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二章 4

「なんなの。反論できないんだけど」


「なら!」



 期待に膨らむガユガインの声がむかついた。


 兎姫乃は正義の味方になりたいわけではない。ただハッピーエンドの小説を書きたいだけなのだ。


 ガユガインは一人で納得し、八百万の御代筆を背中から取り外すと、兎姫乃へ差し出した。


 頭の中をタイムラグなしに吐き出せる魅惑の道具へ、つい手が伸びて引っ込める。



「兎姫乃! 君の物語で救うんだ! 人間も現実も!」


「その言い方やめろ!」



 兎姫乃はせめてもの一矢でガユガインの言葉をかき消した。心に灯った創作意欲に喜んでいると思われたくなかったのだ。


 ガユガインから受け取った黒塗りの柄を握り、空に掲げてやけくそ気味に叫んだ。



「来たれ! 物語る司人よ!」



 白昼を思わせる目映い光が兎姫乃を包み込み、浮遊感を与えていく。足下が雲に覆われてしばらくすると、暗い東京の町並みを見下ろす空間が現れた。


 兎姫乃は、また雲の上にやってきたのだ。


 漆黒の鎧を纏ったガユガインは、住宅地を踏まないように浮遊しており、夜のとばりをマントのように身につけていた。



「うああああああああああ!」



 絶叫が、兎姫乃へ向けられる。



「それで、今度はなにを書けば良いの?」


「彼女に向けられた悪意を調べてみたのだが」



 姿が見えない理由は、それだった。



「彼女への悪意はエコーチェンバー現象によるものだ」


「エコーチェンバー? なにそれ?」



 聞き慣れない横文字に理解が追いつかない。兎姫乃の眼前へ真っ黒な女の顔が迫る。


 肌は黒く染まってひび割れ、真っ赤な目は干からび、舌は二つに裂けていた。少年誌の表紙を飾るようなグラビアモデルだったと言われても嘘にしか聞こえない。それほど劣化した人間の顔だった。


 同じ性別として、これほど無残な仕打ちはないと兎姫乃は思う。


 高橋羽月は、醜い姿を映す鏡を壊すような勢いでガユガインと組み合った。


 悪鬼の力によって巨大化し、青少年を惑わすほどの美しい身体は、朽ち果てた老木のように細くしわだらけになりながらも、腕力はガユガインに匹敵するほどだった。



「悪鬼のせいでこんな身体に?」


「これは悪意の望んだ形だ。この状態なら雑誌の表紙になってもいいそうだ」



 他人の悪意で醜くなるというのは、美人を主人公にした物語にありがちな話だった。人間には妬み嫉みがあり、優れた者の足を引っ張る心理がある。それは作家として理解できることだった。



「高橋さんは、悪意と戦ったんだよね?」


「そうだ。戦って戦って疲れ果てて、最後には不細工という言葉を受け入れることで受け流そうとして、自分を見失ったのだ」


「美人の宿命か」



 兎姫乃は、美人がどれほど苦労しているかを見せつけられたような気がした。まったく縁のない話題で、未だにピンとこないが、なにか癒やしになる物語が必要なのは理解できていた。



「うあああああああああああああああああ!」



 悪鬼となった羽月が、救いを求めるように巨大化したガユガインの首を絞めようと手を伸ばす。


 ガユガインは、羽月の両手首を掴み、力比べをして時間を稼いだ。



「さっき言ってたエコーチェンバーってなに?」


「ぐ、よ、余裕だな。怖くないのか?」


「いいからエコーチェンバーの説明して」



 二度目ともなれば、ガユガインの中がそんじょそこらの体育館よりも安全な場所であることわかりきっていた。怪物と取っ組み合いをして足下が揺れるだけなら、気も大きくなると言うものだった。



「エコーチェンバーは、閉ざされた空間で、ある思想が増幅されるというものだ。最初に高橋へ文句を付けた母親の周りにはイエスマンしかいなかった。悪口にも等しい文句は正当な主張となり、一切の批判を受け付けない毒牙となって高橋を襲ったのだ」


「ふーん。悪口、ね」



 兎姫乃の乗る雲が、ぶるぶると震えていた。


 ガユガインと羽月の力比べが拮抗している。高橋へ浴びせられた罵詈雑言の凄まじさを示しているのだ。


 それでも兎姫乃の頭の中には物語が渦を巻き、止まることはなかった。



「音、響き、共鳴? いや、反発かな。自分の顔と身体に自信があるなら響くはず」



 兎姫乃は、特定の人物に向けた小説という初の試みに腕が鳴る。


 今まで書いていた犬や猫の出てくる物語は、共感を主体にしたもので読まれなくても自分が満足できる作品だった。これから書く小説は、確実に反応をもらわなければならないのだ。



