第12話:義理の家族(前)
今の日本の総理大臣は誰か?
そう問われれば、日本人のほぼ全員が「島津ヨリコ」と答えるだろう。
海外でも事情は似たようなものだ。少なくとも先進国や東アジアで政治や経済に関心のある人間なら、「シマヅ」の名くらいは知っている。
もっとも、それは決して当たり前の光景ではなかった。ほんの数年前まで、日本政治は完全な混迷の中にあったからである。
首相は5年足らずで7度も交代し、海外メディアには「イマデガワの後の誰かが、また辞めた」と皮肉を書かれる始末。
泥沼の権力闘争。身動きの取れない連立政権。
国家としての日本は、明らかに弱っていた。
原因は単純だ。
今出川ヤスシという男の存在が、あまりにも大き過ぎたのである。
長期政権を築き、不可能だと言われた政策を次々と推し通した怪物。 「政界の北極星」とまで呼ばれた男を、不意の暗殺で失った。
その瞬間から、自進党は暗闇の中を彷徨い始めたのだ。
時に、そんな歴史に名を刻む巨星も、表に出せない私的な関係を持っていた。
それが、清水谷アイとの関係である。
ふたりの関係は、ヤスシが設立にかかわった私立高校、桐桜学園に遡る。
当時17歳だったアイにとって、50歳のヤスシは父親ほど年の離れた相手だったが、一緒にいる時間は不思議と心地良かった。
世間体を気にして、ふたりが籍を入れることなどできない。しかし、ヤスシはアイを確かに大切にしていたし、アイの方はと言えば、高校を卒業して間もなく、ひとりの娘を出産している。
ヤスシが暗殺によって唐突にこの世を去ったのは、アイが23歳、ひとり娘のリカコが5歳の時である。
その死は、ふたりの生活そのものを奪った。
彼女は社会的には内縁の妻ですらなく、当然、今出川家の人間でもない。悲しみに暮れる暇もなく、幼い娘を抱えたまま、生きる術を探さなければならなかった。
そんな彼女に手を差し伸べたのが、ヤスシの息子――今出川タカシだった。
以来、アイはタカシの私設秘書として働くこととなったのである。
件の大災害から2週間近くが過ぎた、11月下旬のことである。
東京都渋谷区――タカシの選挙区である東京7区――に居を構える今出川政治事務所は、一時の野戦病院のような慌ただしさから、徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。
電話機のコール音が嵐のように一斉に鳴り響く時期は、もう過ぎている。それでも断続的に入電はあり、今日もフロアには加瀬の落ち着いたアルト・ボイスが響いている。
「……はい、その件につきましては長官も大変心を痛めておりまして……」
後援会、魔炭関連企業、大手メディア、自進党議員の関係者。
この2週間、今出川政治事務所には探りを入れるような電話がひっきりなしに掛かってきていた。
不用意な言質も、悪印象も与えない。 その厄介な役回りを、加瀬たちは粘り強くこなしている。
もっとも、回答の方向性を決めているのは清水谷アイだ。
それをタカシが確認し、加瀬たちがスピーカーとなって発信する。 それが現在の今出川政治事務所の役割分担だった。
アイや加瀬の雇用主であり、事務所に名前を冠するタカシはと言うと、ここのところずっと永田町に出ずっぱりとなっていた。
史上4回目、かつこれまでとは比較にならないほどの犠牲者を出した魔素噴火が発生したことで、対応に忙殺されていたからである。
そんなタカシが、今日になって事務所に姿を現した。
「清水谷さん、ちょっと」
事務所に現れるなり、足を止めることなくそう言って執務室の中に消えたタカシ。
その言葉に最初に反応したのは、インタビュー依頼や会合案内といったメールの仕分けに没頭していたアイではなく、電話の切れ目で一息ついていた加瀬だった。
「お茶はわたしが淹れてお持ちしますよ」
そう言って加瀬が給湯室に向かったのは、本人の献身的な気質以上に、尊敬する先輩であり、事務所の女主人に対するポイント稼ぎが理由だった。
アイは「ありがとう」と少し小声でお礼を言った後、タカシが待つ執務室の扉をくぐる。
――少し瘦せたわね
オフィスチェアに深く腰掛けたタカシを一瞥し、アイはそう思った。
身体つきは相変わらずがっしりしているが、目の下に黒く落ちた影が、彼が背負う重圧を如実に表している。
「先生、本当にお疲れ様です。こちらにいらっしゃるのは随分と久しぶりですね」
