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退職後、私の見積額は月給の三倍になりました  作者: ちょこまろ


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最終話 明日からは、私が私の値段を決める

かつて自分を「サポート職」として扱っていた会社へ、里帆は外部コンサルタントとして戻ります。


同じビル。

同じ会議室。

同じ人たち。


けれど、もう彼女の立場は違います。


誰かに見つけてもらうのを待つのではなく、自分の名前で、自分の仕事として向き合う。


安く扱われた十年の先で、里帆が選ぶ答えを見届けていただけたら嬉しいです。

 受付で来客証を受け取る。


 それだけで、不思議な気分だった。


 同じビル。

 同じエレベーター。

 同じ廊下。

 同じ会議室。


 けれど、里帆の立場はもう違った。


 会議室には、奥村、佐久間、奈々、営業部の課長数名が座っていた。


 里帆が入ると、全員が少し緊張した顔をした。


 奥村がぎこちなく言った。


「今日はよろしくお願いします」


「よろしくお願いいたします」


 里帆は資料を配った。


 表紙には、こう書かれていた。


 大成ホーム案件

 進行管理再設計案


 作成者

 瀬川里帆


 自分の名前が表紙にある。


 それだけのことなのに、胸が熱くなった。


 会議が始まると、里帆は感情を挟まず、問題点を整理した。


「今回の主な問題は三点です。一つ目は、発注期限の責任者が明確でなかったこと。二つ目は、仕様変更の反映ルールが存在しなかったこと。三つ目は、顧客との合意事項が担当者個人の記憶に依存していたことです」


 佐久間が少し顔をしかめた。


 以前なら、里帆はそこで言葉を弱めていた。


 だが、今は違う。


「この三点が改善されない限り、担当者を変えても同じことが起きます」


 奥村がうなずいた。


「具体的には、どうすればいいですか」


「まず、案件ごとに決定事項の記録シートを作ります。口頭確認は禁止です。次に、発注期限の三営業日前に、営業、企画、仕入れの三者で確認します。最後に、仕様変更は顧客からのメールまたは議事録で残す。これをルール化してください」


