第9話:鷹の爪(前)
精神分析学の祖であるフロイトが提唱した防衛機制――人間が不安や葛藤から心を防衛するための心理的メカニズム――の一つに、「代償」と呼ばれるものがある。
これは本来の目標を達成出来ない時に、別の行為をもって「無意識的な」埋め合わせをすることであり、日常の中で実例を見付けることは意外と難しい。
直接的な因果関係が見えづらいからだ。
それこそ、禁酒している人がビアテイスト飲料を飲むとか、ダイエットしている人が肉の代わりに豆腐ハンバーグを食べるといった行為は、ここで言う代償にはあたらない。
それらはただの行動置換であり、目標を達成するための合理的な工夫に過ぎないからである。
島津ヨリコの場合も、総理大臣に就任した時より、禁煙を始めるにあたって合理的な工夫を模索していた時期があった。それこそ、定番のニコチンパッチやガムなんかは真っ先に試したが、いまいちピンと来ない。
そんなものよりも、効いたのは高い支持率という実体の無い精神安定剤である。
ストレスを感じるとタバコに頼りたくなり、その都度、自分の高い支持率を思い出す。
ここ数年はそうすることで喫煙衝動を抑え込む事に成功していたし、正直なところ、直近の1年くらいはタバコを忘れていた程だった。
しかし、この特効薬が過去2週間の内にいきなり効力を失ってしまったことで、話は変わった。ヨリコは自身の悪癖に抗うため、再び何らかの工夫が必要な状況に追い込まれていたのだ。
その工夫の一環として新たなアイテムに目を付けたのは、自衛隊がダンジョンに突入して生存者の救出作戦を敢行した2日後のことである。
ヨリコは総理官邸の執務室でひとり、焙じ茶を啜り、鷹の爪を齧りながら待ち人が訪ねて来るのを待っていた。
鷹の爪は、給仕係が持って来たお茶請けでもなければ、秘書が買ってきた物でもない。
その昔、「タバコを吸いたくなった時のために」とある男から渡され、そのまま引き出しの中に眠っていたものである。何かないかと手元にある物品を漁っていたところ、今日になって偶然発見したのだ。
賞味期限は3か月程過ぎていたが、唐辛子ならば問題もあるまい。
そう思って口にしてみたところ、風味は落ちていたが辛味はちゃんとあった。
それはそれで良い。
が、そもそもの話、ヨリコは辛い物が得意ではない。
得意ではないし、たとえ得意であっても、鷹の爪はそのままで食べるような類の食材ではない。
そのはずなのだが、意外や意外、禁煙アイテムとしては確かに一定の効果があるようだった。
口内に広がる痛みの分だけ、タバコへの欲求が薄まったように感じられるからだ。
――身体が痛みを感じる分だけ心が楽になるってのは、若い子たちがやるリストカットと同じメカニズムなのかしら?
そんなことを考えていたタイミングで、扉をノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」と言うと、扉が開いた。
入ってきたのは、この唐辛子を押し付けた張本人――今出川タカシだった。
「お疲れ様です……ってあれ、珍しいもの食べてますね」
挨拶もそこそこに、タカシは机の上に置かれたパックに目を遣った。
「あなたもこれ、食べるでしょ?」
タカシの辛い物好きは党内でも有名である。
内線で連絡すると、すぐに係の者がお茶とお皿、それにお茶請けの羊羹を運んできてくれた。
それらが置かれた木製のローテーブルを挟んでタカシの対面、独り用のソファチェアにヨリコは腰を落ち着けた。そうして、鷹の爪が入ったパックを白い平皿の上で逆さにすると、古くなった唐辛子がカラカラと乾いた音を立てて広がった。
「それで、どうだったの?昨日の夜もらった速報メールには何も書かれてなかったけど」
「書いたじゃないですか。外見の変化が認められるものの、対象は自身が日野シュウジであると認めたこと。魔素濃度が依然高止まりしていること。聞き取りの結果は対面でお伝えすること」
「そんなのは書いたって言わないわ!」
――まったく、白々しい。この子はわたしをヤキモキさせて楽しんでるんじゃないかしら?
