十話
どうすることもできず、立ち尽くすリュカ。
──今からでも追うべきなのでは……
しかし恐怖で竦んだ心が、思考を中断させる。
劈くようなロザリーの叫び声が聞こえ屋根を見上げると、ジェラールらしき人影が現れ、そして消えた。
「リュカ、お父様が血塗れなの!」
人影が一つに戻った。おそらくジェラールが倒れたのだろう。
火の熱が段々と強くなっているを感じながらどうにもならない状況に、焦りと怒りだけがリュカの中にたまっていく。
──そうだ、梯子
庭の隅に置いてあったと記憶している梯子をリュカは咄嗟に思い出した。
記憶を辿り、その場に走る。
屋根までは届かないが、二階の窓程度の長さ。燃えずに残っていた梯子をリュカは迷わずを持った。
リュカの身長では長すぎる梯子で倒れそうになる。
「お嬢さん!梯子がありました!」
よろめきながらも急いで戻って、近くに置く。あとは、足りない長さをどうにか補うだけだった。周囲には樽があったはずだ、と日常の風景を思い出しながらリュカが振り返る。
──燃えてなければいいけど
樽のある方向に体を向けると、右肩に激痛がはしった。
「ゐっ……」
咄嗟に左手で押さえると、紅血がつく。と、同時にリュカは羽音と何か地面に落ちる音を聞いた。
すかさず音を見ると腐肉齧りが一匹、地面に降りていた。落ちる音はこの蟲だろう羽音も止んでいる。蟲は横に開閉する口を租借しながら、じっと止まっている。
痛みで混乱した思考は、自分の右腕が欠損したと勘違いそうになった。涙をこらえながら右腕を確認する。
──腕はある。落ち着け、混乱するな
痛みに耐えながら、荒いながらも何度も深呼吸をした。左手で怪我した付近を何度も摩る。
呼吸を無理に整えて、傷を確認した。腐肉齧りに肩を噛みつかれたのだ。
段々と怒りがたまってリュカは肩を押さえながら腐肉齧りの頭を踏みつぶす。蟲は喰い物を得るとその動きを止める性質がある。食事中の蟲を殺すのは簡単だ。
眉を顰めながらリュカは樽を探す作業を再開する。
──空の、出来れば大樽がいい
中身の入った樽は小柄のリュカでは動かせないだろうし、右肩の痛みがそれをもっと不可能にしていた。
「もう少し待っててください!」
返事も聞かぬままリュカは、押し倒せそうな樽を探し始めた。左手で軽く押してやれば、中身が入っているかは解る。樽が動いた振動で、小さな蟲がカサカサと逃げていく。
「もう少しです!」
なかなか空の大樽は見つからないず、じれったい動作に焦りが募っていく。
リュカの鼻腔に煤が届いた。振り返るとロザリーたちのいる建物の半分が炎に包まれていた。
「ジェラールさん!ロザリーお嬢さん!」
リュカが叫んだが、返事は返ってこない。一旦炎に包まれると、燃える勢いが増していく。
「リュカ!」
背後からの声は、振り向かなくても誰か解った。
「先輩。屋根の上にジェラールさんとお嬢さんが」
「そうか……」
話しかけようと振り返ると、憔悴した様子の先輩がいた。
揺らめく光源のせいだろうか、顔色がさらに酷いものにリュカには感じる。
──蟲が飛び火の手があがる街で人を捜してたんだ……どうしてもっと早くに……
疲れもするだろうと、リュカはその驚きと苛立ちを抑えて梯子を持ち上げる。
肩の痛みでなかなか梯子を持ち上げれないリュカに先輩が無言で手を貸した。
二人は梯子を持つとまだ燃えていない場所に立てかける。
「持ってられるか?」
「もちろんですよ」
鞘に剣をしまった先輩が梯子に足をかけると素早く上り、屋根にたどり着いた。
姿が見えなくなったと思うと、すぐにロザリーを抱えて戻ってくる。梯子を抑えるリュカの手に力がこもる。
「ジェラールさんは、……駄目だった」
一瞬目を瞑った先輩が、ロザリーを抱えなおす。
「え?」
リュカはその言葉を理解できなかった。
「冗談でしょ?」と上手く思考が出来ずに勝手に言葉が先走る、「剣の虫、こんな時に冗談はいらねぇんだよ」出る言葉は先輩を責める言葉だ、整えたはずの呼吸が乱れている、「は?」黙っている先輩を睨みつけながら、手足の先から冷たくなっていく感覚にリュカは襲われていた。
「ジェラールさんが……死んダ?」
言葉の意味を理解したリュカが黙った。機会を逃さずに先輩が口を開く。
「リュカ。リュカ、お嬢さんはまだ息がある。領主さまのところまで走る。出来るな?」
先輩がゆっくりと力強い言葉でリュカに話しかける。リュカは焦点の定まらないままに頷いて、走り出す先輩の後を追いかけ始めた。