「書けそうか?」


「黙ってて」



 兎姫乃はガユガインの不安をぴしゃりと塞ぎ集中する。


 不安なんてなかった。頭の中に火でも落とされたような熱が広がっているのだ。少なくとも書けないなんてことはなかった。



「最初に邪魔な言葉を消して、次に少しずつ優しく注いで、最後に打ち返させるような感じ」



 インターネットで調べた三幕構成というシナリオ作成の方法から、三つの場面を設定する。



「一人称で女の子。リスペクト大事。それから、私の卑屈な部分も使えるかな」



 兎姫乃は、八百万の御代筆をくるくると回してから、羽月との格闘で悶える雲の上で執筆に取りかかった。



 『不細工だのブスだの人の悪口を言っている人間は、人を貶すことでしか笑いを取れな

 い三流の芸人と同じだと思え。


  私は少なくともそう思っている。


  私はそうならなくてよかった。


  三流は常に一流のまぶしさに毒づくだけの人生を歩むしかないからだ』



 兎姫乃は中空に万年筆を突き立てて、そこまで書いた。



「これで毒消しになるかな。あまりこれに時間を掛けると、感情移入なくなるよね?」



 ネットで聞きかじった小説の執筆知識を総動員して考える。


 感情移入は、最初がもっとも高く、徐々に減っていくものなのだ。それを維持するために話題転換や事件を起こしたりして、話を展開していくのである。



「とにかく進もう。次は優しい言葉を注ぐ。これに文字をいっぱい使うんだ」



 兎姫乃の頭の中に、高橋羽月というまったく知らない人間を元気づけるための言葉が、あやふやなままに浮かんでは消えていた。どの言葉も相応しくない気がするのだ。こればかりは、筆先の感覚を信じるしかないのである。兎姫乃は深呼吸してから、思い切って文字を書き進める。



 『一流はまぶしい。これは動かざる真実だ。世間から脚光を浴びて、明確に存在を認め られている。その光を浴びるために努力を惜しまなかった人を賞賛しないで、勘違いを


 素直に認められず、悪口を言う人間を褒めろと言うのか。


  私はごめんだ。努力した人間を褒める。


  努力しても脚光を浴びられない人だっているのも知っている。


  その人たちは、一流の人と同じようになりたいから努力していると思う。


  そういう人は、決して一流をバカにしたり、足を引っ張ったりしない。


  一流は目標なのだ。


  世の中から一流がいなくなったら、誰も彼もが悪口を言うようになるだろう。


  そんな三流の世の中はいらない。


  悪口は目立つから気になるけど、それに負ける一流を見たいとは思わない。


  相手にする必要はないんだ』



 文字に迷い、文章に苦しんでじりじりと書き進めた。



「まだか!」



 ガユガインが苦しそうな声で訊く。



「まだ!」



 兎姫乃は、足下の雲が徐々に小さくなっている気がした。雲がなくなったら落ちるのだと、直感する。直感しても、兎姫乃は書くことを止める気はなかった。


 ガユガインの焦りに気付きつつも、納得のいく結末を書き終えていない感覚に苛つく。とてもではないが、ハッピーエンドという話にはならないのだ。



「なにか違う。主人公はどうやったら幸せになる?」



 頭の中の想像の輪がぐるぐると回る。犬猫が登場する物語では、彼らが活躍して救われることで幸せを感じるのだ。いま兎姫乃が書いている物語は、毒消しと励ましで救いがない。とても悪鬼から人間を救い出せるような物語にはなっていなかった。



「少し助言させてもらうとっ!」


「なに?」



 ガユガインが、悪鬼となった高橋羽月と取っ組み合いをしながら口を開いた。



「その主人公が誰かを救おうとしているのは、だれがどう読んでもわかる。だから、あとは兎姫乃の等身大の言葉をぶつければいいんだ!」



 ガユガインの指摘で、兎姫乃の頭に浮かんでいた言葉が一瞬で整理された。


 他人行儀なおべんちゃらは消え去り、遠慮のない言葉たちだけが残ったのだ。それらの言葉は、兎姫乃が最初に考えたクライマックスに相応しい言葉たちだった。

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