肩をすくめるタカシを見て、ヨリコは心中で毒を吐いた。
「詳細を書かなかったのは、俺自身の考えが纏まりきらなかったのもありますが、今の時点では万が一にも物証を残したくなかったからですよ」
「……と言うことは、やっぱり対象は――」
「それはまだわかりません」
タカシが声を低くしたので期待してしまったが、返ってきたのは木で鼻を括るような回答だった。
「宿す者かどうか本格的に調べようと思ったら、まず母体の選定から始める必要があるじゃないですか。としたら、どんなに急いでも2週間はかかります。それはヨリコさんが一番よくご存じかと思いますが?」
「まぁ、そうね……あなたがヘンにもったいつけるから訊いてみただけよ。それに、対象の体液を調べることは出来たでしょう?」
「調べましたよ。血中魔素濃度は今朝の時点で37.3。2日前に保護した時よりは少し下がってますが、それでも常人ではありえない数値を叩き出しています」
「それは朗報だけど、そうじゃなくて――」
言い募ろうとしたヨリコを、タカシは手で制した。
「今日ご相談したかったのは、まさにそのことです」
「……その調子だと、わたしの考えとは全く別の案を持って来たみたいね」
ヨリコは大きく息を吐いてから鷹の爪を一つ摘まみ、前歯で刻んでから口の中に放り込んだ。
――やっぱり辛いわね
そんな内心に抱いた素朴な感想は、次にタカシが発した言葉によって吹き飛んだ。
「黄色い石」
「……は?」
「対象は……シュウジは知っていました。黄色い石がただの魔素の塊じゃなくて、身体のあらゆる不具合を癒す奇跡の存在であることを。それを政府が秘密裏に運用していることまで含めてね」
「それは……危険ね」
そう呟いたヨリコは、無意識に鷹の爪をもうひとかけら、口に運んでいた。
タカシも鷹の爪を齧り、それから二又の楊枝で羊羹を切り分けて食べ始めた。
「一緒に食べると意外とイケますよ。辛さのお陰で甘さが引き立つ」
「そう……それで?そのシュウジ君はなんで黄色い石について知ってたの?」
ヨリコの口内では、既に辛味よりも唾液に混じったストレスで苦味が勝り始めていた。
それを打ち消そうと羊羹を食べると、スイカに塩みたいなものなのか、小豆と砂糖の甘さが普段より強く感じられた。
「それはまだわかりません。本人が話そうとしないので」
「政府の運用についてはどこまで知られてるの?」
「踏み込んだ話はまだ出来てません」
「対象が黄色い石の実態に気付いたのは魔素噴火の後で間違いないのよね?」
「それもまだわかりま――」
「さっきから何もわかってないじゃない!」
思わずそう叫び、机を叩いていた。
政治家たるもの、人に自分の内面を悟られるような言動は慎むべきである。
そんなことは国家権力の頂点に君臨するヨリコには百も承知だったが、しかしどういう理由であれ、国家の最高機密が外部に知られているのである。
あまつさえ、その原因もわかっていないとなれば、心穏やかでいられないのは無理もなかった。
タカシはと言えば、ボスの激昂に一瞬だけだじろいだが、すぐに表情を和らげて焙じ茶を啜りはじめた。
その様子に少しだけ冷静になったヨリコは、相手に合わせて茶碗に口を付けた。
「本人は職場の先輩から聞いたなんて言ってましたが、まず噓でしょうね。不特定多数が知ってるなら、もっと騒がれてなきゃおかしい。となると、ダンジョンの深淵で何かを経験したとしか思えませんが、それもちょっと違和感がある。仮にシュウジが黄色い石を使って怪我を治していたとしても、我々の欺瞞工作に気付くのは飛躍し過ぎです」
「そうね……つまり?」
さっさと結論を話せと催促すると、タカシは苦笑した。
「亜空間が日本に出現した当初、アレは宇宙人の住処だとかUFOの亜種だなんて言説が飛び交いましたが、案外それが正解なんじゃないかって気がしてます」
「まさか……本気なの?」
「ダンジョンの最奥で何を見聞きしたとしても、自力では到達し得ないような洞察をシュウジは得ています。とすれば、何らかの知的生命体と交信して、そこから情報を与えられたと考えるのが最も自然かと。ま、今の時点で断定はできませんがね」
「あまり現実味の無い話ね」
口ではそう言ったが、タカシの仮説を否定することも出来なかった。
亜空間、延いてはダンジョンの由来が地球外であるとの意見は、出現から10年が経過した今でも根強い言説である。当日に宇宙からの飛行物体や、それらしい隕石が観測されていた訳ではない。
そのため、「ダンジョン宇宙由来仮説」は政府の公式見解ではないし、やや異端よりの思想、極端に言えばオカルトと見做されることも多い。
しかし、その支持は今日でも底堅く、インターネットの掲示板はもちろんのこと、一部の宇宙科学や生物学等の専門家でさえその主張を支持し、大真面目に議論が交わされているのが実情だ。
「シュウジが宇宙人とコンタクトしたんじゃないかと疑ったのは、ヤツがいろいろ知り過ぎているってのもありますが、その言葉遣いです。知ってます?あの黄色い石、変容石って言うんですって」
「知らないわよ、そんなの。対象が勝手にそう呼んでるだけでしょ?」
「もしくは、宇宙人がそう呼んでいるのを耳にしたか」
タカシの言葉に、ヨリコは何も言えなくなってしまった。いろいろ反論は思いつくが、どうしても一次情報に触れている相手に対して、その相手からの伝聞情報しか持たない自分では分が悪い。
執務室にしばしの沈黙が流れた後、徐にタカシが口を開いた。
「自衛隊が準備しているダンジョン地階の現地調査――あれ、危険かもしれません」
ヨリコの右手にはいつの間にか摘まんでいた唐辛子のかけら。
そのかけらが手から零れ落ち、視界から消えた。




