二章 6
「なんでもいいや。助けてくれてありがと」
羽月が、表情をぱっと明るく切り替える。撮影会のように愛嬌を良くして微笑むと、ガユガインをベッドの上に降ろして礼を言った。
あきらかに嘘だとわかるが、命の恩人に変わりないのだ。正体を明かせない事情があると勝手に解釈して、深く訊かないことにした。
兎姫乃は、ガユガインに向けられた笑顔に感心する。さすがプロのモデルだと思えた。
「あなたは、あの文章を書いてくれた人?」
「え?」
「わたしさ、自分がどんな風になってるのか訳わかんない状態だったけど、文章だけはなぜか読めたんだよね。これまでファンレターとか色々もらったけど、ああいう友達から語りかけてもらえるような感じのは初めてだったよ。ま、友達なんていないんだけどね」
羽月は、乱れた髪を直しながら、ベッドでリラックスする。
年の近い人間のプライベートな姿というものに馴染みがないので、兎姫乃はとっさに目をそらした。小説を喜んでくれたことは嬉しいのに、うまく態度に変換できない。そんなもやもやが言葉を詰まらせる。
「そ、そうですか」
もっと喜びたい気持ちと詳しく感想を聞きたい気持ちが暴発しそうで、ひたすら恐縮していた。
「私は高橋羽月。高校生でモデルをやってるんだ。あなたは?」
「えっと、名乗るほどの者では」
又聞きとはいえ、相手の事情を一方的に知り、困ったことになるまで放置したこともあるので、恩着せがましく名乗ることに抵抗があった。
「彼女は、鈴木兎姫乃。ウェブ小説家だ」
「おい!」
ガユガインが勝手に紹介し、思わずドスの利いた声でツッコミを入れる。
「へー、小説家かー。頭良いんだ」
「頭はそんなに良くないです」
「いやでもすごいよ。わたしなんか文章書くの大嫌いだもん」
羽月は、自虐をネタにして朗らかに笑う。
一人暮らしの高校生。
一人きりの部屋。
兎姫乃は、羽月の笑い声はこの部屋にとって特別なものに思えた。今まで一人で、悪意と戦ってきたのである。笑うのは久しぶりではないかと思ったのだ。
「あ」
思わず兎姫乃が声を上げる。
「ん?」
釣られて羽月も音に耳を傾けた。
パトカーや救急車がマンションの外を走り出し、空をヘリコプターが飛び回り始めた。
兎姫乃は家に帰って、早く両親を安心させたくなる。避難の途中ではぐれて不安になっていると想像できたのだ。
「あの、それじゃこれで」
兎姫乃は、ガユガインをベッドから拾い上げ、部屋から出ようとする。
「待って!」
羽月が、今にも泣きそうな顔で兎姫乃の肩を掴んだ。兎姫乃よりも背が高く、スタイルもいい勝ち組のような存在が、兎姫乃にすがりついていた。
「お願い。もう少しだけ、落ち着くまで話し相手になってよ?」
震える手が、兎姫乃の胸を打つ。
孤独だ。
羽月は孤独に苦しんでいる。
家族がいれば、友人がいれば変わったかもしれないのに、羽月にはそれがないのだ。寄りかかれる存在。寄り添う存在。そういうものがない。それがなければ、羽月はまた折れてしまうのである。
「兎姫乃、まだ終わっていない」
「うん」
ガユガインに言われるまでもなく、羽月を完璧に浄化したいという気持ちが強く芽生えていた。未熟な小説では完全に浄化できなかったのだ。悔しくもあり、尻拭いをしなければならない責任があった。
「あの、もう少しだけお邪魔します」
「ありがとう! お茶いれてくるね!」
羽月は、目端の涙を拭って笑顔になり、兎姫乃をベッドに座らせると正式に客人として迎えようとする。ズレたテーブルを元に戻し、キッチンへと急いだ。
自分の部屋に客人を呼んだことのない兎姫乃からしたら、とても大人びた振る舞いに見えた。
羽月は、ティーポットとカップをトレーに乗せて、クッキーの詰まったバスケットまで用意して兎姫乃を歓待する。
「そんな、お構いなく」
割と本気のもてなしに兎姫乃は思わず腰を浮かせた。立場が食い違っている気がするのだ。
「ダメ。私の気が済まないから」
羽月は兎姫乃を座らせると、自分も隣に座ってからがっちりと腕を組んで逃がさないようにした。
「寒くない?」
至近距離で羽月が尋ねる。
「え、ちょっとだけ」
「エアコン入れるね。やっぱり夜になるとちょっと涼しいかも」
