8.国王ウィルフレッド 1
セシリアが部屋を後にしてからそう時間は経っていない。恐らくセシリアとは会っていないはずだ。わざと会わないように時間をずらしたのかそれともたまたまか…。どちらにしろ、早々に退出願ってセシリアの元へ送り出さねばならない。
「宰相、痛い?」
「いやまぁ、痛いですが昨日ほどではありませんよ」
部屋に入って来て早々にほぼ無表情でそう言った国王ウィルフレッドは「ふーん…?」と首を傾げるとつい三十分ほど前までセシリアが座っていた寝台横の椅子に糸の切れた人形のようにぺしゃりと座った。
「で、どうしたんですか、陛下」
「僕がお見舞いに来るかもしれないとは思わないんだね」
「来たとしてもお見舞いがついでですよね」
「うん、そうなんだけどね」
椅子にだらりと座りヴァージルのベッドに突っ伏して顔だけ上げたウィルフレッドにヴァージルは苦笑した。
「こってり怒られましたか」
「うん、ちゃんと怒られたよ」
「またライオネル殿下に被せましたね」
「僕は被って欲しいと思ってないよ」
「それでも被るのがライオネル殿下でしょう」
「納得いかないよね。レオはあんなに良い子なのに」
「そう思うなら大人しくしていてくださいよ」
「ん-、暴れてるつもりは無いんだけどなぁ…」
ベッドの上にだらりと投げ出されたウィルフレッドの両の腕が、ふかふかの分厚い布団をばふばふと叩いた。
「まぁ、暴れているおつもりがあるのなら妃殿下とライオネル殿下のために立ち止まるでしょうからね」
「うん、困らせたいわけじゃないし」
「無自覚だから余計に困るっていうのは分かります?」
「分かるけど判らない」
「あー。困らせてるのは分かっても何が困らせる行動か判別できないと」
「そんな感じかな」
「あなたいくつですか……」
「あと十日だけ三十三?」
「あ、御自身の年齢覚えてたんですね」
「再来週生誕記念祭だからさ。最近セシリアに毎日聞かれるんだよね。次のお誕生日で何歳になるの?って」
「あー……うん、そうですか……」
話だけを聞いていればだいぶ頭の弱い残念な人に思えるが、ウィルフレッドは人として酷く欠けているだけで頭の出来具合だけで言えばセシリアにも勝る。ただ、様々なことに興味を持てないだけなのだ。
あまりにも興味の有る無しが極端なせいでただの変人に成り下がってしまっているが、だからこそヴァージル達も散々出し抜かれてしまうのだ。ウィルフレッドの興味が向いた時点でヴァージル達に勝ち目はない。
「あー、えー、陛下。何があったんでしょうか?」
セシリアの涙ぐましい努力に若干強めの胃痛を覚えつつヴァージルが首を傾げると、ウィルフレッドは「うん?」と言って起き上がりぐーっと両腕を上に上げて伸びをした。
「うん、お見舞い」
「だからそれはついでですよね?」
「違うよ?今日は特に何もないし」
「………冗談ですよね?」
「僕が冗談言うとこ想像できる?」
「どっちも無理です」
ヴァージルは自分を抱きしめるとふるりと震え、ついでに首もふるふると横に振った。
「だろうね。僕も何で来たのか良く分かんないんだ」
伸ばした腕をそのままぐるりと回してから腕を組むと、ウィルフレッドは「うーん?」と唸りながら首を傾げた。
「分かんないんですか…」
「そうなんだよね。何か、来なきゃいけない気がしたんだよね」
「それはまた……」
これは本当に見舞いに来たようだ。ヴァージルが官吏になってすでに四十年近く、宰相になってから十一年が経つが、まさかウィルフレッドに理由もなく見舞われる日が来るなどさっぱり思っていなかった。
「やっぱり育ってるのか…」
「うん?どういうこと?」
不思議そうに首を傾げるウィルフレッドは相変わらずあまり表情は無いが、元の容姿が少し口角の上がった穏やかな美丈夫のため王弟の護衛騎士ジェサイアのように恐ろしくは見えない。容姿の良さで助かっている感じだ。ジェサイアもきりりとして格好良いのだがそれが怖さにつながってしまっている。
