九話
それを見て、リュカは自分が脱力するのがわかった。
炎の熱で頭が上手く働かないのだろうか、リュカは大きく深呼吸をする。
リュカの目の前には、燃える店。火で熱くなった自分の顔のほてりを感じて、やはり立ち尽くしてしまう。燃える建物は、店として商談や取引に使われ資金が保管されている。ようやく「あぁ」とリュカは無意識に情けない声が出ていた。
燃え残っているのは、住居として使っている二階建てとワイン蔵だろうか。二階建ての建物も所々から煙が上がっている。
リュカには私物はほとんどないが、先輩がそうでないのを知っている。先輩の部屋に剣が数本あったはずだ。それを大事にしているのをリュカは知っている。
──先輩
と、リュカは横を見た。少し前に立つ先輩の顔は炎の光で陰になって見えない、ただ剣を持ったまま自分の部屋の方を眺めている。何を思っているのんだろう、とリュカが声をかけようか迷っていると、背後から土を蹴る音が聞こえてきた。
「リュカ」
その声に振り返ると、二人の雇い主ジェラールがふくよかな身体で走ってきていた。まるで大きい鞠が弾んで転がるようにも見える。
その後ろに引き連れる蟲に気がついて先輩は駆けた。「ジェラールさんを頼む」という声は、闇に溶けていく。
後ろに己を襲うための蟲が飛んでいるとも露知らず、燃える我が家に一瞬戸惑ったジェラールだったが、気を取り直してリュカに向きなおった。
「リュカや、よく戻ったね。それでロザリーは一緒じゃないのかい?」
息が荒いジェラールが突然だした一人娘の名前に戸惑いながらリュカが「いいえ」と首を振る。
「ロザリーお嬢さんがいないのですか?」
「あぁ、私は領主さまとの商談に向かっていて、そのまま避難していてね。住民はそこに避難してるんだけど、その、ロザリーが一向に来ないから、抜け出して来たんだよ」
こんな状況でなおジェラールは朗らかに笑った。
闇から抜け出るように後始末を終えた先輩が血ぶりをしながら、二人の元に戻ってくる。
「おぉ、お前も無事だったかい」
「はい」
剣を鞘に戻して先輩は静かに答え、リュカの眼を見た。「お嬢さんが見当たらないらしいです」とリュカが先輩に小声でこぼす。苦虫を潰した顔をして、先輩は覚悟を決めたようだった。
「……二人は、避難してください。お嬢さんは俺が探します」
口元を緩めながら先輩はいつもの様に損な役回りを勝ってでる。リュカの拳に力が入ったが、二人にさとられないように隠した。
──誘拐されたときも、そんな顔をしてましたよ
思った言葉をリュカは飲み込んだ。
「私も探します」とリュカが申し出ると、先輩が首を振った。それを見たジェラールが「そうだよ、リュカ。城に向かおう、私たちでは足手まといなだけだよ」と付け加える。
押し黙るリュカの頭を乱暴に撫でて、「一人の方が早い」と、先輩は駆けて闇夜にあっという間に溶けて消えた。
それを歯がゆいまま見送る。
「さぁ任せて、行こうリュカ」
リュカは促されたが、動こうとしない。ジェラールがリュカが駄駄を捏ねたのかと、ため息をついた。が、リュカが人差し指を口に当ててジェラールに目配せをした。
「何か聞こえませんか?」
「蟲の羽音なら、此処に帰ってくる間中、聞こえたよ」
「いえ、人の声が……」
「そうかい?」
リュカが母屋の方に意識を向けると、微かな声。と、窓ガラスが割れる。落ちてくる剣が数本。
小さな手が見えて、次に二人の見知った顔が見えた。
「ロザリー!」
ジェラールが叫んだ先に窓から屋根によじ登る一人の少女。ロザリーが登り切ると、割れた窓から幾匹の蟲が飛び出してきた。
屋根の上に香炉を持ったロザリーは怪我を負っているのか足を引きずっていた。加えて、身体の所々に火傷を負っているようで、彼女自慢の金髪の巻き毛も欠けている。
父親の声に気が付いたのだろう、一瞬地上をのぞきこんだ。
「お父様!リュカ!」
ロザリーが動く度に寝間着に括り付けられた小さな香炉が揺れた。手に持った香炉を振り回しながら、近寄ろうとする蟲を牽制し続けている。
香炉に蟲除けが入っているのだろう、辺りには独特な匂いが漂ってきた。
「あの人に!」
ロザリーが声を荒らげる。
「もう、蟲除けが、なくなりそうなの!せめてあの人の、剣だけでも!」
それを聞いた刹那、リュカはどうするか迷った。火が今にもまわりそうな建物に飛び込むべきか、否か。その迷いの中、ジェラールが迷わずに建物へ飛び込んでいった。
「ジェラールさん!」「お父様!来ちゃ駄目!中に蟲が!」
その跡を追おうとしたリュカ、蟲という言葉に足を止めてしまう。
──蟲がいる?
日常的な出入り口が灰色に近い煙が上がっているのも相まってか恐ろしく感じてしまった。ぽっかりと口を開けた獣が、獲物を入るのを待っているように見える。
「無理だ」
──怖い
リュカが呟く。建物に火が這う音が聞こえてきていた。小さく、しかし確実に燃え広がる音。リュカの両手に虚しく力が入った。