 奈々が必死にメモを取っていた。


 佐久間は小さく言った。


「そこまでやる必要ありますか」


 里帆は佐久間を見た。


「あります」


 短く言い切った。


「今回、そこまでやらなかった結果、役員宛の正式なクレームレターを受け取り、追加発注が一時停止されています」


 会議室が静まり返った。


 佐久間は何も言えなかった。


 里帆は続けた。


「これは誰か一人を責める話ではありません。仕組みの問題です。ただし、仕組みがないことに気づきながら放置した場合は、個人の責任になります」


 奥村がゆっくりとうなずいた。


「わかりました」


 その言葉を聞いて、里帆は思った。


 会社員時代に、なぜこの一言がもらえなかったのだろう。


 けれど、もういい。


 今は、料金が発生している。


 今は、里帆の言葉に仕事としての重みがある。


 会議の終わり際、奈々が小さく手を上げた。


「あの、瀬川さん」


「はい」


「私、引き継ぎ資料をちゃんと読めていませんでした。すみません」


 里帆は少しだけ驚いた。


 奈々は顔を赤くしながら続けた。


「多すぎるって思ってました。でも今日、必要なことだったんだとわかりました」


 里帆は静かにうなずいた。


「最初から全部できなくていいです。ただ、わからないまま進めないでください」


「はい」


「それから、できない量を抱えたときは、早めに言ってください。黙って抱えると、結局誰かが壊れます」


 奈々の目が少し潤んだ。


「はい」


 会議が終わったあと、奥村が里帆を廊下で呼び止めた。


「瀬川さん」


「はい」


「正直、君がここまでやっていたとは思っていなかった」


 里帆は奥村を見た。


 その言葉は、謝罪ではなかった。


 だが、以前の奥村なら言わなかった言葉だった。


「そうですか」


「悪かった」


 短い謝罪だった。


 十年分には足りなかった。


 足りなかったが、里帆はもう、その不足を埋めてもらおうとは思わなかった。


「今後は、残っている方を正しく評価してください」


 里帆はそう言った。


 奥村は目を伏せた。


「そうする」


 里帆は頭を下げ、会議室を出た。


 外に出ると、空は晴れていた。


 風が少し冷たかった。


 里帆は駅へ向かって歩いた。


 途中、ガラス張りのビルに自分の姿が映った。


 紺のジャケット。

 白いブラウス。

 低いヒール。

 肩にかけた仕事用のバッグ。


 以前と大きく変わったわけではない。


 でも、顔が違った。


 誰かに見つけてもらうのを待っている顔ではなかった。


 自分で自分を連れていく顔だった。


 三か月後。


 里帆は個人事業主として正式に開業届を出した。


 屋号は、セガワ業務設計室。


 派手な名前ではない。


 でも、里帆にはそれがしっくりきた。


 大成ホームとの契約は継続になった。


 さらに、宮原の紹介で別の建設会社からも依頼が来た。


 業務整理、資料設計、案件管理。


 会社員時代には「雑務」と呼ばれていた仕事が、外に出ると「専門性」になった。


 里帆は忙しくなった。


 けれど、不思議と以前のようにすり減らなかった。


 仕事の範囲を自分で決められる。


 金額を自分で提示できる。


 無理な依頼には、無理だと言える。


 それだけで、働くことはこんなにも違うのだと知った。


 ある金曜日の午後、里帆のもとに奈々からメールが届いた。


 件名は、近況報告です。


 瀬川さん


 お久しぶりです。

 突然のご連絡すみません。


 私、来月から営業企画の正式担当になります。

 まだまだ不安ですが、瀬川さんが残してくださった資料を読み直しながら、少しずつ覚えています。


 この前、部長に業務量の相談をしました。

 前なら言えなかったと思います。


 瀬川さんが最後に言ってくれた、できないことは早めに言った方がいい、という言葉を思い出しました。


 ありがとうございました。


 里帆はメールを読み、しばらく画面を見つめていた。


 自分が辞めたことで、すべてが劇的に変わったわけではないだろう。


 会社にはまだ古い空気が残っているはずだ。


 でも、少なくとも一人は、黙って抱え込むことをやめようとしている。


 それで十分だと思った。


 里帆は返信した。


 奈々さん


 ご連絡ありがとうございます。

 正式担当、おめでとうございます。


 全部を一人で背負わないこと。

 わからないことを曖昧にしないこと。

 自分の仕事を、自分で軽く扱わないこと。


 この三つだけ忘れなければ大丈夫です。


 応援しています。


 送信したあと、里帆はパソコンを閉じた。


 窓の外は夕方だった。


 会社員時代なら、これから誰かの資料修正に追われていた時間だ。


 今は違う。


 今日の仕事は、ここで終わり。


 里帆は立ち上がり、キッチンでお湯を沸かした。


 お気に入りのマグカップに紅茶を注ぎ、机の上に置く。


 湯気がゆっくりと立ちのぼる。


 スマートフォンに、新しいメールの通知が届いた。


 差出人は、奥村だった。


 里帆は少し迷ってから開いた。


 瀬川さん


 お世話になっています。

 来期の新規案件に向けて、再度コンサルティングをお願いできないでしょうか。


 今回は、初期段階から正式に依頼したいと考えています。

 条件については、瀬川さんの見積をもとに検討します。


 里帆は読み終えて、静かに笑った。


 以前なら、急ぎます、すぐやります、と返信していただろう。


 今は違う。


 カレンダーを確認する。


 来月前半は予定が埋まっている。後半なら打ち合わせが可能だ。


 里帆は返信を打った。


 奥村様


 ご連絡ありがとうございます。

 現在、来月前半の新規案件はお受けできません。


 来月後半以降であれば、初回ヒアリングが可能です。

 業務範囲を確認後、見積書をお送りします。


 どうぞよろしくお願いいたします。


 送信。


 たったそれだけのことが、里帆にはとても誇らしかった。


 誰かの都合に合わせて、急いで自分を差し出さない。


 自分の時間を、自分で守る。


 自分の仕事に、自分で値段をつける。


 それは、特別な成功ではないかもしれない。


 けれど、里帆にとっては十分すぎるほどの逆転だった。


 夜、里帆は部屋の照明を少し落とした。


 机の上には、開業届の控えと、初めて自分の名前で発行した請求書のコピーが並んでいる。


 会社員時代の給与明細も、一枚だけ残してあった。


 それを見比べて、里帆は思った。


 あの頃の自分は、安かったのではない。


 安く扱われていただけだ。


 価値がなかったのではない。


 価値を見ない場所にいただけだ。


 里帆は給与明細をファイルにしまい、請求書のコピーを机の一番上に置いた。


 過去を捨てるためではない。


 忘れないためだった。


 もう二度と、自分の仕事を「たいしたことない」と思わないために。


 もう二度と、誰かの便利な空白にならないために。


 スマートフォンのカレンダーには、来週の予定が並んでいた。


 大成ホーム定例会。

 新規問い合わせ面談。

 資料設計レビュー。

 税理士相談。

 午後休。


 午後休。


 その三文字を見て、里帆は小さく笑った。


 会社員時代、平日の午後に休むことは、どこか罪悪感があった。


 今は違う。


 休むことも、仕事を続けるための大切な予定だ。


 里帆は紅茶を一口飲んだ。


 温かさが、ゆっくり身体の中に広がっていく。


 派手な復讐はしていない。


 誰かを罵倒したわけでもない。


 会社を潰したわけでもない。


 けれど、里帆は確かに取り戻した。


 自分の名前で働くこと。

 自分の時間を守ること。

 自分の仕事に正しい値段をつけること。


 そして何より、自分自身を雑に扱わないこと。


 窓の外には、いつもの街の灯りがあった。


 でも、今夜の里帆には、それが少しだけ違って見えた。


 どこかへ向かうための灯りに見えた。


 安く扱われた十年は、もう終わった。


 明日からは、私が私の値段を決める。


 それでよかった。


― 完 ―

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


安く扱われていた十年は、里帆にとって決して無駄ではありませんでした。

けれど、もう二度と自分の仕事を「たいしたことない」とは思わない。


自分の名前で働くこと。

自分の時間を守ること。

自分の仕事に、自分で値段をつけること。


里帆が取り戻したものが、読んでくださった方の心にも少しでも残れば嬉しいです。

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