「あー…そうですね。えーっと陛下、お見舞いありがとうございます」
「うん。あ、見舞いの品は後で届けさせるからね。美味しい焼き菓子を持って来ようと思ったんだけど、厨房で聞いたら止められたんだよね。今の宰相閣下に焼き菓子なんて食べさせちゃ駄目だって」
「まぁそうでしょうね。私もありがたくいただきはしますがさすがに今はそのまま妻に渡すと思います」
「あ、それ良いね。焼き菓子も付けとくね」
「は?『良い』ですか?」
「うん、夫人が嬉しいと宰相、嬉しいでしょ?内宮の焼き菓子美味しいよ?」
「…………育ってる!育ってるようちの子!!」
ヴァージルは両手で顔を覆って天を仰いだ。聞いただろうか?今この他者への興味が極端に薄いウィルフレッドがヴァージルが嬉しいだろうからとヴァージルの愛妻アナベルに焼き菓子を贈ると言ったのだ。ヴァージルが嬉しいから……セシリアでもない、ライオネルでもない、ヴァージルが嬉しいからと言ったのだ。
「ん-……何かさ」
ヴァージルが両手で顔を覆ったまま本気でちょっとだけ涙ぐんでいると、ウィルフレッドがぽつりと言った。両手を開いてちらりと見れば、ウィルフレッドの眉が困ったように下がっている。
「正直、セシリアとライオネルがいればどうでも良いし、セシリアとライオネルが悲しむからフレッドもティーナも大事にしなきゃなって、思ってたんだよね」
「はいはい、存じておりますよ」
「宰相もさ、いなくなるとセシリアとライオネルが困るから大事にしなきゃって思ってたんだよね」
「あ、理由はどうあれ大事にしようって思っててくれたんですね!」
「うん、そりゃあね」
またも感涙しそうになったがぐっとこらえてヴァージルは「それで、どうされました?」と先を促した。
「あ、うん。あのね、何か、嫌だなって思ったんだよ。セシリアが泣くからとか、ライオネルが悲しむからとか……そうじゃなくてさ、僕が嫌だと思ったんだよね。フレッドがいなくなるのも、宰相がいなくなるのもさ」
「だからフレデリック殿下を追い掛けて、こうして私の見舞いにも来て下さったんですね」
「うん、そうみたい。びっくりしたんだけどね、僕、フレッドに『愛してる』って言ったんだよ。いつもみたいに言おうって思ったんじゃなくてね、勝手に言ったの」
「陛下が、そう思われたんですね」
「うん、そうみたい」
不思議だよね、と首を傾げたウィルフレッドにヴァージルは笑った。
「いなくなるのが嫌ですか?」
「うん、嫌だよ。セシリアとライオネルは当たり前だけど、フレッドも、ティーナも、宰相も、オリヴィアも…ダレルも嫌だな。いなくなるなら、潰すよ」
「何をですか!?」
「うん?いなくなる原因だよ?」
「ああ、離れて行くくらいなら死んでくれみたいな病的なやつじゃなくて何よりです」
「何言ってるのさ、死んじゃったらそれこそ居なくなっちゃうでしょ」
「あ、そこの理解はあるんですね」
「当たり前のことでしょ……?」
更に不思議そうに眉間にしわを寄せて首を傾げたウィルフレッドにヴァージルは更に笑みを深くした。「どうでも良いよ」が口癖だったウィルフレッドと同一人物とは思えない。間違いなく、ウィルフレッドの中に欠けていた情緒やセシリアとライオネル以外の人間への配慮や愛情が見える。
二十年近く見てきたが、ウィルフレッドはいつの間にこれほど人間らしく育ったのだろう。情けないことにヴァージルは気付いていなかった。
「では、そんな陛下にお願いがあるのですが」
「何?」
「ダレルの他にもうひとり侍従を置いてください」
「え、やだよ」
「ダレルが辛い思いをしてもですか?」
「………どういうこと?」
心底嫌そうに眉をひそめて顔をそむけたウィルフレッドが、ダレルが辛いという言葉にぱっとヴァージルを振り返った。
ウィルフレッドが育っている…そう思うと、痛いはずのヴァージルの胃の辺りがじんわりと温かくなった。