領主の城と言っても、城壁で囲まれた屋敷に近いとリュカは思う。石造りの監視塔を東西南北に備え、城壁に囲われてはいるが、屋敷自体は木造で執務に必要のないものをそぎ取ったような、どこか質素な印象を訪れたときに持った。
リュカの視界には、あと少しという距離に城がある。
──あと少しだ
金属と金属がぶつかる音。
蟲と炎を避けながら、領主の城へと向かっている最中、剣戟が聞こえた。
城近く、ひらけた大きめの通りだった。先輩が剣を持つ手に力を込めながら、立ち止まる。
「リュカ、お嬢さんを担げるか?」
なんとか身体を動かすことを優先できる様になったリュカに先輩が厳しい顔のまま言う。微かに声が震えている。
「え?」
リュカにはそれが場違いな冗談かと思えたが、先輩はリュカの返事を待っていた。「ここまで迫ってきやがった」と音の方を睨みながら、先輩は歩みを始める。
リュカが脂汗をかく先輩に驚いたが、自分と同じく何処か負傷したのかもしれない、と思った。
「肩の痛みも引いてきましたから、担げるとは思います」
「なら、頼む。巻き込まれたら、盾ぐらいにはなるから、その隙に逃げろ」
震え声のままの先輩が「あの剣を打ち鳴らす音が聞こえるなら、聞こうとするな。聞こえなくなるまで逃げろ」と付け加える。「どういう意味ですか?」とリュカが言うか言わないかで、ロザリーを担がせた。
余裕のない行動にリュカは、むっとした。が、睨もうと見た先輩の顔色が異様に悪い。触れた身体が冷たい、まるで先輩が死人のようにリュカは感じた。暗闇に浮かぶ先輩の眼は、先ほどのリュカよりも虚ろだった。
「ジェラールさんとお前と別れて、ロザリーお嬢さんを探してた時」
顔をしかめながら疑問の目を向けると「あれを見たんだ」と、先輩が呟いた。「え?」とリュカ。
「あの剣戟を見た。あんなものは剣とは言えない、人の形をした“何か”が剣を振り回してた。……、逃げたんだよリュカ、俺は。あれを見て」
何かに怯える先輩が、そこにいた。初めて見る表情と姿にリュカが答えを選びきれずにいると、目の前の建物が轟音と共に崩れ落ちた。
弱弱しい舌打ちが、リュカの横から聞こえた。
いつも余裕の“剣の虫”が、苛ついて怯えている。
夜の暗闇に、土煙の中から飛び出した黒い鉄塊。リュカの視界を横切ってたのは、今朝村への道中で見た襤褸の老剣士だった。
「リュカ、走って逃げるぞ!」
先輩が怒鳴る。
──え?
轟音に崩れる住宅、投げ飛ばされたかのように表れた襤褸の剣士、そして突然の怒号にリュカの思考は停止した。
理解が及ばないリュカは思わず縋るように先輩を見てしまう。
その先から聞こえてきたのは、小刻みな金属音。先輩の手が震えていた。
叩きつけられた襤褸の老剣士が、何事もなかった様に起きあがる。その表情に生気はなく朝見た背にしていたであろう剣を杖代わりにしていた。
老剣士はこちらを見るわけでもなく、ただ虚空を見ている。
老剣士の目線の先には、黒い甲冑があった。独特な意匠の黒い甲冑で全身を包み、手には大剣と言ってもいい得物を持って、リュカが気がついたときにはそこにいた。
黒騎士と称せるその存在は、ゆっくりと襤褸の剣士に近づいていく。
暗闇と木っ端火の中、金属特有の照り返しがあるにも関わらず、その軋む音がない。
奇妙な光景だった。
──今日は、なんだ?
今日というこのすべてが夢なんじゃないだろうか、そう思った方が、リュカにはしっくりする。
黒騎士が手にした剣を構えて振ると、斬撃が老剣士に向かっていく。老剣士は無構えのまま、手にする剣を振り上げて飛んできた斬撃を斬り殺した。
リュカは足を動かそうとした、その場から立ち去ろうとした。
──嫌な予感がする
理由などない、ただそれに尽きる。ズキズキとまた頭が痛み始め、苦痛を顔に表しながらリュカの常識を壊してしまうような光景に漸く抗おうとする。
暗闇の中、老剣士が得物を構えたようだった。すると剣身が幾何学模様に青白く光りはじめ、襤褸を中心にして周囲に小さな火が現れていく。
その小さな火は、リュカの足元にも飛び散ってきた。また吐き気に襲われ始めた。いや、先ほどよりも強い嘔吐感、頭痛。段々と息が浅くなっていく。
──街の火の手は、あれのせい……。魔素汚染も……
朦朧とし始め背負うロザリーを落としそうになっていると、先輩がリュカの肩を片手で掴む。
「リュカ、走れ」
辛そうに立つ先輩がリュカを押し出す。リュカの苦痛が増していく。
──これ以上、ここにいたら死……
押し出されてようやく動き出した足で、城の方へ向かう。吐き気が強くなっていく、振り返ると魔力の渦が見えた。襤褸の剣士の周りに明滅する光が溢れていた。
ただ苦痛に耐えながら城へと、ひたすら歩んだ。