テーブルの上のリモコンを取って操作すると、暖かい風が部屋を巡り始めた。
「あの、そんなにくっつかなくても」
「ダメ。逃がさないから」
「逃げないから」
「まだ安心できない」
羽月の言葉にはどうしても冷え切ったものがあった。
兎姫乃は、それが不安と不信であると見た。身体を寄せ合ったところで、それは一向に温まることがない。心の冷えをどうにかして取り除く必要があったのだ。
「屋上で気を失う前のことは覚えてる?」
兎姫乃は思い切って尋ねた。
すべてを打ち明ける覚悟で訊いたのである。
羽月に真実を乗り越えてもらうために、とことんまで付き合う覚悟が固まった。
「たしか、自殺しようとしたんだ」
羽月は、兎姫乃の服をぎゅっと握りながら絞り出すように答える。死ぬ覚悟を決めていたことが恐ろしかったのだ。生きていることが不思議なほど追い詰められていた。
「その後は?」
羽月の苦しそうな顔を見るのは辛いが、兎姫乃は真に迫るため心を鬼にする。
「飛び降りた。マンションのガラスに私が逆さまに映ってた。でも、途中から私は私じゃなくな……った」
羽月は怪物になる瞬間を思い出し、慌てて顔に手を当てて肌が干からびていないか確認した。
「ねぇ? わたし、変になってない? あいつらが言う不細工になってない?」
「なってない」
取り乱しそうになる羽月へ、兎姫乃は安心させるように言葉を掛けた。
足りない描写はこれだったと反省もする。羽月の元の姿を知らない以上、あの場では書けなかったとすぐに諦めた。閃かなかった以上、兎姫乃の実力不足だったのだ。
間近で見る羽月の肌は、同じ女性かと思うほど張りがあり、化粧もしてないのに目や唇に色気があるのだ。産まれながらの美貌は、妬みの対象になると納得してしまった。
「同性からは嫉妬されるすっぴんだね」
「そ、そう?」
兎姫乃の感想に羽月は少しだけ嬉しそうになる。この数日間に受けた罵詈雑言でくたくたになった心には何よりの癒やしになったのだ。
「その後のことはどうかな?」
「え、えーと、そこからはよく覚えてなくて。というか私はひたすら泣いていたつもり」
「そうだったんだ」
怪物となった羽月は、絶叫を上げていた。あれは嗚咽だったのだ。
「で、泣いてたら雷が聞こえて、目の前……というか頭の中に文章が浮かんで、『悪口なんて脱ぎ捨てろ』って言葉が残ってて、気付いたら二人がいた」
羽月の話を聞いていたガユガインが無言で何度も頷いた。水から雷に切り替えた自分の判断が正しかったことが証明されて満足していたのである。
兎姫乃も少しだけうるっと来ていた。小説の中の一文が、誰かの心に残ることが初めてで、なによりも嬉しかったのだ。手早く済ませてしまった一幕目。書き出すのに難儀した二幕目。どちらもまったく羽月の記憶に残らなくても悲しくなかった。ガユガインの助言に従って書いた等身大の三幕目の言葉が刺さってくれて、本当に良かったと安堵する。
「私たちは、高橋さんがどうなっていたかを知っています。知りたいですか?」
喜んでばかりもいられず、兎姫乃は確認した。いよいよ真実を告げるときが来たのだ。
「うん」
「とても現実とは思えないこともありますけど、信じてくれますか?」
「もちろん。わたしが生きていること自体がもう不思議だから」
兎姫乃は、羽月のいれてくれた紅茶を一口すすって一呼吸置く。カップをソーサーに戻してから説明を始めた。
「高橋さんは、東京を騒がす怪物になっていました。私とガユガインは、あなたを元に戻すためにさっきまで戦っていたんです」
「私が怪物に? なんで?」
羽月の質問には、ガユガインが適切だと思いアイコンタクトする。
「それは私から説明しよう。今、日本のインターネットは常世とつながっている。わかりやすく言えば日本神話にもある神の国だ。そのため人間の悪意ある言葉が、前代未聞の力を持ち、人間を怪物へと変えてしまう状態にあるんだ」
「神の国とつながってるから、炎上してる私が怪物に?」
「そういうことだ」
羽月は、ガユガインの説明を受けて顔を手で覆ってうなだれた。
兎姫乃は、無理もないと思う。
兎姫乃だって未だに信じられないのだ。