Ⅰ.中里文子の不覚
「杏柰、おい杏柰」
倒れた彼女を間一髪で抱き抱え、俺は必死に呼びかけた。
重力に従ってぐったりと沈みかけた杏柰は今、俺の腕だけに支えられている。
玄関に二人の人物が出迎えている。割烹着を身につけた馥よかな年配の女と、タキシード姿の細身な男子。さぞ驚いたことだろう。突然、夜更けに押しかけてきた四人の客人、うち一人が玄関先で気を失ったとあっては。
「まぁ。何ということ」
中年太りの女のほうは、色黒な頬に手を当てて大袈裟に嘆いた。
「あなた方は」
黒紫のメタルフレームの眼鏡に手を翳しながら、小柄な青年が中性的な声を発した。
「夜分に申し訳ありません。俺、いえ私は――」
俺は派遣先から用意されている名刺を胸ポケットから取りだし、彼らに手渡した。
「〝㈱鳥丸very Berry 仏蘭西〟から来ました中里文子です」
「まあ〝鳥丸Berry〟の」
「遅かったので心配していました」
得心がいったのか中年女性は名刺から視線を外すと、値踏みするように俺の頭から爪先までをじろじろ眺めまわす。
青年は当たり障りのない笑顔を浮かべ、
「しかし僕たちが依頼した人材は一名だったはずですが」
ポーカーフェイスを保ちつつ、チョーカーを巻いた小首を傾いだ。
「重ね重ね申し訳ありません。彼女の名は神香林杏柰。実は先刻の雷雨で――」
道中、土砂崩れが起きたこと。同日に葡萄村で葡萄狩りツアーが開催され、参加者である杏柰に出会した経緯を、要点のみ掻い摘んで端的に説明する。
「宿泊費は私のバイト代から差っ引いていただいて構いません。どうか彼女を一晩、受け入れていただけないでしょうか」
深々と頭を下げると、
「そう固くならずに。自然災害なら仕方ありませんよ」
抑揚のない声が落ちてきて、顔を上げれば青年は快く手を差しのべていた。
彼が片手で親指と中指をパチンと鳴らすと、
「ただいま寝室を整えてきますので」
弾かれた中年女性は、マッチョな身体を揺らしてパタパタと奥に走っていく。
「あ、ありがとうございます」
これで杏柰は助かる。張りつめていた糸が切れ、安堵で全身の力が抜けていく。彼らの親切心に感無量。胸と目頭が熱くなって涙を手の甲で拭った。
「救急車を手配したいところですが、あいにく此処は普段、別荘として使用しており、従って固定電話がございません。山奥のため携帯電話も電波受信圏外でして、外部との連絡が一切とれない状況にあります」
「心得ています。一晩、休養させていただくだけで充分です」
とにかく今は、ゆっくり寝かせてやりたい。
俺の腕に凭れかかっている杏柰を青年が抱き寄せ、ひとまず玄関フロアの上がり框に寝かせた。
ほどなくして中年女性が小走りで戻ってくる。
「ベッドの用意ができました」
杏柰を介抱しようとした時、
「ところでそちらの方たちは」
青年と熟女の視線が一転、俺の背後――江藤と夕実に向けられた。
彼らはせいぜい、自力で交渉すれば良い。俺は白い目で一瞥した。
「その、僕らは同じく葡萄狩りツアーの参加者でして。経緯は杏柰さんとほぼ同じで――」
居場所のないまま、手持無沙汰で突っ立っていた江藤はバツが悪そうに頭を掻く。名前を名乗ると俺の事情説明に便乗しつつ、直談判をはじめた。
警戒しているのか、夕実はキョロキョロと辺りを見回している。
「ふーん。江藤茂博さんと鷹畑夕実さんねぇ」
腕組みをしながら訝しむ中年女に、青年はパチッと目配せすると、
「良いよね? 部屋はあるから」
「ま、お坊ちゃまが仰るなら」
熟女は不承不承ながら了承した。
江藤はペコペコ頭を下げている。
お坊ちゃま? この二人の関係は一体……。薄々感じていたが、母と息子ではないのか。そもそも亡くなった館の所有者とは。他人の事情を詮索する気は毛頭ないが、違和感は拭えず。バラバラな符号とクエスチョンマークが錯綜し、乏しい推理力を捻出しても脳内家系図が描けない。
俺の表情を読み取ったのか、青年は仕切り直す。
「我々の自己紹介がまだでしたね。僕は甲斐路南亜。館の後継者です。そしてこちらは家政婦の」
「高浦優紀ですけど」
紳士然り、胸の前で手のひらを当てて軽く敬礼した青年は、その手を中年女に向ける。
促されて高浦と名乗った女性は、いまだ江藤たちに対して不審者を見るような目付きである。
「江藤様と高畠様には宿泊費をいただきます。素泊まり一泊、前払いで御一人様五千円。明朝には出ていってもらいますよ」
卑しい家政婦は太い腕を突き出し、抜け目なく請求する。
江藤は渋々懐から財布を出し、一万円札を抜き取った。
「まあまあ、優紀。夕食くらい用意してあげようよ」
苦笑いした南亜が手のひらを向けて宥める。
「葡萄館にようこそ。どうぞお上がりください」
ルームシューズが人数分、並べられ、斯くして俺たちは葡萄館の敷居を跨ぐこととなった。
だがこの時、俺はまだ気づいていなかった。恐ろしき殺意は、既に繁殖をはじめていたことに。