「いやぁ、清水谷さんもお疲れ様。こっちの事務所、すっかり任せっきりにしちゃって悪かったね。さすがに大変だったでしょ?」
言葉とは裏腹に、タカシに悪びれる様子がないのはいつものことだった。
「何か急ぎで相談したい事はある?」
「いえ、基本的にはメールでご報告している通りですので。ただ、既に対応済みならば問題ないのですが、斯波グループについては……」
「ああ、それについてはいったん放置でいいよ。まだ対応はしてないけど、対策は考えてあるから」
斯波グループはヤスシ時代から今出川親子を支えてくれている大事なスポンサーである。グループは重工業を核に幅広い事業を展開しているが、近年は魔炭事業に参画したことでタカシとの関係も深くなっていた。
魔素噴火が発生し、ダンジョンが閉鎖されたとあっては斯波グループも気が気ではないだろう。この2週間のうちに、グループ総裁の斯波ヨシハルから直接の電話が3度も掛かってきていた。
その内容は純粋なお願いから始まり、続いて脅迫混じりの哀願となり、ついには哀願混じりの脅迫となっていた。
つまり、「一度今出川先生と直接お話をさせて欲しい。それが叶わないのであれば、今後の支援が難しくなる」と言うのが最終的な先方の言い分である。
このことは、もちろん都度タカシへ報告していたが、本人からの反応が鈍いのをアイは懸念していた。
しかし、タカシが問題ないと言うなら、アイにもそれ以上深追いする理由はない。
扉がノックされた後、「失礼します」と言って加瀬が部屋に入ってきた。
「先生、だいぶお疲れのようですが、大丈夫ですか?」
「政治屋になってから一番しんどい2週間だったけど、まぁなんとか。加瀬さんも大活躍だって聞いてるけど、ありがとうね」
お茶を配膳する加瀬を見遣りつつ、労いの言葉を掛けるタカシ。
しかし、その表情や声色から何かを感じ取ったのだろう。加瀬は「いえ、恐縮です」と言うと、お盆を胸に当てるようにしてそそくさと部屋を出て行った。
扉が閉まるのを待ってから、タカシは「さて」と切り出した。
「アイさんさぁ、今日のお昼は時間ある?」
「はい、大丈夫です」
「いやぁ、大した事じゃないんだけど、ちょっと会ってほしい人がいてね……俺の遠縁の親戚で、15歳の男の子なんだ」
そう言われても、アイはぜんぜんピンと来なかった。
――15歳の男の子?そんなのいたかしら?
「どうだろう?ソイツを交えてこれからご飯でも」
「もちろん構いませんが、わたしを同席させる理由は何でしょうか?」
アイの問い掛けに、タカシは一度、思案気に視線を中空に彷徨わせた。
「……知っての通り、俺には子供がいない。嫁もずっと海外に行ったきり、いつ帰ってくるのかすらはっきりしない。それでも、家の事を考えれば跡継ぎは必要だからな。思い切って養子を取ろうと思ってるんだ」
「いろいろお尋ねしたいことはありますが、まずそのこと、奥様はご存じなんですか?」
そう問い質すアイの声は、意図せず鋭いものになっていた。
タカシの嫁、今出川サクラコは考古学をライフワークとする36歳であり、ここ数年は中央アジアでの遺跡発掘に精を出していた。過去にはタカシの子供を2度身籠ったが、1度目は流産、2度目は出産前の検査で障害を持っていることが判明し、夫の判断で堕胎させられている。
以来、夫婦仲がギクシャクしていることを、アイはタカシ、サクラコの双方から聞かされていた。
「まだ知らせていない。と言うより、ソイツを本当に養子にするかもまだ未確定だ。本当ならサクラコに為人を見てもらうのが一番なんだが、あいにくアイツは海外で遺跡堀りに忙しい。そこで、その代役をアイさんに頼みたいんだ」
「……わたし、ですか?」
タカシからの無邪気なお願いに、アイは思わずため息を漏らしてしまっていた。
妻があれほど悲しい思いをしたというのに、夫であるこの男は相談一つせず、見ず知らずの15歳を突然家に入れようとしているのだ。
「先生からの命令であればイヤとは言いません。ただ、こういうのは家族の事ですから――」
「何言ってんの!アイさんは家族みたいなものでしょ?よし、じゃあさっそく行こうか!店はもうおさえてあるんだ」
アイとしては気乗りしなさを精一杯表明したつもりだったが、時と場合に応じて、グレーゾーンの中で己に最も都合が良い部分を切り取るのがタカシという人間である。
――サクラコさんには、わたしの方から一報入れておいた方が良さそうね
ため息を飲み込んだアイは、微苦笑を浮かべて「はい」と応じた。




