Ⅷ.神香林杏柰、最後の記憶
「江藤……!」
知り合いなのか? 面食らったオレは『江藤』と呼ばれた疑似モーツァルトと、中里の顔を交互に見やる。
「やはり憶えていたか。――久しぶりだな、中里」
観念したようにモーツァルトが言った。どこか吹っ切れた笑みを浮かべている。
「君が僕を憶えていた場合、声をかければ拒まれると思ったんだ」
首を垂れる江藤を捉えたまま、中里は無言だった。
彼の背後に隠れていたシルエットが気まずそうに姿を現す。栗色セミロングヘアーの小さな女の子。人形のような顔立ちは、さながらドールハウスから抜け出してきたかのよう。鮮血と見紛う深紅ーー否、乾いた血の色と表現すべきボルドー色ーーのツーピースをお召しである。
「鷹畑夕実です。……お久しぶりです、中里先輩」
やはり彼女も知人なのか。
上目遣いで中里の顔色を窺うと、江藤のシャツの裾を掴みながら夕実はペコリとお辞儀した。粒羅な瞳が揺れ、あどけない仕草は小動物を想わせる。森のリスに懐かれそうだ。
「へえ。今度は俺の後輩に手を出してるってワケかよ」
中里は口を歪めて嘲笑し、軽蔑の眼差しを江藤に向ける。
「た、偶々だ。彼女は僕の大学キャンパスの学生なんだ。僕の講義を専攻してくれてる」
大学だって? かなり幼く見えるが、夕実は女子大生なのか。
言い訳がましいロリコンの変態野郎に背を向け、
「行こう杏柰」
中里は目的地へと踵を返した。
「あの人たちは……?」
「待ってくれ。此処で野宿したら凍えてしまう」
江藤が追ってくる。
「放っとこう。彼奴らがどうなろうと関係ないし、俺が助ける義務もない。と言いたいところだが、葡萄館の所有者たちがどう出るか。それ次第だな」
中里はランタンで照らした地図を確認しながら突き進む。
前方に映えるのは濃い赤紫――今度こそ鮮血をぶちまけたようなワインレッドの屋根に、サーモンピンクの煉瓦造りの洋館だった。蔦が煉瓦に絡みついている。壁付けのポーチ灯に照らされてくっきり浮かび上がった蔦は、良く見れば葡萄ではなくビナンカズラと、ブドウ科ではあるがナツヅタの付着根だ。くるりとカールした蔓は、澄ました伯爵の巻き鬚を想起させる。
敷地の周辺を見回してみても、肝心の葡萄は植えられていないようだ。
数メートル先には薄紫の尖り屋根に、白い煉瓦の四阿が建っているのが見える。規模からして此方が本館、彼方は離れだろう。
ガササッ
「うわっ」
背後が騒がしい。
「気をつけないと、この辺り蜂がいるぞ」
落葉樹から飛び退いた江藤が、草藪に足を取られて転びそうになっていた。
≪アンナ、杏柰、アンナ――≫
まただ。オレを呼ぶ女の声。風に玩ばれ、草木の擦れる音が警告音のように響いた。雨水の染み込んだコンクリートと土の匂いに、プルースト現象が巻き戻される。脳内に付箋を挟んだ記憶のノートがパラパラ捲られ、デジャ・ビュを垣間見た。中里の背中を追っていた視界が薄くぼやけ、急激な頭痛と眩暈に襲われる。
「杏柰」
こめかみを押さえて立ち竦む。
「ちゃんと事情を話せば、きっと館の主人は解ってくれる。もうすぐゆっくり休めるからな」
朦朧とした意識の中、中里の気遣わしげな声が耳に遠く入ってくる。
たびたび異変を起こすオレは、身体のどこかが悪いと懸念されているだろうか。――違う。そうではない……
巨大なパンドラの箱は寸前に迫っていた。
葡萄の房を象った沓抜石を踏みしめ、中里が葡萄館の扉の前に立つと、江藤と夕実も後ろについた。
獅子ではなく、此処でも葡萄の形のノッカーに、中里は手をかけて呼び鈴を鳴らす。
ギィ
程なくして扉が外側に開き、中から住人が姿を現した。
そこでオレは意識を失った。




