだけ熱い気がした。




